和田誠 『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART6』 国書刊行会
外国の映像作品を観て、面白いとか楽しいと思うことは当たり前にあるし、日本の映画が海外で賞をもらったりするところをみると、日本のものも外国で受け容れられているだろう。風土や文化の違いというのは超え難いほど大きいと感じられることもあれば、そういうことを超えて同じ種類の生き物として共感できることもある。
本書は主に外国映画を取り上げ、そこで語られる台詞をネタにまとめられたエッセイのようなものだ。その台詞は邦訳なので原語の本当の意味に必ずしも即していないのだが、映像の尺に合わせながらも映像のエッセンスは十分に伝わるよう翻訳者が工夫を凝らしたものであるはずだ。そう思うと、翻訳あるいは翻訳者という仕切りを挟みながらも、文化の違いを超えた人間社会共通の価値観のようなものを感じないわけにはいかない。本書ではそこからさらに和田誠という人の頭脳を通して加工された何事かが語られている。
それを読んで自分が何事かを感じたり考えたりする。観たことのない作品のことであっても、いろいろ思うところはあるものである。ましてや、観たことのある作品ならばなおさらだ。
言わんとすることはわかるのだが、酢も良質なものになるとかなり高額で気軽に買って使えない。それに安物であっても酢は健康に良い。個人的には、中華料理屋で焼そばを食べるときに酢をたっぷりかける。もう何十年も前のことだが、現役の頃は残業の多い仕事だった。当たり前に残業食をいただいていた時のこと、職場近くの中華料理屋で上海焼そばを注文した。テーブルの上に備え付けの調味料を少し足そうと思い、酢をかけた。たまたま何かの弾みでドボドボと出てしまった。これが大変旨かった。以来、焼きそばにたっぷりの酢というのが自分の中の定番のひとつになった。だから、この台詞の言わんとすることはわかるのだが、酢を粗末なものとして表現することには抵抗を感じる。
タランティーノは私と同世代だ。同じ時代を生きてはいても、同じ空気を吸っているわけではない。アメリカの嘘みたいに安い食料品が流通する環境下で暮らしている人には、酢の尊さがわからないかもしれない。台詞の意図に反して、私は齢と共に酢のような人になれたらいいと思う。
自分としてはそういうつもりはないのだが、現実としてはあとは死ぬだけという年齢になった。酢のような人間であるか、頑固爺いであるかは本人ではなく周りが決めることだが、なんとかこうして暮らしていられるのは、結局のところは何事においても目立たなかったからだと思う。
生計を立てるのは容易ではない。かといって稼ぐことに執着すると精神的には窮乏の度が増す。
似たような台詞はよく聞くが、その通りだと思う。金に縁がないので、金がすべてじゃないと思わないわけにはいかないし、金があったらどうなのかと思わないわけにもいかないのだが、次のような台詞を聞くとなんとなく安心はする。
「車」は何かの象徴であろうが、資本の論理とか市場原理とかいうものの下にある社会とはこういうものだ。それいいか悪いか、好きか嫌いかはともかくとして、そういうものだ。『群衆』という作品は戦中に作られたコメディで興行面でも大ヒットだったそうだ。戦争をするのだから「挙国一致」はどこも同じはずなのだが、何かというとつまらない決め事で縛りをかけようとする社会と、人の思うことはどうすることもできないとある程度の自由を許容する社会の違いはある。寛容の度合いの違いはその社会の力量の違いでもある。こういう余裕のある相手と戦争をして勝てるはずがないと、今だから納得できる。喧嘩をするときは相手をよくよく選ばないといけない、というのは個人の暮らしにも通じることだ。今は、感染症のこととか地政学上の異変のことが無いとしても、なんとなく窮屈な感じがする。それはたぶん、物事が過剰に理詰めに傾いている所為ではないだろうか。素朴にいいと思うことを「いい」と言えず、好きなことを「好き」と言えない雰囲気があるように思う。理屈を語れない者が排除される嫌な感じがある。
意味のないことに縛られず、目立たずに、静かに余生を送りたいものである。できることならば、だが。
見出しの写真は神楽坂の圓福寺(新宿区横寺町)境内で2022年6月11日に撮影。紫陽花の花言葉に「無常」というものがある。ただし、紫陽花の花言葉は色によっても違うらしい。神楽坂は私の茶道の先生のお住まいのあるところでもある。さらに遡ると、新卒で就職した会社の研修所があって、入社した年は何度か泊まりがけの研修もあった。隣が最高裁長官公邸で、過去には研修に来ていた社員が公邸宅内にあった柿の木の実を取ろうとして公邸内に転落する事件を起こしたこともあるらしい。その研修所の方は売却されて今はマンションになっている。公邸は相変わらずのようで、この日も前を通ったら門前に電話ボックスのようなものがあって、警察官が立っていた。なぜこの日に神楽坂に出かけたかというと、購読している新潮社の『青花』という美術誌が主催する骨董市があって、何が並んでいるのか見てみようと思ったのである。期日の終わりの頃だったが、会場は結構な賑わいで、商売の方も活況のようだった。落語の「井戸の茶碗」に出てくるような仏像があったらいいなと思っていたが、手の出せるような値段ではなかった。尤も、仏様がホイホイ買えるような値段ではありがたみがないとは思うのだが。
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