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病みツイートよりも圧倒的に見たくないし傷つくSNSの投稿

今日はみんなで飲み会🍺楽しかった〜(*^^*)


SNSのタイムラインに流れてくる、

友人のみんなとの集まり報告。投稿に

『あれ…このメンバーなら呼ばれそうなものなのに
 そのみんなの中に自分が入って無い』


そう感じた時の、苦しさから逃れる術は
30年くらい人間やってるけど今だに身につけれていない。


なんで呼ばれなかったんだろう??

前に自分の興味ないアーティストの話に話題がそれた時
つまらなそうな顔してたから?

その『みんな』の中の誰かが自分の事を嫌いだから?

ひたすら自分の中で理由を探してしまう。

なんでだろう…納得出来たら気持ちも楽になれる気がする。と

結局、誘われてもよさようなのに誘われなかった状態とは
自己評価と周りの評価とのギャップの差によって生まれるのだろう。

前回の集まりの時にA君をいじり過ぎたことによって
減点マイナス20 ポイント

居酒屋で自分だけ序盤から丼物を頼む個人プレーに
走ったからマイナス450ポイントとか

などと目に見えて分かれば自分の失点に気づくことができるのにな。それはそれでゲームみたいで気持ち悪いか。(パワプロ?)

卑屈になる必要はないけど、謙虚に
自分にあまり期待をし過ぎない。 


傷つかない為の予防線の装備は忘れずに。


そして自分がどう思われてるか、他人の目には自分は
どう写ってるかをしっかりと考えていきたい。



さて、

タイトルに病みツイートの事を例に出しながら
中々暗い内容となりましたが……

翻って自分はどうなのだろうか??


ちゃんとその場にふさわしい人にふさわしい声の掛け方が出来ているのだろうか??


正直言って誰を誘って誰を誘わないとかって考え出すとキリが無いと思う。


配慮、忖度、思いやり
どれも点数を付けるのは相手側で100点満点は難しい。


誘わなかった、誘われなかった問題は生きてる上で
これから先も、おじいちゃんになっても
続く問題であると思う。

必要であろう人に隙なく全員に声掛けするなんて
なかなか難易度が高いし、そもそも必要かどうかの基準
も誘う側、誘われた側、誘われなかった側によって
変わってくる。


本当は

誘われなかった。と勝手に傷ついてるだけで
誘う側は声を掛けなかった事で傷つくとすら
思っていなかったのかもしれない。


そうやって勝手に傷つけたり妥当に傷つけられたりして
淘汰し合いながら人間関係は洗練されていくのだろう。

皮肉な事にコロナによって傷つく機会は少し減っているけど。。





お声掛けされなくてジェラシーを感じたからこそ

お声掛けしてくれる人のありがたみが分かった気がしました。  








追伸

『二次会からじゃなくて

挙式から呼んで欲しかった〜!』は

最高の愛情表現だなと思ってます!!







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