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人の振り見て我が振り直せ

自戒を込めて、記録しておく。 人に一度目の注意をするときは、事実とリクエストを伝えるだけで十分だと思う。 自分の非を認めて反省するだけで、エネルギーを使うのだから、次から気をつければそれだけで十分。 問題は、人の失敗を非難すること。 「やる気がないの?」と憶測で責める。 「他の人はこうだった」と人と比べる。 こんな言い方をされると、それを言った人自身の価値が下がる。信頼を失う。言ってスッキリしたいのかもしれないが、引き換えに失うものは大きい。 それから、本人のいないとこ

    • ご機嫌と、暮らし

      自分が好きな自分でいられることが、私にとって1番大切。自分が好きな自分っていうのは、ご機嫌な自分。 じゃあ、どうやってご機嫌な自分を保つのか。 暮らしを整えるといい。暮らしを整えるためには、仕事は頑張るけどほどほどに。定時に上がって、暮らしにあてる時間を守る。 最初から、暮らしを優先できていたわけではない。3年間、朝早くから夜遅くまで仕事をした結果、私は私を死にたくなるほど嫌いになり、体調を崩してしまった。部屋はごちゃごちゃで、毎晩コンビニのお惣菜コーナーの前で何が食べた

      • 弱さは強さ

        自分の弱さを自覚して、向き合おうとしている人ほど、強い人はいない。 弱さは強さ。糧になる。

        • 人生の転機

          対話を、本質を、大切にしたいと思っていたはずなのに、対話ができていないことに気づきながら、本質から目を逸らして、最初は小さな雪の粒だったものが、ころころ転がるうちに大きな雪玉になっていくように、不安や引っかかりが、ころころずんずん大きくなった。 そんな風に漠然と膨らんでいく、もやもやした日々の中で、人生の転機というものは、なんの前触れもなく訪れる。(いや、もやもやが前触れなのかもしれないけど。) 次から次に、これが運命というものなのかと不確かなものを実感してしまうほど、状況

        人の振り見て我が振り直せ

          私の中に息づく優しさ

          小学生時代の私は、とても嫌な女の子だった。友達の悪口を言ったり、仲間はずれにしたりしていた記憶がある。 たくさん人を傷つけてきた。一方で、たくさん傷つけられてもきた。 いま私の中に息づく優しさは、誰かを傷つけて手に入れたものなんだろう。 人生の選択が迫られたとき、判断するために1番大切なのは、自分がどうしたいかなんだって、そう思う。 でもやっぱり、それだけでは幸せになれないこともあるんだね。 目の前に優しさをもって選択すべき問題が立ちはだかり、自分の中の優しさを疑い、自分の

          私の中に息づく優しさ

          祖母の手

          「指が曲がってしまって嫌だわ。」 と呟く祖母。 「そんなことないよ。」 畑仕事や牛の世話、家事や町内会の仕事。たくさん働いて、たくさん頑張って、家族を守ってきた祖母の手。 祖母がどんな気持ちで自分の手を好きになれないでいるのかを思うと、(私は好きだよ)その一言が言えなかった。 8月5日は祖母の82歳の誕生日。 プレゼントは何がいいかな。めぐりめぐらし思いついたのが、爪のお手入れ。働き者の祖母が、手仕事を滞りなくできるよう、ネイルはせずに磨くのがいいと思った。 「ばあちゃん、

          祖母の手

          「お笑い」に感じるお洒落

          「お笑い」ってジャンル、お洒落なイメージありません?バンド好きとか、古着好きとか、そういう類の「お笑い好き」。バナナマンさん、オードリーさん、アルコ&ピースさん、諸々。 私がちっこいときに、レッドカーペットやらエンタの神様(今の若い子は知らないであろう…悲)やら、お笑い番組が好きでよく見ていたのは覚えているけれど なんでだろう、感覚的に、「お洒落な感じ」がするんです。最近。 お笑い芸人さんのオールナイトニッポンを夜な夜な聴いていたあの頃。街が静寂に包まれる中、ひたすらラジ

          「お笑い」に感じるお洒落

          女性の前で申し訳ないけどさ、

          「女性の前で申し訳ないけどさ、」 その後に続く言葉は、女性への偏見。 もっと言うと、差別。 「歳とった未婚の女性って、頭硬いよね。」 「生理がしんどいのは分かるけど、休むのは気持ちの問題でしょう。」 「申し訳ない」ってことは、彼らには自分の発言が偏見だという認識があるらしい。 でもそれが偏見(差別)だということを”本当の意味”では分かっていないのだろう。 それを聞いた女性が傷つくであろうことを知らない。 何度も何度も何度も言われた 「女性の前で申し訳ないけどさ、」 それ

          女性の前で申し訳ないけどさ、

          雨が降ると、浮き足立つ。 子どものころ、雨が降ると 傘をささずに家を出て 親に叱られていた。 居眠りばかりする授業も、 雨の音がするときは目が覚めて どこかいつもと違う、ふわふわした気持ち 主旋律は先生の声ではなく 友達の声でもなく、せつなさを纏う雨。 雨が降るだけで、特別な1日になる。 雨が嫌いだという人の気持ちが分からなくて 髪が乱れるとか、低気圧とか、 そんな理由があるんだろうなと 想像はできるけど 雨が待ち遠しくて仕方がなかった。 いつからか 雨を待つことをしなく

          駄文

          人の感情というのはなぜこんなにも複雑で面倒臭いのだろう。感情というものがなければ、感性というものがなければ、喜びもない代わりに苦しみもないのに。そう何度妄想し、悲願し、絶望したことか。感情と言葉はその実ほとんど同一のものであると考えている。言葉というものがなければ、ある側面で生きることはもっと楽だったに違いない。言葉を紡ぐことは甘美なようでその裏は実に苦い。その主成分は劣等感と嫉妬と憧れであり、言葉に執着しているからこそ味わうものなのだろう。「諏訪哲史」こんな人間がいるのだ世

          愛する人が死ぬこと

          愛する人が死ぬことをひどく恐れている。 ふとしたとき、もしいま愛する人が死んだらと、要らぬ考えが頭をよぎる。 思えば、子供の頃からそうだった。 例えば、祖父母。 まだ2人の腰がピンと伸びている頃から、会いに行くたびに あと何回会えるだろう。あと何回一緒にお散歩ができるだろう。と、密かに心配し、その時その時を、溢さないようにとすごしていた。 でも、生きる者にとって唯一平等に与えられた死は、決して避けることはできない。 大好きな祖父が亡くなったとき、それはそれは泣いた。悲しか

          愛する人が死ぬこと

          運命とか直感とか。

          本当に必要なことは自ずと”その時”がくると信じていて、それは運命とかスピリチュアルなものを信じているわけではない。そういう機会を逃さずに向き合える自分を信じているということだと、ふと思った。 直感が大抵当たるのも、それは直感ではないのだと思う。周りの環境や人と接する中で、言語化するより先に本質を感じ取っていて、 そこから導き出されるものを、”直感”だと言っているのだろう。

          運命とか直感とか。

          エモってのはさ、

          日常の中で感じるもの 特別ではないこと でもそれを特別なことなんだって考えること。 だと思うの、私はね。 昔からあるでしょ、 国語で習ったでしょ、諸行無常。 エモって四字熟語にすると諸行無常。 喫茶店のクリームソーダだって 最初はエモを提供しようとしていたわけではない。当時のハイカラなわけでしょ。 それを何十年後、私たちがエモって呼び始めた。 なんとも言いがたい、心の琴線に触れるものをエモというのだと知ったとき、やっと言葉にしてこの気持ちを伝えられると思った。 でもエ

          エモってのはさ、

          ギターと髪

          午前3時、車の中で 大学の先輩が語った物語を、 忘れないように書き留めておく。 ーーーーーーーーーーーーー あるところに、貧しい夫婦が暮らしていた。 夫はギターを奏でるのが好きで、妻は美しく長い髪をもっていた。 ある日、夫は妻にプレゼントを贈るため、大切にしていたギターを売った。 そして夫は、妻の喜ぶ顔を思い浮かべながら、素敵な櫛を買った。 家に帰ると、妻の美しく長い髪は、短くなっていた。妻の手には、夫が欲しがっていた銀のピック。 妻は、夫に銀のピックをプレゼントする

          ギターと髪

          エモ疲れ

          今年に入って、本を読むようになった。 勤め先に、2週間に1回移動図書館がくる。 ふと、久しぶりに本でも読もうかという気持ちになったのだ。 読むのはもっぱら物語。 今読んでいるのは、有栖川有栖の「怪しい店」 13ページほど読んでふと思った。 私はエモ疲れしている、と。 心を揺さぶられる言葉もいいけれど、 この本は、すっと入ってくるのだ、文章が。 なんとも単純明快。 ただただ物語の続きが気になって、 どんどんページをめくってしまう。 これこれ。 15歳の頃の文学少女だった私

          エモ疲れ