<定理1-3>遊びと労働について

ここに書くのは、僕なりの魔法である。しかも、少なくとも自分には確かに効果のあった魔法だ。それは「考え方」という魔法である。認識を変えるのである。イメージを得るのだ。知識というより頭の動かし方を覚える。筋トレではなく武術で今までとは異質な身体の動かし方を覚えることでより軽やかに自由に力強く、ある時は優しく動かせるようになるように。

さて、これは幾何学的体系でありながら、1つの物語でもある。ここを通過した時、腑に落ちていなくても景色が変わる。そんな認識体系を書きたい。スピノザの『エチカ』はその究極のものであるが、それを素人の個人がやったっていい。彼の土台を使って新しいエチカ、「マイ・エチカ」を編みたいと思う。

人はやりたいことをやるべきだが、自分のやるべきことを知らない。あなたが何をしたいか知っているだろうか。何をしている時に一番幸福を感じるかを知っているだろうか。知っているならそれをやるべきだ。否、すでに全力でそれをやろうとしているだろう。適切なタイミングで、心地の良いスタイルでそれをしている。できていないのなら、それを可能にするために最短距離で努力をしていることだろう。

もし、知らないのなら知った方がいい。自分がどうしたら幸せになるか知っているのが一番いい。しかし、人間は勝手に生まれて、世界に放り込まれて、ありがたいことに誰かに育てられ現在まであなたは生き残ってきた。どのような要素があなたの中にあるのかは生んだ人、育てた人、あなた自身さえもよく知らない。幸福については知らないのだ。同じく不幸に感じることも知らないだろう。

私たちは、皆一人一人違う。違う原因の連鎖で生まれてきたのであり、自然はあまりにも複雑であるから、同じ人はありえない。全ての現象は少しずつ異なっている。

だから、あなたは自分固有の幸せを見つけることになる。別に見つけなくてもいいのだが、見つけた方が楽しい。勝手に放り込まれたこの世界というゲームの中で実に楽しく生きていける。

生まれてきた意味なんてない。使命なんてあとからとってつけたものだ。僕らは生まれてきてしまったのだ。そこに目的なんてない。これは救いだ。僕たちは何かの目的のために生きなくていい。その目的とやらに縛られなくていい。だから、自由に生きることが許されている。

さあ、目的がないのなら、どのようにして目的を達成するか、という考えでなく、どのように楽しく生きていくかを考えればいい。つまりは、どうやってこの人生を世界という場所で遊ぶかについて考えるのが一番合理的だろう。合理的とは決して「金が稼げる」とかではなく、単に理に適っていることを意味する。不自然でないということだ。

楽しく生きることを〈遊び〉という呼ぶ。対して、楽しく生きられない状況を〈労働〉と呼ぶことにしよう。基本的な方針は、なるべく遊び、なるべく労働しないことだ。シンプルにこれだけだ。

遊ぶためにお金が必要で働かないといけない、その仕事があまり楽しくない場合でも、遊ぶための労働なので、理に適っている。非合理的なのは、遊べる状況であるにも関わらず、自ら労働を選んでしまっていることだ。何でそんなことが起こるのか。

1つは金である。金は魔力が強いもので、最強と言っても過言ではない。金はこの世界で実に多くのものと交換可能なので、持っているだけで万能感や安心感を与えてくれ、少ないと実に根源的な不安に襲われるようなものである。しかし、一方金はただの道具である。それ自体ではなんの役にも立たないのだが、ただ一つ、「多くのものと交換できる」という価値のみを持つ。

したがって、金を目的と認識した瞬間から色々な不幸が生まれる。自分がどのようにしたら楽しく過ごせる、すなわち遊べるのか知っているかを問わず、金のために動いた瞬間から、それは自分の遊びのためでない行動なので、必然的に強制となる。

「私のやりたい生活のための金」でなく、ただ金を稼ごうとした時から、その人の生活は労働に堕する。これはどれほど強く認識してもし過ぎることはないほど重要なことである。生殺与奪の権を金に渡してはならぬのである。

お金に困窮していてやりたいことができない場合でも、意識の持ち方としてはやはり、「このような生活をしたい」という欲望を認識することを忘れてはならないだろう。それこそが気高さである。どのように苦しい状況でも、他の人が苦しんでいる状況でも、日々ままならなくても、〈遊び〉について考えておくと、〈労働〉で人生を終えることはない。

なぜなら、〈遊び〉のための努力というのはすでに〈労働〉を脱し〈遊び〉となるからだ。自分の幸福に着実に向かっている活動は、現在がいかに苦しくても、それ自体は楽しい。大切なのは、自分の幸福に向かっているのか、ということだが、そのための前提は自分の幸福が何かを知っているか、ということだ。

おそらく、実に多くの人がこれをできていない。それゆえに多くの人は金に魂を売り、生活の大部分を〈労働〉に捧げることになる。お金持ちだろうが、貧乏だろうが、平均的な経済状況であろうが、金は手段で自分の幸福はどこにあるのかという意識を常に持ち続けたい。

自分がどのような状況の時、純粋無垢な子供のように心の底から世界を楽しめるのか、それを発見し続ける努力を続けよう。それを怠った時から、あなたは何らかの〈労働〉に飲み込まれていく。音もなくそれは正しいことのように忍び寄り、あなたの心を、生活を飲み込んでいく。いつの間にか、楽しい鬼ごっこは、生きるか死ぬかのデスゲームに成り果てているのである。

<定理>
(1)幸福のための活動を遊び、そうでない活動を労働と呼ぶ。
(2)一番注意すべきは金である。
(3)自分がどのような暮らしや活動を幸福と思うか、常に発見し続ける限り遊ぶことができ、それを怠った時から労働が始まる。

※定理が100までいったところで、幾何学的体系としての強度を上げるリファクタリング=推敲を一度行う予定。

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