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才能コンプレックス

自分にもっと才能があったらなあ。なんて、考えたときもある。

もっと絵が上手かったら・・
もっと文章が上手かったら・・
もっと歌が上手かったら・・
もっと楽器が上手かったら・・

でも最近気付いた。

才能は”みんな”持ってるということに。それはつまり、僕も含まれている。

これは綺麗事じゃない。

僕も含め、みんな「才能」という言葉に囚われすぎていたのだ。

多くの人は「才能=能力がある」という前提で捉えている。それが罠だ。なぜならその前提は、「能力主義」という市場で作られた幻想にすぎないからだ。

仮に宇宙人に一万円札を渡したところでなんの価値も持たないように、能力?なにそれオイシイの?という世界だとしたら、才能に価値なんて無い。厳密には、「能力主義で重要視される才能」にはなんの価値もないということ。

では、才能とは何なのか?そして、誰もが才能を持っているとはどういうことなのか?

僕の提唱する考えは、「才能=衝動」ということだ。


自分の中に自然と湧き上がる衝動。そこに、理由などない。

ただ、「したいからやる」ということ。

役立つからとか、価値提供になるとか、そんなのどうでもいい。

自分の中に自然発生する衝動は、他人が制限する権利などないし、してはいけないのだ。

そして、その「湧き上がる衝動」こそが、誰もが持っている才能の正体だと思う。

本を読みたいから読む。
文章を書きたいから書く。
絵を描きたいから書く。
走りたいから走る。
漫画を読みたいから読む。
映画を観たいから観る。
海外旅行に行きたいから行く。
おしゃべりしたいから喋る。

そのどれもが、自分にとっては「当たり前」であり、誰かにとっては「特別」だったりするということだ。

自分にとっては「当たり前の衝動」だからこそ、自分では気付かない。そして、自分には「特別な才能」なんて無いのだと、悲観するわけだ。


なぜなら、自分にとっては「当たり前」だから。

本当はみんな持っているのだ。

湧き上がる、みたいにたいそうな言葉を使ったけれど、別にたいしたことじゃない。

いつも自然に「していること」こそ、誰もが持っている「才能」ということだ。

自然と鼻歌を歌ってしまうのも、鼻歌の才能と言える。

”なぜかいつも”してしまうからこそ、当たり前すぎて気づかない。そして、そこに自分の才能が隠れている。


できる・できないの能力主義的な考え方で考えるから、自分には才能が無いみたいに落ち込んでしまうわけであって、

できるとか、できないとか、うまくやれる、やれないとか、そういった価値基準を取っ払って考えてみればいい。


この世に絶対的な価値なんて存在しないのだから、絶対的に優れている才能なんてもちろん無い。

能力主義の考えが浸透しすぎているからこそ、才能の有無で人の価値を判断してしまうような悲劇が起こるわけだ。

才能なんてみんな持っていて、別にたいしたことじゃない。

遠くを見すぎて見えなくなっているだけで、足元に目を向けてみると、案外「拾える才能」が無数に転がっているかもしれない。

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