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私の中に息づく優しさ

小学生時代の私は、とても嫌な女の子だった。友達の悪口を言ったり、仲間はずれにしたりしていた記憶がある。
たくさん人を傷つけてきた。一方で、たくさん傷つけられてもきた。
いま私の中に息づく優しさは、誰かを傷つけて手に入れたものなんだろう。

人生の選択が迫られたとき、判断するために1番大切なのは、自分がどうしたいかなんだって、そう思う。
でもやっぱり、それだけでは幸せになれないこともあるんだね。
目の前に優しさをもって選択すべき問題が立ちはだかり、自分の中の優しさを疑い、自分の信念を疑っている。

人を傷つけて獲得した優しさって、何?どこまでもベクトルが自分に向いている優しさなのではないだろうか。
見返りを求めない無条件の優しさ…愛されて得る優しさに敵わないのだとしたら、私の中に息づくこの優しさは、欠陥品なのだろうか。

嫌われたくない、失いたくない、1人になりたくない、嫌な人間になりたくない、そんな思いが優しさとして表れているのだとしたら。果たして後悔のない選択をすることができるのだろうか。

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