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和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ』 国書刊行会

3月の最初の土曜日、陶芸の帰りに目的もなく立ち寄った三省堂書店池袋店で購入。平台にシリーズ二巻目『PART2』が積んであって、パラパラと読んだら面白かったので、奥の棚にあった本書と併せて買い、今月刊行予定の『PART3』を予約した。

和田誠のことはあまり知らなかったのだが、昨年、東京オペラシティのアートギャラリーで開催された「和田誠展」をなんとなく観たら、自分の暮らしが和田誠に囲まれていることを知って唖然とした。本の装幀、さまざまなポスター、イラスト、広告デザイン、エッセイ、映画監督、その他諸々たくさんの仕事をした人だ。平野レミのダンナであるとか、上野樹里の義父であるとかということよりも、やはり膨大な仕事がこの人の真価だ。先日noteに書いた『銀座百点』に和田が連載していた『銀座界隈ドキドキの日々』は単行本にまとめられて講談社エッセイ賞を受賞している。

本書は副題に「映画の名セリフ」とあるが、原語ではなく字幕や吹き替えの日本語のセリフを扱っている。これは大変良いことだ。読者と同じ目線でいながら、読者の眼を超えたところを語ってみせるところにこういう本の値打ちがあると思う。そもそも原語と言語に余程精通していないと映画の原語のセリフについて語れるものではない。

まず、本書の表題「お楽しみはこれからだ」からして名セリフだ。何が「名」かといえば、やはり訳文だ。

昔、人生を変えようと思って勤め帰りに映像翻訳の学校に通ったことがあった。字幕にしろ吹き替えにしろ、ただの翻訳ではないのである。字幕も吹き替えも尺の制約がある。映画の字幕であれば1秒のセリフに3乃至4文字を当て、字幕一行12文字以内というのが一般的な尺だ。「1秒」のセリフというのがミソで、早口のセリフもゆっくりのセリフも、ジム・キャリーのセリフもアーノルド・シュワルツェネッガーのセリフも、一律に1秒何文字という同じ尺である。吹き替えは訳文が原文と同じ尺にならないといけない。原文を忠実に翻訳したら尺に合わないのである。つまり、映像翻訳は創作なのだ。

傾向としては尺の文字数が減少している。敗戦直後に進駐軍と共に大量に入ってきた海外の映画に付けられた字幕は1秒5乃至6文字だったそうだ。それが私が映像翻訳学校に通っていた20年前あたりでは4文字が標準で、ぼちぼち3文字のオーダーが入り始めたという状況だった。たぶん、今は3文字の方が一般的なのではないか。これ即ち、視聴者の読解力の低下を反映している。平均的日本人が文章をパッと見せられて読み取る能力が落ちているのである。この調子でいくと字幕はやがて無くなって全て吹き替えになるのかもしれない。ちなみに海外で上映されている外国映画は吹き替えが圧倒的に多い。

ところで、映像翻訳者のギャラだが、同じ作品でも公開先によってかなり違う。例えば飛行機の機内エンターテインメントで使う映像作品はざっくり1本5万円弱。その同じ作品が劇場公開用となると20倍近くなる。テレビの「ナントカ洋画劇場」のような番組は字幕ではなく吹き替えなので単純に比較はできないが、劇場のように料金を徴収するメディアではないので、無料メディア向けに近い方の翻訳料ではなかろうか。言いたかったのは、同じ作品が用途によって異なる翻訳者によって字幕や吹き替え原稿が作られているということだ。これは私が映像翻訳の専門学校に通っていた20年ほど前の相場だが、世の中の流れから推察するに、感染症の流行の有無に関係なく、今はもう少し安くなっている気がする。尤も、このところのドサクサで物価が久しぶりに上昇に転じつつあるので、物価上昇が広範に波及すれば、翻訳料のようなサービス物価もそのうち上がるかもしれない。

それで「お楽しみはこれからだ」は「ジョルスン物語(原題:The Jolson Story (1946年))」の中のセリフ。

ライリ・パークス扮するアル・ジョルスンがショウのクライマックスで使う言葉。オリジナルはYou ain't heard nothin' yetで、「あなたがたはまだ何も聞いていない」となるわけだが、スーパーは「お楽しみはこれからだ」であった。

4頁

もちろん、作品全体の中で個々のセリフが決まるわけだが、ここだけ読んでもすごいなと思う。セリフ、それも一言だけ抜き出して、サマになるというのはそうあるものではない。確かに、今の感覚からするとクサイと思う。しかし、映画なのだからクサイ方がいい。作りものは徹底的に作りものであって欲しい。作りもので人の心を動かすのを芸というのではないのか。近頃はすっかり映画と縁が無くなってしまったが、敢えて限られた経験から言えば、古い作品の方が印象に残るシーンやセリフが多い気がする。

本書に登場するのは117作品。その中には複数回取り上げられている作品もある。と言っても、一番多くて「カサブランカ」の3回だ。「カサブランカ」は1943年の作品で、名セリフ、名シーンの宝庫のような作品で、その後の映像作品に本作のシーンやセリフにまつわるパロディが盛り込まれていることも少なくない。本書に紹介されているセリフは以下のものだ。

「ゆうべどこにいたの?」
「そんなに昔のことは憶えていないね」
「今夜会ってくれる?」
「そんなに先のことはわからない」

10頁

「十年前、君は何をしていた?」
「歯にブリッジをしていたわ。あなたは?」
「職をさがしてた」

20頁

「ルイ、これが友情の始まりだな」
(略)
 カサブランカの警察署長になるクロード・レインズは飄々と演じてなかなかうまい。ワイロをとったり、ナチにお世辞を言ったりというダメな署長で、ボガードと友だち同士でありながらお互いに腹を割らない妙な付き合いである。それがラストでボガードがナチの高官(コンラッド・ファイト。「カリガリ博士」の時代からの名優である。「会議は踊る」のメッテルニヒ、「バグダッドの盗賊」の悪宰相など、いずれも印象深い)を射殺してから、急転直下二人の友情が固く結ばれるという演出もうまいものである。ただし、ラストまではダメなフランス人として描かれているので、フランスでは国民感情をおもんばかってか、つい最近までこの名作は公開されなかったのだそうだ。

240頁

これだけ並べても、映画を観たことのない人には何のことかさっぱりわからないかもしれない。しかし、それは観ていないほうが悪いし、わかろうとしないほうに咎がある。自分はここに挙がっている117作品の殆どを観ていないが、それでも十分に楽しく読むことができたのは和田の筆力のおかげでもあるのだが、映像作品には特定の箇所を抜いても何かに使える要素を持っているからだと思う。人の一生、あるいは人生の何事かを2時間足らずのストーリーに押し込めたものが映画であるとするならば、その中のどのシーンを抜き出しても何事かの意味を持つということに納得がいくだろう。また、そうでなければ映像「作品」にはならないのではないか。

以下、本書からテキトーに抜粋。

「秘密を教えよう。〈フランケンシュタイン〉と〈マイ・フェア・レディ〉は同じ話なんだ」
 人間が人間を作る、または作りかえるという発想は同じで、やり方によっては怪奇物にもなるし、ロマンチックなものにもなるという、いわば脚本作法を言ったものである。

68頁 「パリで一緒に(PARIS WHEN IT SIZZLES)」(1964)

「一人を殺せば犯罪者だが、百万人を殺せば英雄だ」
 このセリフ、映画をはなれて、反戦運動のスローガンとして有名になってしまったのではないかと思う。革命家が吐いた言葉のようにも思われる。映画ファンにとっては言わずと知れた、「チャップリンの殺人狂時代」における殺人者ヴェルドー氏の言葉である。
 チャップリンは、「モダン・タイムス」において機械化文明を皮肉り、「独裁者」においてファシズムをやっつけ、「殺人狂時代」では戦争による殺戮の正当化を弾劾した。
「戦争を商売にしている人たちに比べれば、私は殺人者としてアマチュアです」

72頁 「チャップリンの殺人狂時代(MONSIEUR VERDOUX)」(1947)

テイラー「お金がすべてじゃないわ」
ディーン「持っている人はそう言うんです」

86頁 「ジャイアンツ(GIANT)」(1956)

 ほかに彼の言葉でぼくが好きなのはこうだ。"ニューヨークは嫌いだ。エレベーターが多すぎる。俺はエレベーターを信用しない。テレビジョンも、ロケットも。月へ行く男なんて信じられるか。俺は嫌だね"

142頁 「ねえ!キスしてよ(KISS ME, STUPID)」(1964)

「戴冠式もコメディ・フランセーズもバチカンも、儀式はみんな仮装舞踏会だ」
(略)
 第一次大戦中、とあるフランスの町をドイツ軍が爆破するという情報で町の人がみんないなくなってしまう。精神病院の患者だけが残っていて、その町を自由に歩きまわる。それぞれ大僧正になったり床屋になったりバレリーナになったり自分の思い込んだ職業に勝手についてしまう。そこへイギリスの偵察兵(アラン・ベイツ)が、爆破を防止しようとやってくるが、たちまち王様にされてしまう。
 爆弾がどこに仕掛けてあるのかという謎解きの興味も加わって、てんやわんやのうちにイギリス軍とドイツ軍が乗り込んで来て市街戦となり、両軍全部死んでしまうのを患者たちは高いところから見物している、という戦争を痛烈に皮肉った喜劇なのである。ラストはもう飽きたから帰ろうと患者たちは病院に引き上げる。意外にも冷静にそれぞれの役をわかって演じていたようにも思えるのだ。
 あのセリフはイギリス兵をハートの王様に仕立てる戴冠式の場面でジャン・クロード・ブリアリが言う(「ハートの王様」という原題であった)。他にピエール・ブラッスールやミシュリーヌ・ブレールなど豪華キャスト。とにかく気違いたちの占領している町は平和でのどかで、正気の人間たちが殺し合いをしているのだから、大笑いする映画なのだが主題はなかなか強烈なのだ。

184頁 「まぼろしの市街戦(LE ROI DU COEUR)」(1967)

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