バイマックルのレシピ
グルメ雑誌の編集長茨城は、タイに15年在住後、一昨年帰国したタイ料理研究家、スクンビット鈴木と森の中を歩いていた。
「しかし、ずいぶん木々の生えた自然の奥にあるんですね」「ええ、編集長殿には申し訳なく思っているのですが、私が一番気になっているカフェまでご足労おかけして恐縮です」
角刈りで額に汗がにじみ出ている茨城に対して、対照的にやや長めの髪を後ろで結び、バックパック姿のスクンビットは、バツの悪そうな表情をしながら、目指すカフェに向かって歩いた。
「いえいえ、バンコクを中心にタイに長く在住しておられ、タイ料理の酸いも甘いもかき分けられておられる、スクンビット先生をお迎えできただけでも光栄です。タイのレッドカレーペーストを日本に輸入している業者をスポンサーとしたこの企画。レッドカレーペーストを使った新しい料理メニュー作成に、タイ料理の権威ある方が全面に出るだけで、正しくWIN-WINの関係間違いないですから」
「そういってくだされば幸いです。今から向かうカフェのスタッフである、黒猫さんという人とは、半年以上からネット上でのつながりがあります。それで一度彼女のお店に行こうと思っていました。そのときに編集長殿からレッドカレーペーストを活用した料理レシピの企画の話が来たものですから、ぜひこちらでと思っていた次第です」
やがて木々が少し開けて広場のようなところに出ると、その先に建物が見える。「あれですかね」茨城はスマホ片手に位置を確認した。「間違いないと思います」とスクンビットの口元も緩む。
「失礼します。と先に入ったのはスクンビット。「いらっしゃいませ」の声に、店の奥から入口に来たのは女の子の従業員。「あ、初めましてスクンビット鈴木です」「あ、お待ちしていました。私が黒猫です。今、来られましたよ!」
黒猫と名乗る女の子は大声で、奥の厨房にいる男性に声をかけた。
「ああ、わざわざありがとうございます。このmotohiroカフェを経営しております。motohiroです」と彼は頭を下げて、店のネームカードをスクンビットと茨城に手渡した。
「ご協力ありがとうございます。茨城と申します」と遅れて入ってきた茨城は、名刺をmotohiroに手渡す。スクンビットも遅れて名刺を手渡した。
「あ、でもいいですね。大自然に囲まれた隠れ家のようなお店。これからの時代のトレンドじゃないですかね」茨城は店内を見渡しながら、持参したカメラで撮影をする。
「あ、あのう。今日は、新しいカフェメニューのレシピを教えて下さると」
「あ、そうです。motohiroさん、黒猫さん。改めて弊社の取材企画にご参加くださいましてありがとうございます。こちらタイ料理の権威。スクンビット鈴木先生の、タイ料理レシピ。先生はこちらのレッドカレーペーストを使った一品をつくりますが、その際に御社の厨房をお借りして取材させていただけること。ご協力まことにありがとうございます」
「あ、は、はい」「ど、どうも」
motohiroと黒猫さんは緊張した。取材というのも初めてだし、都会から来たやり手の編集者っぽい茨城の言動とその動きに、ややついていけないものを感じた。対照的にスクンビットには自然と安心感を出してくれるオーラの様なものがある。そのスクンビットが、緊張気味のふたりに優しく声を掛けた。
「では、さっそく厨房をお借りしますね。あの黒猫さん、昨日私の方でメールした食材はどちらに」「あ、冷蔵庫の中なので出します」「わかりました」
そういうと、スクンビットは、カフェの厨房の中に入った。スタッフのふたりも厨房で、スクンビットからの指示を待つように様子を見る。茨城はカメラを構えて、その様子の一部始終を写真で抑えようとしていた。
「今日はこちらにあるバイマックルを使ったメニューです」スクンビットはそういってバックパックの中を開けて、中に入っていたビニール袋を取り出す。半透明の袋からは、緑色をしたものが入っているように見えた。そしてその袋を開ける。その中にはやや硬めの緑の葉っぱがいくつか出て来た。
「これはまた堅そうな葉っぱですね。スクンビット先生。こちらがバイマックルというのですか?」茨城の質問に軽く頷くスクンビット。「これは、日本語でコブミカンと言いまして、この実はこういうものです」とスクンビットはスマホの画面から画像を見せる。
「キャー!何これ。コブが一杯ついていて気持ち悪い!」思わず声を出したのは黒猫さん。「これは見たことが無い。これがそのタイの」「はい、コブミカンです。この実は日本では普通、流通していないと思いますが、現地では皮の部分を料理に使います」
「でも、この葉っぱだけは流通していて、いろんなタイ料理で使います。専門の食材店に行けば売っているんですよ。ネットでも買えますよ」「それは面白いわ。スクンビットさん。鶏もも肉を使うと聞いたのですが、今から出しますね」「あ、お願いします」
さっそく冷蔵庫を開けた黒猫さん。スクンビットの目の前に鶏もも肉を2枚ほど置いた。
「あ、ありがとうございます。今からこのバイマックルとレッドカレーペースト。そして鶏もも肉を使ってタイ・スタイルの唐揚げを作ります」
「ほう唐揚げですか、いいですね。みんなが知っている料理とタイ料理のコラボレーション。スクンビット先生の話を聞いているだけで、ワクワクしますね!」茨城は嬉しそうに言いながらもカメラのシャッターを押し続ける。
「あのう上新粉は?」「はい、有ります」とmotohiroは、奥の戸棚に行って上新粉を取ってくる。
「では、えっと黒猫さん、手伝ってくれますか」「あ、はい、もちろん」「ところで手先は器用ですか」「え、ま・た・多分... ...」とちょっと不安そうな黒猫さん。「彼女は手先器用ですよ」と、motohiroがフォロー。
「ではmotohiroさんは、鶏肉を唐揚げのサイズに切ってください」
「はい、解りました」「それから黒猫さんは、このの葉っぱの真ん中にある硬い軸を取ります」そういってスクンビットは、手でバイマックルの真ん中の固い部分だけを取り除き葉っぱは縦にふたつに割る。それからこれを、重ね合わせてから、包丁で糸のように細く切ってもらえますか?」
「い、糸のようにね」「包丁で出来るだけ細かく、多少太くてもいいですが、細い方が食べるときに口あたりの抵抗なくていいです」
黒猫さんは、アドバイスに従って、軸を取り除いて重ね合わせた葉に包丁を合わせた。包丁は少し硬い歯にぶつかり硬さに手ごたえがある。しかし少し力を入れればすぐに切断できた。それから次の切断をできるだけ細くする。黒猫さんは集中して包丁を動かす。その横で、鶏肉を切り終えたのはmotohiro。スクンビットはその様子を真剣なまなざしで見つめ、茨城は静かにシャッターを押し続けた。
「鶏肉は全部切られました」「あ、はい」「ではボウルにその肉を入れてですね、そこにいよいよ。あ、編集長さん!。ここでレッドカレーペーストを入れますよ」
「唐揚げにレッドカレーペーストを入れる。なるほどカレー風味のから揚げですね」茨城はペーストのパッケージを開けた状態にカメラを向ける。次にスプーンで中身をすくい上げたところ。そしてそのペーストを切断したばかりの鶏もも肉の中に入れていく瞬間。いずれもしっかりと撮影した。その後、砂糖と醤油を味付けに入れる。
「では、このペーストを肉になじむように揉みましょう。味が染み込むように力強くやってください」「わかりました!」
そういうとmotohiroは、ボウルに入った鶏肉とレッドカレーペーストを、手でしっかり揉み上げながらなじませる。
「できました」とはバイマックルを糸のように切断した黒猫さんの声。「あ、すごい!ここまで細かければ十分です」思わず声が大きくなるスクンビット。
「では、この糸状になった」「あ、それ撮ります」と茨城がカメラを向ける。その後細かく糸状になったバイマックルは、しっかりと揉み上げ赤い色が染みついている鶏肉の中に放り込む。
「さ、次はこのバイマックルをなじませましょう」「はい」motohiroは再び手を動かした。
2.3分後になり「そろそろ行きましょう」とスクンビットは、揉み上げた鶏肉とレッドカレーペーストそして糸状のバイマックルが入ったところに上新粉をふりかける。
「あの、なんで上新粉なんですか」茨城はすかさず質問した。
「それはタイという国は、米文化の国で、クイッティオとかも米の麺。小麦粉よりも米粉を良く使うんです。だからグルテンフリーの人からは、大変好評なんですよ」とさりげなく答えるスクンビット。茨城は納得の笑顔をするとすぐにメモを取った。
厨房内では油が既に温まっていた。「さて後はこの油に入れて鶏のから揚げを作れば完成です」とスクンビットが語りながら胸を張る。
「motohiroさん、大丈夫ですか?この前揚げ物で」「ああ、あのときは油が飛んで大変だったけど。今は大丈夫」
そういいつつもトングでつかむ手はなぜか震えている。心配そうな黒猫さん。それでも逃げずに油の前に。米粉が十分に振りかかって白くなった鶏肉を次々と入れた。一瞬油が飛ぶような音が響くが、大きく飛び跳ねることなく、すべての肉が油の中に入った。
「後は揚がったら完成です。そのままでも十分美味しいですが、スィートチリソースがあれば、よりいいでしょう」「え、あ、それは!」「ああ、そういうのは持ってきてますからご心配なく」そう言ったスクンビットは、バックパックからスィートチリソースの瓶を取り出す。「あ。こちらに」小皿をすぐに出して手渡す黒猫さん。そこにスィートチリソースの透明感あるソースが流れてきた。
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10分後には無事に上がり終えた唐揚げが、店のなかでも最もエスニックさがあふれている皿に盛りつけられた。見た目は普通のから揚げだが、やはり少し赤みがかかっている。そしてかき揚げのように油で黒っぽくなりかけていた緑の糸。つまりバイマックルがまとわりついていた。
「では頂きましょう」「その前にまずは、スクンビット鈴木先生に食べていただきまして、それで感想を」とさりげなく茨城がカメラを構える。タイ料理はフォークとスプーンを使うのでそれも合わせる。
スクンビットは口を開けて唐揚げを半分噛み切った。そして目をつぶり、静かに口の中を動かす。周りに人が誰もいないように自分の世界に酔いしれているような表情。しかし苦しみではなく、和めるようなゆったりとした顔立ちだ。
やがて噛みこんだ鶏肉を口の奥に、喉へと入れ込む。そして目を開ける。
「いかがですか」「バッチリです。口の中に含むと、最初はレッドカレーの辛い味が口の中を襲います。しかしバイマックルの糸に潜まれた苦みと爽やかなフレーバー。それが、油でしつこく感じる唐揚げに対して、良いあんばいに作用しています。辛味と爽やかさそして鶏肉そのものの旨みが入った三拍子。見事に調和が取れています」
「では私も。あ、皆さんもどうぞ」「では、お言葉に甘えて」「私も!」と残りの3人も唐揚げを食べる。
「うん、旨い・流石先生のレシピだ」「このスィートチリソース漬けたら甘みも入ってもっと美味しいわ」
「これはいい。本当にうちの店のメニューに加えてもいいんですね!」motohiroは、やや高めの声を出して茨城とスクンビットの方に顔を剥ける」
「もちろんです。今日持ってきた材料はここに置いておきますので、ぜひ新しいメニューに加えてくださいね」「こちらこそmotohiroさん、黒猫さん、本日は弊社取材のためのご協力ありがとうございました!」
スクンビットと茨城の返事に、嬉しそうに頷くmotohiroと黒猫のふたり。
このあと4人は、すべてのから揚げをあっという間に平らげるのだった。
おまけ(コブミカンの絵)
こちらの企画に参加してみました。
※こちらの企画、現在募集しています。
(エントリー不要!飛び入り大歓迎!! 10/10まで)
こちらは67日目です。
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シリーズ 日々掌編短編小説 233
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