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自分で決めているという錯覚

自由意志はあるのか?

私たちは自分の行動を自分で意識的に選択していると思っています。

わたしは本noteで、
主体的に自分軸をもつことが人生の充実につながるとよく書いているのですが、
私たちには自由意志など存在しないかもしれません。

今回は、全体の一部としての自分という視点で意志と人生について考えてみます。

受動意識仮説


受動意識仮説とは、
意識は自ら命令を出して脳を動かしているのではなくて、脳の自立分散処理を受動的に見て、
それを「あたかも自分がやったかのように錯覚する」だけだという説です。

つまり、自分が自分の意志で選択したと考えているだけで実際は自分の意志が介在するより先に選択が決まっていたということになります。

川を水が流れている時に水は自分の石で海に向かって進んでいると思っていたけれど、ただ高いところから低いところに流れているだけというのと同じです。

虚無のその先へ

自由意志はない。

それが科学的に真剣に考察され、
おおよそ確からしいと思われているわけですが、

それを聞いて、
じゃあ何もする意味はない。

自分の意志はないのだから、
人生に意味などない。

と考える人もいるかも知れません。


確かにそうかもしれません。

人生に意味などありません。

虚無です。

しかし、意味をつけることはできます。

自由意志で動いていなくても、
自分で自分の人生に意味を付与する事はできます。

意味を付与すること自体も自由意志ではないのでしょう。
しかし、それでもいいのです。

自由意志であろうがなかろうが、
自分の心が今この瞬間に満たされていれば良いのです。

執着を手放す

むしろ、
自由意志はないというのは、

自分には使命がある。

などと自分の人生に過度に意味を持ってしまうことの良い薬になります。

もちろん、自分の人生に強く意味を感じることは良いことですが、その結果他人より、自分は尊い存在だ。と差別的になる可能性が高まります。

自由意志はない。

というのは強すぎるエゴへの執着を手放すのに役に立ちます。

自分の考えることは、
環境なのか遺伝子なのか腸内細菌なのか、
それら全てなのか、

とにかく自分のコントロールできない部分によって決まっているため、
頭で考えてどうこうすることはできないと諦めることができるのです。

良い意味で開き直って、
自由意志はないのだからどうせ選択は決まっている。目の前のことを好きにやろう。

と気軽にに楽しめば良いのです。

全体の中の一部


私たちは個である意識があまりに大きいですが、
宇宙や地球の一部という見方もできます。

体の中の一つの白血球が「自分」と認識しているようなもので、
地球の中の細胞の一つが「自分」と認識しているのです。

自分の意志は、
細胞一つの意志というより、
より全体に近い部分の意志です。

転倒したとき命を守るために、
腕を犠牲にして頭を守ることがあります。

腕の細胞の意志より、
命を守るための体全体を考慮に入れた意志が採用されるのです。

私たちはが自分と認識している意志も、
より全体に近い、上位の意志が採用されているだけなのです。

私たちは「自分」と認識している部分よりも、
大きな意識によって動いています。

小さな自由意志はないかもしれませんが、
大きな自由意志の一部なのです。


自由意志がないと悲観する必要はなく、
ただ大きな自由意志に身を任せ、
目の前のことを全うすることが、
大きな自由意志から小さな一部である私たちへの望みです。

それを受け入れて、
淡々と今この瞬間を過ごし、
より大きな意志に波長を合わせていくことが幸福に繋がるでしょう。






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