見出し画像

もはや祖母に近い

母が私を産んだ歳になった時、
両親が離婚した歳を越えた時、
父子家庭で育ててくれていた頃の父と同じ今、

両親は、一人の女性と男性であったことがよくわかる。

そして40代前半の私は、祖母が初孫に恵まれた年齢に近づいている。

「もはや祖母に近い!」

驚いたのと同時に、身体的にはすごく良いサイクルだったんじゃないかと思っている。

20歳頃に産み育てるサイクルだった場合、40歳頃に孫、60歳頃にひ孫。現代社会では非常識?非現実的?だけど、生物として妊娠出産を捉えた時、ものすごく健やかなんじゃないだろうか。

というのも、今、身体的な衰えを身を持って実感しているから。
30代半ばまでは、まだそれほど大きな違いを感じたことはなかったけれど、37を過ぎた辺りから、「あれ?」っと思うようになった。
そして40歳を越えた今、もう確実に、身体は老い段階にあると分かる。

体力には個人差が大きいと思うけれど、同じ歳で不妊治療を頑張っている方、40代半ばで出産した母は、本当に凄いと尊敬する。この先の妊娠出産は、あんなにも子供が欲しかったのに、もう考えられない。おとぎ話の様に「そなたに身籠る奇跡を与えよう~」みたいなことが起きたとしても、「いやもう無理です。」と答える。それくらい体力の差を感じている。二十歳ハタチの身体(体力)の素晴らしさを、心の底から讃えられる。


昔、産婦人科医の友人と、妊産婦さんの年齢層の話になったことがある。

「いや、若い子もいるよ。10代後半とか。」と言われ、「え~(診るの)大変だね!」と反応した私に、

「そんなことないよ。若いと基本的にトラブルないから。」とサラッと返されてハッとした。
まだまだ若いつもりでいた自分に。その年齢で子孫を産むことが、身体的には健やかだという、現代のライフプランとのギャップに。

今の社会の環境も、生き方も、本来の「生命体としての自然」からは離れ過ぎていているのだ。

今の暮らしが苦しくて、しんどくて、嫌になるのは、
むしろ人間としては自然なのではないだろうか。

更に、良い悪い、出来る出来ない。色んな判断や感情をくっつけて苦しむ。


この記事で触れた義妹のように、

何の滞りもなく、健やかに妊娠出産を繰り返せる個体。

私の母も、何の滞りなくもなく妊娠し、毎回超安産な個体。
(再婚し、40代半ばでの妊娠も希望通り。ノートラブルな妊娠期間。出産40分前まで院内を歩いて夫に説明して回る余裕があり、スルッと出産。)

そして、私のように一度も妊娠することさえない個体。

良い悪いではなく、自然とはそういうこと
なんじゃないだろうか。

様々な個体が産まれるという事実。

産める個体が子孫を残して繋がってきたという事実。

環境に適応できる個体が生き残っていくという事実。

最近はそう感じるようになった。

義妹と母↔️私との違いに、例えばスポーツの才能、芸術的なセンスのように、歴然とした個体差が、ただある。素晴らしい芸術を目にした時のような、素直な承認。


価値観が本来のこの世界(自然界)の仕組みを無理やり越えようとする時、苦しいのかも。

私達の日常は、動物としての人間には、そもそもハードモード。



私は子供が好きなので、昔のように地域で育てる人手になれたらと思って、同じアパートの皆さんと交流している。

こども達は自由に、うちのドアを叩いてくれる。

「カナさんちょっときて~!」と言われて玄関を開けると、「ママに買ってもらった♡」というクッションを二つ持って遊びに来てくれた、5歳の子。

私が洗い物をしている隣で、最近色水を作るのに夢中な子が、塩をひとつまみ、胡椒をゴリゴリ加えて、
「きゃ~!」とか「うひゃ~!!」と感嘆の声を上げている。

隣から男の子が「カナさん、おじゃましまぁ~~~~す!」と一人でやってくる時、
(玄関が壁一枚でとなり合っている)

三歳の
おじゃましまぁ~すの
可愛さよ

と心で詠んだ。

そうして可愛い、楽しいと関わることが出来るのは、自在に調整できる専業主婦であることと、何より、限定的な時間だから。

こどもの安全を確保しながら、こどもの楽しみを生かすって本当にエネルギーが要る。私は毎日2~3キロ歩き、ヨガとピラティスも欠かせない習慣なのだけど、そういった運動とは類いの違う疲れ、消耗量だ。
これを24時間体制で、何年も育てているなんて、本当に尊敬する。まず、生かし続けているだけで凄い。

そんな、親であることに必要十分な体力が、私にはもうないと痛感させられるおかげで、
子供が欲しい気持ちを「完全に手放せた。」と言っても過言ではない。

日々接している皆さんのおかげ。


今朝、夢を見た。

ゴールデンウィークで出掛けているこども達が、
「カナさ~~~~~ん!!」と帰ってくる夢。
明日明後日には、きっと正夢になる。

これからも、喜んで近所のおばちゃんになろう。
あ、もはや祖母に近いのだ。

あの頃の祖母と、自分を重ねられる時がやってきた。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?