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松岡宏大 『ひとりみんぱく』 国書刊行会

広告に弱い。築60年近い公団住宅に暮らし、テレビを持たず新聞を読まず、自家用車や自転車を持たず、というような無い無い尽くしの生活だ。昨年まではエアコンも無かった。物を持たない主義、ということでは全くなく、たまたまそうなっているだけで、実は広告やセールスに弱い。広告や売り手の弁舌に感心するといらないものでも買ってしまう。にもかかわらず無いもの尽くしの暮らしであるのは、世間の広告が自分に響かないものばかりだからなのだと思う。

先日、郵便で国書刊行会のチラシの束が送られてきた。パラパラとめくっていたらこの本ともう一冊の本に目がとまった。それで、つい注文してしまった。チラシが送られてきたのは、以前に和田誠のエッセイ集を買った所為だろう。それについてはこのnoteに何度か書いた。

「みんぱく」とは大阪千里にある国立民族学博物館のことだ。そこの「友の会」の会員を長いことやっている。東京で暮らし、勤めのある身なので、会員の特典を利用する機会はあまりない。それでも会費を払い続けているのは、初代館長の梅棹忠夫が書いたものが好きであるとか、たまに会のイベントに参加すると楽しいとか、ごく単純な理由からだ。

本書はそのみんぱくにはあまり関係がない。著者が蒐集したものとか好みのようなものがみんぱくの展示と通じるものがあるというだけのことだ。

本書の『ひとりみんぱく』というタイトルであるが、これは初めて僕が「みんぱく」を訪れた際、「うちにもあるな……」という感想を抱いたことに由来する。

本書 まえがき

それでも、掲載されている写真はなかなか良い感じで、『ひとりよがりのものさし』に通じるものを感じる。私はモノには然程興味はないのだが、モノを語る人の語りは面白いと思う。『ひとりよがりの…』の著者である坂田和實は道具屋なのでモノを仕入れてその品揃えで己の世界観を表現したのだろうが、本書の松岡はモノを求め歩くのではなく、旅先で出会ったモノを蒐集しているらしい。しかし、何に惹かれるかというとことはその人の世界観にかかわるところで、そこは立場や経緯を超えて、そのモノを選んだ人の眼に共通するものがあるはずだ。

例えば、本書144-145頁にある「ドゴンの梯子」は『ひとりよがりの…』の15頁や『古道具もの語り』の26-27頁にも登場する。他にも雰囲気として通底するものを共にしているようなものがこれら3冊の本にはある気がする。坂田の語り口は穏やかだが語っている内実はかなり厳しい。本書も松岡自身は然程意識していないのかもしれないが、静謐な語りの中に相当な厳しさを感じてしまう。でも、その厳しさは誰かに怒られるようなものではなく、自分自身の世界観と平仄の合った心地良い厳しさだ。

本書に、松岡がミャンマーのメイミョーの骨董屋からパーリー語で書かれた経典を入手したことを書いた箇所がある。その中で、その骨董屋から紹介されたバイクタクシーのドライバーのことが語られている。そのドライバーには周囲を照らす明るさのようなものがあったというのである。モノと共にそれに纏わる出来事が意識するとしないとにかかわらず記憶され、そういう記憶の蓄積が人の時間に厚みを与えるのだと思う。

人間を尊くも卑しくもするのは、仕事の貴賤でも、お金のあるなしでもない。彼のまわりをパッと照らすような明るさを、僕は今でもときどき思い出す。

35頁

モノ自体は無機物だが、それが存在するということは、そこに関わる人々の様々な物語や思惑があるはずだ。自分にはそういうところに積極的に参加しようという意気地が無いし能力もない。他人様の語りを面白がって読んだり聞いたりしているくらいが丁度良い塩梅だ。大量生産品や銭儲け一辺倒の粗悪品にも開発者や製造者の意気があることは承知しているつもりだが、いかんせん、そういうものを手にすると自分の世界観とは相容れない気持ちにさせられてしまう。

物理学者のカルロ・ロヴェッリはこう言っている。
「この世界は、物ではなく出来事でできている」
物とは今ここでしか見ることのできない風景なのだ。それは写真とよく似ている。僕は写真を撮るようにして、自分の足で旅をし、自分の目と手で選び、これらの文物を蒐集してきた。これは僕自身の旅の記憶であり、旅そのものでもある。悠久の時間のなかで、この美しい瞬間と出会えたことを自分の僥倖としたい。

本書 あとがき

何かと喧しい世の中であるからこそ、みんぱくとか、民藝館とか、坂田が商ったものとか、本書で紹介されているようなモノが愛おしく感じられるのかもしれない。なんて、この駄文も世の中の喧しさの一部かもしれないのだが。

アマゾンのレビューで一つ星をつけた人のレビューに笑ってしまった。今の世相を象徴する見事なレビューだ。

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