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もひとつ『お楽しみはこれからだ 映画の名セリフ PART2』

戦争映画と言っても、戦争や戦闘そのものを描いたものもあれば、戦争の影を描いたものもある。いずれにしても、極限状態を経験した人間の言動や行いを通じて何事かを語ろうとしているように見える。但し、人をどの程度普遍的な存在として描くかについてはそれぞれの作品によって違いがあるようにも見える。

日本人とされる人々は日本という辺境の島国で現在ある世界の様々な国の中で異様に長い歴史を持っているということは意識して良いと思う。古代文明発祥の地はいずれも大陸内部にあり、人々が移動するなかにあって、それらの文明を興した人々は現在そこに暮らしている人々の直接の祖先ではない。古代帝国もまた然り。現代の文字と読みにある程度修正されているとは言いながら、『万葉集』などという1000年以上前に成立した先人の文学作品が文庫本のようなお手軽なものとして現代の書店で誰でも買えるという国は他にないのである。それを誇るかどうかは個人の勝手だが、そうした長い年月をかけて培われた言語を母語とする人間の思考と、相対に熟成度が新しい母語を有する人間のそれとが全く同じであるはずはないだろう、と思うのである。尤も、近頃はグローバル化とやらで母語に頓着しない傾向が一般化しているようなので、『万葉集』の類が絶版になる日も近いのかもしれない。

さて、戦争の関係する映画のセリフだが、これが本書にあるすべてというわけではなく、自分が付箋を貼った箇所がこういうものだったということだ。ここに挙げたものは、日本人だからとかナントカ人だからどうこうということではなく、普遍性のあるセリフのような気がするのだが、どうだろう。

アラン・ドロンが戦地での経験をブロンスンに話すところ。ドロンは暗闇で敵と思って味方を射ってしまったのだと言う。ドロンはそのことで自己嫌悪に陥っている。するとブロンスンが言う。
「敵と味方をいつも見分けられるってものでもない。似たようなものだから」
 アラン・ドロンの役はアルジェリア戦争に軍医として行っていた男である。

62頁「さらば友よ(ADIEU L'AMI)」1968

「国境なんて人間が勝手に作ったものだ。自然にとっては何の意味もない」

88頁「大いなる幻影(LA GRANDE ILLUSION)」1937

「戦争には奇蹟がつきものだ。狂気の中では人間は異常な能力を示すことがある。平和な時にそれを発揮できないのは残念だ。そうすれば戦争も避けられるのに」

94頁「ナバロンの要塞(THE GUNS OF NAVARONE)」1961

 ロンメルは捕虜にしたイギリス将校と食事をしながら、塩や胡椒の壜を使って戦術の講義をする。その時の言葉。
「われわれには第六感はない。なくて幸いだ。戦争は即興でするものではない」

180頁「熱砂の秘密(FIVE GRAVES OF CAIRO)」1943

「神よ!力を!」
と言って、ジャック・バランスが息絶える。映画は「攻撃」である。戦争の悲惨さを、これでもか、と粘っこく描いたロバート・アルドリッチの力作。
 ジャック・バランスの上官はエディ・アルバートである。これが臆病な上官で、彼の優柔不断な作戦命令のために、バランス率いる小隊が犬死にしてしまう。バランスは部下の仇を討つために前線から戻ってくるが、途中で敵の戦車に轢かれる。なにしろジャック・バランスですからね、このシーンの形相は物凄いよ。そして片腕ぶらんぶらんで、上官アルバートのもとにたどりつき、銃を向けるが、ついに力つきて「神よ!力を!」と叫んで死んでしまうのだ。ところがその場に居合わせたバランスの戦友の一人が、彼の気持を汲んで、アルバートを討ち殺す。ほかの兵隊たちも、死体に一発ずつ弾を討ち込むのであった。コワイ映画である。

92頁「攻撃(ATTACK!)」1956

「狂気だ…狂気だ…」
 ともかくラストの戦闘で橋は爆破され、主要な登場人物はみな死んでしまう。すべての人間の努力は、橋とともに一瞬にして吹っとんでしまうのだ。
 傍観していた軍医は、この惨状を、そして彼らのすべての行動を、狂気だと言ったのである。もちろんそれだけではない。戦争そのものを、狂気だ、と表現したのだ。映画の主題もここにある。だから、気の利いたことを言っているのでも何でもないこのセリフが、印象深く記憶に残るのである。

90頁「戦場にかける橋(THE BRIDGE ON THE RIVER KWAI)」1957

戦争映画ではないが、戦争の傷跡が生々しい時代のウィーンを舞台にした映画「第三の男」もPART1に続いて取り上げている。

「誰も人類のことなんか考えてやしない。政府は奴らを人民とか無産者とか呼び、俺は野郎とかカモとか言うが、結局同じことさ」

132頁「第三の男(THE THIRD MAN)」1949

やはり戦争映画ではないのだが、何となく通底するものを感じる拳闘映画がある。少し長くなるが全文を引用して本稿を終わる。

 ハンフリー・ボガード最後の映画は、マーク・ロブスンの拳闘映画「殴られる男」である。ただし「チャンピオン」のようにボクサーを描くのでなく、彼らを食いものにしているギャングのようなプロモーターを描いている。ボガードはそこのボスから金を貰い、ダメなボクサーを持ち上げる記事を書いて人気者にしてしまうスポーツ記者で、どちらかと言えば狂言回し的な役柄。ボスになるロッド・スタイガーが得意のアクの強さでこちらが主演者かと思える程の印象を与えたから、ボガードとしては物足りなかったのではないかしら。
 そのスタイガー語録。インチキな記事を書くのをためらうボガードに、
「自尊心で飯が食えると思うのか」
 スタイガーがひと儲けしようと南米から連れて来た男は本当は弱いボクサーなのだが、八百長試合と提灯記事のおかげで有名になってくると、
「商品は名前だけ売れればみんなレッテルで買うようになる」
 ボガードが正義感に目覚めて、このカラクリを記事にして大衆に伝えるぞと言うと、
「大衆って何だ。テレビの前に坐ったままでぶくぶく太って居眠りしている連中じゃないか」

48頁「殴られる男(THE HARDER THEY FALL)」1956

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