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修道院で作られてる麦酒

「今、雄琴温泉の取材? ああ滋賀のね。何、明日の夜に戻ってくる。信二わかった。お土産楽しみね」
 この日はまずまずの客の入りだが、カウンターの常連がいない。そこでカウンターの前で待機しているクラフトビール専門店の店長。ネイティブな日本語を話すフィリピン人のニコール・サントスは、空いた時間を使い、パートナーの西岡信二から送られてきたメッセージの返事をする。

 ちょうど、メッセージを返したところでタイミングよくひとりのお客さんが店内に入ってきた。リピータ客のようで躊躇(ちゅうちょ)なくカウンターに座る。
「あ、竹岸さん。お久しぶりです」ニコールは、すぐに営業モードに戻って笑顔を振りまく。

 仕事帰りで来たらしく、店に入って来た竹岸涼香はスーツ姿。ただあまり元気な表情ではない。
「何かいやなことが」ニコールは直感したが、まずは何も言わずに様子を見る。
「今日は、最初から濃いビールをもらうわ。このオルヴァルというのいいかしら」
「トラピストビールですね。はい。わかりました」ニコールは後ろを振り向くとビールを探す。
「はあ、どうしようかなあ。まさか真中さんと客を奪いになるとは......」涼香はそうつぶやきながらため息。

「真中さんというのは、この前御一緒の」ビールを探しながらニコールは涼香の話を聞く。
「そう同じ住宅展示場の勤務だけど、彼とは会社が違うのよね。今日は酒田さんというお客様が、真中さんの風林ハウスで見積もりをもらってからうちの受雷工務店に来たの。
 覚悟はしてたけど、ついにあの人とお客様の取り合いになる日が来ちゃったなんてね」

「まあ私はその業界の事なんてわからないし」ニコールはビールを見つけると、カウンターの涼香の前にグラスとビールを両手に持つ。

「いいのよ。実は今日も彼と待ち合わせしたんだけど、なんとなく先に飲みたくなってちょっと早く来ちゃった」

「そうなんだ。でいきなり濃いビールなんですね」
 ニコールは涼香の前に聖杯のような専用のグラスを置いた。そしてゆっくりと瓶から注いでいく。透明なグラスには茶色っぽい液体がどんどん入る。途中からビールの投下速度を落とすニコール。やがて白っぽい泡が目立ってきた。こうしてニコールは見事にグラスに瓶に入ったすべての中身を収納する。

オルヴァル


「まあこれよね。ベルギービール! いつも飲む缶ビールとは全く違う芸術品のような飲み物」先ほどまで落ち込み気味だった涼香は、目の前のビールを見ながらテンションが上昇していく。
 ニコールは安心したようにな笑顔。「修道院で今でも作っているビールよ」

 しばらく瓶とグラスを眺めていた涼香は何かを見つけたようだ。
「この瓶のラベルについている。あ、専用のグラスの裏にも、同じ魚がついているわ」
 それを聞いたニコールはここぞとばかりに蘊蓄(うんちく)を語る。
「それは鱒なんです。伝承ではイタリアのトスカーナ地方から、マチルドという伯爵夫人がオルヴァルという小さな場所に来たの」
「オルヴァルって地域の名前?」ニコールは頷きながら話を続ける。
「彼女は未亡人。ちょうど泉があったのでそこで休憩していたら、誤って泉の中に大切な結婚指輪を落としてしまった」

「あら、それは大変。でもわざと落としたってことない。死別したから新しい人のためにとか」と考える涼香。しかしニコールは首を横に振る。

「そんなことでは無かったの。だってこのマチルドさんは神に祈った。『もし指輪が戻ったら、私は夫の遺産を使ってこの地に修道院を建てます』と。
 そしたら願いが聞いたのかそれを、鱒がくわえて上って来て、指輪がもどってきたの。驚いた夫人は『本当にここは黄金の谷!』と喜んだ。だから彼女が寄付をしてオルヴァルに修道院が建てられた。それが1070年のことらしいわ」
 ニコールの蘊蓄を心地よく聞く涼香。いつしか口に入ったオルヴァルの味わい。深みのある甘味、どっしりとしていながら、ホップ由来のフレーバーが口の中を爽やかに覆いつくした。

「それは素敵な話ね」「そうだ」ニコールは何かを思い出した。
「今日鱒が入ってたんだ。もしお腹に余裕があれば、鱒のフィッシュアンドチップスとか如何ですか?」

「え、いいわ。じゃあそれお願い」涼香はふたつ返事。
 「ありがとうございます」ニコールはすぐに対応する。自らは調理しないが、店内には調理専門の担当がいた。指示をするとすぐに動いていくれる。カウンターの後ろに半開きのドアがありその奥が厨房。そこで料理が作られるのだ。

「そうだもうひとつ。私このビールを作っているオルヴァル修道院に行ったことあるの」
「え! 実際にオルヴァルの修道院にですか」涼香は思わず身を乗り出す。

「そう。私がこの店を任される前だけど、ボスに連れってもらったの」ニコールは再び蘊蓄。今日は彼女も心地の良い時間を過ごしていた。

「オルヴァルってベルギー南部にある街。フランスの国境近くにあるの。そこには中世時代に使われていた、石造りの古い建物が残っていたわ」
「ヨーロッパ素敵よね。私どこも行ったことない」
 ビールに再び口をつけながら涼香は何度もうなづく。
「その修道院の敷地内にビール博物館があるのよ。ここでビール造りの行程が見られた。それでちゃんとチケット売り場があって、パンフレットもあるの。中は古いビールの製造過程とか、修道院とビールの関係なども書いてたわね」

「修道院とビールってどんな関係なのかしら」
「それは、修道院の人は修業をするために断食をするらしいの。でも何も食べないとさすがにつらい。だから液体のパンとしてビールがつくられたんだって」
「え、修業するのにビール飲んじゃうの酔っぱらわないかしら?」
 3口めを飲んだ涼香。度数高めのビールの為か、少し気分が軽やかになっている。

「そうみたいね。ワインの作れる地域だとワインがメインかな。でもあれは血としての意味もあるからね」対照的にニコールは冷静そのものにゆったりと語る。
「なんとなくべルギービールって珍しいと思って飲んでるけど、いろんな意味があるのね。で修道院の中にも入ったの」
「ううん。もちろん現役の修道院には入れないわ」「そらそうよね」
「でも、店長はフィリピン人だからえっと」
「そう、私はカトリック教徒。でも修道院は関係ないわ。教会でお祈りするのとは違うから」そう言ってニコールは笑う。

 ちょうどテーブル席からの注文が入った。慌てて生ビールを注ぐ。作業しながらもタイミングが合えば口は動く。
「そういうわけなの。ベルギーにはオルヴァルの他にシメイとか数か所同じように修道院でビールを作っているわ。ここ以外にその時は結構いろんな醸造所に行ったかしらね」
「なんとなく不思議ね。これって日本の神社とか寺で酒作ってるととおなじよ」

「うん、そうね。そうそう、さっきの話だけどライバルのことは気にしちゃダメだと思う。ベルギーの修道院もそれぞれライバルかもしれないけど、それぞれが良いものを作ろうと頑張っているわ。だからお客さんの取り合いになっても、気にせずに自分の力を信じたら」
 さりげなくニコールは最初の話を振ってくる。涼香はまたビールを口に含むと「そ、そうよね。いや私もそうだと思いつつ。ちょっと嫌われたらとか考えちゃった」

「もし、このことで相手が不快に思っているのだったら、縁を切ったほうがいいわ。そんな人ダメよ」
 ここでニコールは厨房に呼ばれて奥に入る。すぐに戻ってきて料理を持ってきた。
「そうね。気にしないほうがいいかもね。うん、ありがとう。私なりにこの契約取れるように頑張るわ」
 ニコールはそれにうなづくと「さて、フィッシュアンドチップスお待たせしました」
「これが鱒なのね」こうしてフィッシュアンドチップスを目の前に、さっそくモルトビネガーを振りかけた。

 すると待ち合わせていた真中俊樹が、同じく会社帰りのスーツ姿で店の中に入ってくる。
「あれ、早く来たつもりなのに」
 約束の時間より早く来たつもりが、先に来てもう飲んでいる涼香を見ておどろく俊樹。

「うん、ちょっと、女性だけのね会話を」涼香はニコールに目を合わせるとニコールは黙って微笑む。
「いいや。そしたら僕も彼女と同じものを」と俊樹が注文する。
「ありがとうございます」とスマイルを見せ、後ろを向き再びオルヴァルビールを探すニコール。このとき少し顔がにこやかであった。


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シリーズ 日々掌編短編小説 486/1000

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