刹那さからのリスタート「山寺グラフィティ」〜藤子・F・不二雄の描くループ世界その3〜
傑作の呼び声高い「山寺グラフィティ」が発表されたのは1979年のことだ。
僕はこの作品が、藤子・F・不二雄SF短編の一つの集大成であると常々思っている。
この作品の人気は高く、ファンの間で行われたアンケートでも、並みいる藤子・F・不二雄SF短編の中で、堂々1位を獲得したほどだ。
後にSF短編と括られる作品の初出とされているのは1968年の「スーパーさん」や1969年の「ミノタウロスの皿」と言われている。
その後、実に120本もの短編が発表されている。
さて、本作「山寺グラフィティ」の話に戻ろう。
この「死んだはずの人が生きている」という設定は、SFやホラー、オカルトのジャンルでよく見かける設定である。
藤子・F・不二雄作品の中にも「おれ、夕子」(1975年)という、亡くなったはずの夕子が生きているのを見た、という不思議現象から展開していく話がある。
この作品でも死んでいたはずの人間が現れたのは、実は...という種明かしがなされて、話のオチがつく。
本作品も、その例に漏れずなわけだが、更にこの作品にはある「ループ構造」がしかけられている。
といってもいわゆる時間や空間に閉じ込められる類いの話ではない。
では、この作品のどこにループが存在するのであろうか?
ここには、初恋の幼なじみを亡くした男と、愛する娘を亡くした男の「心」のもがきや苦しみのループが存在するのだ。
広泰は、あるとき「岩穴の中で微笑むかおるの幻」を見る。
まだ高校生だった頃に二人で遭難して一晩過ごした「あの岩穴」である。
心理学では岩穴(洞窟)は以下のように説明されている。
何かを思い立った広泰は、脱兎のごとく郷里の山形に帰り、あの岩穴に向かう。
そこには、あたかもそこに女の子が暮らしているかのように、かおるのこけしと食器や家具のミニチュアが置いてあった。
それは、かおるの父親が「むすめの魂が成長できるように」と、そこに納めたものだった。
こけしには語源の諸説がいくつかあるが、その中に以下のような説がある。
広泰がかおるの幻を見たのは、何故だったのか?
父親がかおるのこけしを洞窟で暮らさせ続けたのは、何故だったのか?
それは、かおるの死を受け入れられず前に進めない二人の感情がループし続けているからに他ならない。
愛する人を失ってしまった人間の苦しみは、頭では理解出来ても、心の根っこのところでは飲み込めようもない。
かおるが笑ってお別れに来たのは、父と男が喪失感を受け入れ、前を向こうとし始めたからではないか?
そんな瞬間をこの作品は描いている。
そこには、言葉では表現しようのない”刹那さ”が存在する。
そしてその「刹那さ」は
幼なじみに恋する、ひとりの娘の短い命のきらめきであり
成就しなかった初恋を岩穴に閉じ込め、都会で生きる男に根付く郷愁であり
失ってなお、娘の幸せを想い続けた父親の深い愛情である。
最後に、この作品の巻末に作者本人による後書きを添えておきたい。
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