わたしの「非正規」学校司書ライフ
さて。
前回までで、わたしが「非正規」学校図書館司書になった経緯は十分知っていただけたと思う。今回はわたしが「正規」図書館職員になるまでの経緯を語りたい。
とくに、今回は私の就職一年目の模様を語ろうと思う。
詳しい仕事内容についてはまた別記事にて話す。今回はざっくりとした経緯をまとめることにしたい。
まずは、わたしの非正規生活の幕開けを語らねばなるまい。
前回言った通り、非正規学校図書館司書の職が決定したのは2月末日。わたしは非正規といえど、辛くもぷー太郎を回避したのであった。(別にわたしは働きたくないので、ぷー太郎でも全然構わなかったが。その場合、両親は猛り狂ったことだろう)
さて、ここで問題になったのが勤務先である小学校と実家の距離だった。どれだけスムーズに行こうと、絶対に車で片道1時間半はかかる距離だ。しかも、その頃のわたしはペーパードライバーもいいとこだった。とてもじゃないが、そんな長距離運転をこなすことはできない。
そんなわけで、電車通勤になるわけなのだが。
ここで問題が発生する。
電車で通勤する場合、
電車→バス→職場(学校)
というルートになる。しかし、過疎地あるあるでバスの本数が1時間一本だったりする。
そのせいで、たとえ電車の始発に乗ったとしても始業前に到着することは不可能であった。
この時点で、わたしの勤務地への移住が決定してしまった。
本音を言うなら、わたしは三十路くらいまで美味しく親の脛をかじり尽くす予定だったのに。
齧って齧ってなくなったら独り立ちするかなーとか思っていたのに。(なくならない限りは齧り続ける気満々だった)
大いに予定が狂ってしまった。
だから、実家住まいの友人には「親の脛は齧れるだけ齧れ」「絞れるだけ絞っておけ」と口を酸っぱくして言いたくなる。
さらに問題があった。
すぐに移住できないのだ。
なんとか物件は見つかったものの、入居できるのは一ヶ月半先。仕事が始まってしばらくしてからだった。
そこからはもう大変。
早朝5時に起きて仕事に通いながら、引っ越し準備に追われる日々。死にそうだった。
無事一人暮らしを始めてからもいろいろあった。まず、初日から水が出なかった。
不動産屋が手配すると聞いていたので、そのままにしていたら、出なかったのだ。
父が怒り心頭でクレームしたが、結局不動産屋は何一つフォローすることがなかった。あの長電話は一体なんだったのか。とにかく二度と関わりたくない。この一件から、わたしは不動産屋そのものに拭がたい不信感を持っている。
そんなこんなで初日から風呂に入れなかった。意味わかんねー。
あとは、フローリングに布団を直引きしていたらびっちりカビが生えたとか、引越し数日で電球が死んで、暗闇の中風呂に入ったとか。ほんとにいろいろあった。
そんなこんなで働き始めたわたしだったが、同時に公務員試験の通信教育も受けていた。
無論、司書の正規採用試験に受かるためである。
これは、やってよかったかと言われると正直微妙だ。なぜなら、初年度の私に勉強の余裕など皆無だったから。
ただし、面接の準備やエントリーシートの書き方の指導などとても役立つことを教えてもらえたので、全く良い点がなかったとはいえない。フルで活用することができなかったのは、悔やまれるが。
そんな余裕のない日々だったので、
仕事に行く→倒れて寝る
の繰り返しな日々だった。
そして、この限界生活の中でも外食は許されない。なぜなら金がないからだ!!
そして、休日は死に体で寝ているか勉強。
永遠に続く地獄のループのなかで、唯一の楽しみといえば友人を家に呼び、月に一回お泊まりしてもらって遊ぶこと。
そう。勤務地は大学時代の親友宅に近かったのだ。
さて。先程、金がないと言った。
どうして金がないのか。
それは言うまでもなく、給与が低いからだ。
私の場合、初年度は「臨時職員」として雇われていた。
この勤務形態だと給料は日割りで月末21日にまとめて支給されていた。たしか、一日7500円程度だったか。
手取りはおよそ、10万から12万の間。
なぜ、幅があるのか。祝日は当然休みである。するとどうだろう。祝日の多い月は給与が下がるのだ!
なんと言う理不尽。
そんなわけで私の生活はカツカツもいいとこ。当然外食などほぼできるはずもなかった。
そんな感じでひいひい言いながら、日々を乗りこなしていたわたしだった。
しかし、ここでさらに追い討ちをかけるものがある。
新しく受ける公務員試験の申し込み手続きである。
あの地獄のループに一つ訂正を加えるならばこうだ。
仕事に行く→倒れて寝る→早朝起きてエントリーシート
である。
しかも、キツイのはほぼ紙媒体での提出であること。しかも、一次試験からがっつり志望理由を書き込む欄がある。加えて、試験日程が近い場合が多いため、複数受験するとかなりキツイスケジュールをこなさなければならなかった。誤字脱字は命取り。最初から書き直すこともある。出来上がるのは大体締め切りギリギリだった。朝四時まで仕方なく起きて書いていたこともあった。(基本ロングスリーパーなので、めちゃめちゃきつかった)
そして、当然エントリーシートに貼る写真代もかさむ。
ぐうううう金がふってこねぇーかな。と、毎日思っていた。
わたしは結構口から出してスッキリするタイプだ。
だから、職場の人はみんな生徒に至るまで、わたしの金がないことを知っていた。わたしが自分で言いふらすからなのだが。
そんなわけで、しばしばお野菜のお恵みをいただいたりしたものだった。ありがたやありがたや。住処のお隣さんなんかからもよくお裾分けを頂いた。
メシアーーーー!
あとは、実家からの食料供給でなんとか賄う日々だった。
こんな感じで結構大変だったが、仕事は楽しかった。(たびたひお説教を食らい、目が腫れ上がるまで泣くこともあったが)わたしは日々、司書という仕事を好きになっていった。
はじめて勤めたその市は、なかなか図書館や学校図書館に金を使ってくれる市だった。専任司書が全ての小中学校にいる。みんな熱心だった。月に一回は定例会もあったりして、そこで情報収集に励んだものだ。司書仲間と食事に出かけることもたまにあった。
そんなこんなでバタバタしていたら、あっという間に一年が過ぎた。この上なく充実し、熾烈な一年だった。
この間に図書室ではいろいろな取り組みをしたが、それまた別の機会に紹介したい。
そして、とうとう働きはじめて二年目をむかえるのである。
それは、わたしがとうとう正規図書館司書となった年。
そして、世界的にも大きな変化を迎えた年だった。
次回を刮目して待て。
それではまた次回。
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