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くがひそらです。豊かなポリフォニック・アソシエーションへ

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<定理16-18>なぜ喫煙はいけないことなのか

なぜ喫煙はいけないことなのか。そもそもいけないことなのだろうか。いや、喫煙はしていいはずだ。日本では成人が周囲に受動喫煙をマナー外に強要していない限りしてよいこととなっている。 だが、禁煙ブーム、否、嫌煙ブームが訪れたように「煙草を吸うことはいけないことだからそろそろやめるか」というような声が大きくなった感じがした。自発的な判断というよりは、喫煙という「いけないこと」を続けるために世間の空気に抵抗するのが疲れた、とでも言うかのように。 しかし、確認しよう。もちろん、先ほど

    • <定理13-15>自分オリジナルの幸福を見つけていくゲーム

      人生で面白いところか、腐るほどあるな。しかし、基本かつ究極はこれであろう。自分が何をどのようにしている時が幸せなのか、という認識が深まっていくことだ。 自分の好きなことを考えていく。何か発展があったり、残していきたいものに関して、情報を加えたり除いたりする。それが為されないものは自然と消えていく。つまり、認識について進展がある「好きなこと」のみが残っていく。 こんなことをしなくても好きなこと、したいことなどわかっていると言うかもしれない。金が欲しい、名誉が欲しい、愛された

      • <定理10-12>自分のしたい呼吸に意識を向ける重要性について

        呼吸の重要性は大きい。自分がどうしたいかを知りたい、あるいは少しでも幸せな方に向かいたいと思うとき、呼吸は大きな指標となってくれる。 呼吸が自分の望むような感じであるならば、その時自分は幸せを感じていることになる。呼吸が乱れるというのは大抵、自分以外の何か(人物、状況、時間のなさ、焦り、病など)によって、自分の存在力が乱されていることを意味する。 自分が自分でいられているとき、呼吸も心地よいものになっている。それが深いか浅いか、早いか遅いか、激しいか穏やかであるか、に関し

        • <定理7-9>悲しみ、憎しみ、後悔を消失に向かわせるには

          スピノザは何か後悔や悲しいことがあったとして、それを必然であったと認識した時、憎しみは消えるとした。それはそもそも憎しみを抱く対象がないからである、と。 そもそもなぜ憎しみを抱くのか、といえば、それが自由な主体によって行われたと感じるからである。そうでないこともできたにも関わらず、そうしたところに悪意を見出し、その悲しい出来事の原因として一義的に決定することから憎しみは生じるとスピノザは言う。 しかし、実際は違う。誰かがあなたを傷つけた時、その人はそれ以外選択肢がなかった

        <定理16-18>なぜ喫煙はいけないことなのか

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        • 遊びのエチカ
          22本

        記事

          <定理4-6>集中力、意志の強さを向上させる

          集中力とか意志の強さといったものについて。それらはいずれも「余計なものを排除する力」である。何か1つのことに意識を向けるためには、別の何かが入ってこないようにしなければならない。むしろこちらの方が難しい。生死がかかっているわけでもない状況では、本来注意力は分散させておいた方が生存戦略上有利だったからだ。大昔は。 しかし、今は読書や映画や目の前の人との会話や食事や仕事などに集中したい、という時がある。そう、「集中したい」という欲望が生まれたのは、人類史的には最近の出来事なのか

          <定理4-6>集中力、意志の強さを向上させる

          <定理1-3>遊びと労働について

          ここに書くのは、僕なりの魔法である。しかも、少なくとも自分には確かに効果のあった魔法だ。それは「考え方」という魔法である。認識を変えるのである。イメージを得るのだ。知識というより頭の動かし方を覚える。筋トレではなく武術で今までとは異質な身体の動かし方を覚えることでより軽やかに自由に力強く、ある時は優しく動かせるようになるように。 さて、これは幾何学的体系でありながら、1つの物語でもある。ここを通過した時、腑に落ちていなくても景色が変わる。そんな認識体系を書きたい。スピノザの

          <定理1-3>遊びと労働について

          奥まった目の輝き

          交点の水滴に吸い込まれ、吸い込ませることで、美しい幾何を描きたい。操り、操られる。そこに水滴があるから身体が伸びる。 呼吸や目の輝きによって、活動能力が上がる。すなわち認識能力が上がっている。つまり、ご機嫌な方が強い。ご機嫌さとは、自分のコナトゥスがしっかり働いている状態=活動能力が高まっている喜びの状態である。 そして、この状態で為すあらゆる活動は〈遊び〉となる。反対に、活動能力が下がっている場合、あらゆる活動は〈労働〉となる。 「目の輝きを内奥に秘める」という意識の

          奥まった目の輝き

          スマホという守護神

          「スマホ×資本主義」は現代における最強の依存コンボである。この強大な相手に対して、浅い年月しか対処していない私たちは赤子の手を捻られるように大敗を喫するだろう。もちろん、依存しない人もいる。しかし、一度でも依存したことのある人は、喫煙と同様、すぐに再発してしまう。 禁煙と異なるのは、一切スマホを使わないことが難しい点だ。それほど現代社会はスマホに依存している。 ほとんどの人にとって良いスマホとの関係は、「スマホを自分の喜びのために使い、スマホ内のコンテンツを作る営利企業(

          スマホという守護神

          多孔的な多幸感ーー千田泰広「Brocken 5」を観て

          千田泰広「Brocken 5」というインスタレーションを観た。屋外に置かれた立方体のボックスの中に入って、五面の壁および天井に開いた小さな穴から日の光が何本もの細い糸のように差し込む、というコンセプトだったが、その日は曇りだったため、糸は数10本程度であったがそれでも幻想的であった。 表にあるボードにも書いてあったが、ボックスの中にはただポカンとした空間があるのみで、それは「無」と言える。そして壁に開いた穴もまた存在が抜かれたものとして「無」と言える。 するど、この空間は

          多孔的な多幸感ーー千田泰広「Brocken 5」を観て

          「ていねいな暮らし」は喫煙を許すか

          「ていねいな暮らし」という言葉には気をつける必要があるだろう。そこには「愚行権」を許さない何かがある。たとえば「ていねいな暮らし」の中には、お酒を飲みすぎてしまうことも、喫煙することも、ストイックな運動も、マクドナルドも、漫画喫茶に入り浸って漫画を読み続けることも、クラブで踊ることも含まれなさそうだ。 私たちには雑に生きる権利がある。もちろんだ。もちろん、そのはずだ。しかし、たとえば喫煙という習慣に関して、副流煙のリスクを引き受けている人同士あるいは1人で吸うことすらも受け

          「ていねいな暮らし」は喫煙を許すか

          スマホを郵便受けにしまうことにした結果

          スマホ(パッド)とは物理的に距離を置くことが一番楽だった。それは基本的にPCの子機のようなものと考え、屋内では必要があるならPCを使う。そのPCもノート型なので、使う時以外はケースにしまっておく。 これによって、家の中でインターネットの網が絡め取られる時間が著しく減る。そして、スマホに触るのを我慢することに集中力を削がれることも防げる。手の届く位置にスマホがある知っている限り、「今はスマホを触るのを我慢すべきか」という迷いが常時発生することになり、かなり疲れていることがわか

          スマホを郵便受けにしまうことにした結果

          誰が似合うと思う服を着るのか

          彼氏の好きな服を着る。あるいは流行りのファッション、好きなインフルエンサーのしているファッションをする。 これは守破離の「守」である。 しかし、なんとなく自分にしっくり来なくなってくる。どうも自分らしくない。そこで、正解はよくわからないが、今まで着ていたような服を買わなくなる。そして、迷走を始める。 これが守破離の「破」である。 そして、このなんとなく「ノリが悪い」時間(参考:千葉雅也『勉強の哲学』)を過ごす。 そこで迷走している中で、色々な服屋さんを廻るうちに自分

          誰が似合うと思う服を着るのか

          勉強と表現、存在の癖の周りで起こること

          つまり勉強とは生成変化なのか。同じ形の器たる自分が情報を蓄積していくのでなく、勉強する前と後で異なる自分になる、ということなのか。 だから、変化する前の自分では呼吸するかように扱えたインターフェースが、変化後はどうも馴染まなくなる。 世界への手慣れたインタフェースの喪失、が勉強。 僕は日々本を読んで何かを学び、得て、溜め込んでいる気になっているが、確かにそれで記憶量は増え有機的なつながりを見せているような気にもなるが、しかし一体何に比べて増えたのだ? 勉強する前の自分?

          勉強と表現、存在の癖の周りで起こること

          ポリフォニー

           僕たちは音楽だ。リズムでありメロディーでありハーモニーだ。一人一人に固有の音楽が流れている。  それぐらい複雑なものだ、我々は。つまり単音がピーとなり続けているわけじゃない。  だから人はそれぞれですでに十分完結し、すでに面白い存在であると思う。みんなが自分の音楽に耳を傾けられれば、世界はすでに自由だ。  実に面白い。音楽と音楽がぶつかれば雑音になることもしばしばだが、上手い具合に聴いてみると、また新しい音楽になったりする。  要は聴き様なのである。聴き方によって重

          ポリフォニー

          専門の回遊

           専門分野に足を踏み入れる。本を読むとき全部じゃなくて一部を読む。楽しそうなところを。習い事をしてみて、プロを目指さなくとも、基礎だけとりあえず習ってみる。体験する。  知の体系を物語を感触を手に入れるために、突っ込んでみる。すると、その周りの大きくて深い精密でダイナミックな全体を表している一部に触れる。他では味わえないそれを。  これはエネルギーがいるけど楽しい。専門性の回遊。色んなところで囓ったものは、体内で滋養として混ざり合う。独特の形成により独特の私になる。  

          満ちた孤独

           さびしさとは孤独ではない。満ちた孤独はにぎやかだ。孤独とは無ではない。一つの現象である。身体を動かすと世界が揺らぐ。骨の位置が組み変わり、筋肉の緊張のバランスが変動する。呼吸が、脈がうねる。しばらく状態は続き、また変わる。あるいは常に変わる。細胞は振動し、皮膚は伸び縮む。  動けば世界は変わる。十分に。精神は身体の観念であるとスピノザは言ったが、身体の動き、刺激で世界は変わる。ぐらっと、ちがうものへと。じっとしていても身体は不随意に動き続けている。だから、変わらない世界な