<定理16-18>なぜ喫煙はいけないことなのか

なぜ喫煙はいけないことなのか。そもそもいけないことなのだろうか。いや、喫煙はしていいはずだ。日本では成人が周囲に受動喫煙をマナー外に強要していない限りしてよいこととなっている。

だが、禁煙ブーム、否、嫌煙ブームが訪れたように「煙草を吸うことはいけないことだからそろそろやめるか」というような声が大きくなった感じがした。自発的な判断というよりは、喫煙という「いけないこと」を続けるために世間の空気に抵抗するのが疲れた、とでも言うかのように。

しかし、確認しよう。もちろん、先ほど述べたように喫煙する権利が私たちにはある。それは嗜好品であり、お酒や甘いチョコレートやたまに食べるファーストフードなどのように、「健康の良い」という規制を逃れる「逃走線」(ドゥルーズ=ガタリ)であるような存在だ。それらは基本的に健康に良いものとされないが、それでも、それだからこそ楽しむ権利がある。

例えば覚醒剤は日常生活にあまりに大きな支障をきたすがゆえに認められていないし、それは妥当だと思う。だが、喫煙は認められている。ずっと昔から、どの国でも法律で認められている嗜好品の1つである。それはアヘンとは違う。煙草を嗜んでいる人で、知的に、文化的に、身体的に、経済的に充実した人はたくさんいる。そうすることは十分に可能であるし、アヘンや覚醒剤ではそれが難しいということだ。

だから、煙草を吸ってはいけないなんてことはない。マナーを守っている限りそれは認められるものであるし、マナーを守っていないのならばヴィーガンでもランニングでもジムでも認められない。マナーを守っていれば行っていいという点で、喫煙は他の活動と同等である。

しかし、それは「人に全く迷惑をかけてはいけない」という意味ではない。たとえば街中の喫煙所の側を通ることで受けることになる匂いや刹那の受動喫煙は無くせないだろう。それは確かに嫌煙家にとって不快なものである。

しかし、私たちはそれぐらいの迷惑は認め合うべきだとも思う。「それぐらいレベルではない」と言うかもしれないが、たとえば道路を走る車排気ガスは歩行している私にとって迷惑である。のんびり散歩をしている時に後ろから車が迫ってきて一応生命の危機に備えなければならない意識の使い方を迫られるのは迷惑である。

それでも、車は走っていてもよいと私は思う。ある程度は仕方がない。私は車はほとんどバスにしか乗らないが、自家用車で移動したい人の利便性や快適さを制限するような主張をしようとは思わない。それぐらい別にいい。

私はかつて煙草を吸っていて煙草を吸う時間は好きだったが、身体に合わないという理由で今は吸っていない。しかし、別にマナーを守っている人に対して煙草をやめてもらおうとは思わない。それぐらい別にいい。少しぐらい受動喫煙を食らっても構わない(もちろん程度による)。そもそも東京に住んでいて排気ガスで汚れた空気を吸っている。

健康に良くないから、という理由で吸ってはいけないとなるのもわかるにはわかる。いくら嗜好品とはいえアルコールに非常に弱い体質の人がお酒を飲むことは本人にとっても苦しいことの方が多いだろう。私も体質的に合わないから煙草はやめたが、これは人それぞれである。アルコールに少し弱いぐらいの人ならば、お酒をたまに嗜むぐらいはいいはずだ。

では、バターはどうなのか。ナントカ飽和酸が入っていて身体に良くないという。精製された白砂糖も良くないらしい。それならスタバのホワイトモカもダメだろう。最近では小麦などに含まれているグルテンも良くないらしい。白米は玄米に比べれば血糖値が上がりやすいらしい。ファーストフードはもちろん良くない。スーパーで売られているレトルト食品や惣菜に含まれている食品添加物だって良くない。そもそも先ほど触れたように都会の空気はよろしくないから、田舎の空気を吸っていないと健康には良くないだろう。

健康に良くないものなんて腐るほどある。それでもバターやホワイトモカや甘いチョコレートは美味しいから食べるし、小麦粉で作られたパンも食べる。たまにはマクドナルドが食べたくなるし、楽をしたいからレトルトや惣菜にも助けてもらい楽しみさえする。都会の方が便利で楽しいと思っている人は、空気が悪くとも都会に住むだろう。

私たちには、健康に悪いけどそれを選ぶ権利がある。当たり前のようにある。健康に良いことをするのは義務ではない。それもまた権利である。どちらかを選べるのである。選べなくなったら大変だ。上記に挙げた例の全てができなくなってしまう。過剰な健康パターナリズムは健康ファシズムと同義である。

私たちは健康のために生きているではない。確かに、こんなことを言えるのは自分が今健康だからなのだろう。いざ生活習慣病を患ったら「もっと健康に気を使うべきだった」と思うのだろう。しかし、健康に気を使いすぎてストレスを溜めすぎるのもまた健康に良くないというジレンマがある。

だがもっと大事なのは、健康以外に優先すべき価値観があるということである。例えば「楽しむ権利」や「自由に選択できる権利」「幸福を感じる権利」などである(そう、健康と幸福は違うのだ)。関係はあるけど違うものだ。イコールではない。ゆえに健康を追求することが幸福なのではない。概念としての「健康」は「お金」に近い。それは十分にあるといいし、なければ辛いことも多い。だが、必要な分だけあるのならば、あとはそれを使って何をするか、を考えた方が楽しい。

お金「だけ」いくら持っていても仕方ないように、健康「だけ」を持っていても仕方がない。

健康=身体が傷つくリスクを減らすことが至上命題なのであれば、食品や嗜好品、空気に限らず、スポーツや武道、ダイビングやバイクなどはどうか。それらは往々にして怪我をするし「適度な運動」以上の負荷がかかる運動となるし、命の危険すらある。文化系ならどうか。バンドを組んで大きな音に耳をさらすのは聴力にとって良くないし、茶道や華道、美術などは大丈夫そうだが、そもそも人に対して自分の感性を晒すことが緊張というストレスをかけることになる。

お金のために生活の全てをデザインをした瞬間からその人がお金の奴隷になるように、健康のために生活の全てが取捨選択された時からその人は健康の奴隷になる。

なぜ、喫煙だけがこれほど嫌われたのか。それは、嗜好品であり、臭いという感知しやすい要素があり、健康に良くないと科学的証明がなされているという組み合わせがあるからであろう。非難しやすい条件が整っているのである。あとは社会学的、心理学的な見地から考えられる理由も他にあるのだろう。

そして、何より嫌煙ブームが起った要因は「みんなが言っているから」ではないだろうか。みんながそう言っているから私も言っていいのだ、とみんなが思ったのだ。これは例えば誰かが発端となって始まる性被害の告発の流れのような、被害や改革の訴えにおいては勇気となって人びとを支えるものとなる。「あの人が言ったから私も言おう」は、主体性の低さを詰るのではなく、励ましの連帯を喜ぶべきだ。

だが、「みんなが言っているから私も言っていい」と誰かの嗜好を堂々と非難するのは、端的にイジメである。あるいは差別と同じ構造だ。もちろん人それぞれ好き嫌いはあるし、煙草の臭いが大嫌いなら苦手な食材に対してと同じ認められるべき感性であるし直す必要もない。だが、そのことと公共の場で堂々と「○○が嫌いだ。臭いから、健康にも悪いし。なんで○○なんかするのか信じられない」と発言することはまた別のことである。その言動は、受動喫煙に配慮した喫煙者よりはるかにマナーが悪い。

確かに喫煙は非難すべきことがわかりやすい。しかし、わかりやすさだけで人の趣味嗜好の価値を判定し、それのみ迷惑であると詰るのは子どものやることではないか。少なくとも大人はもっと考えるべきだろう。子どもじゃないのだから。肌の色や性的嗜好、障害などの(あえていうなら)「初期の違和感」を乗り越えて認め合うことができるのが大人ではないのか。

定理
(16)喫煙を含む嗜好品や何かを「汚す」趣味は、マナーを守っている限り楽しむ権利が誰にしも存在する。
(17)健康はお金と同様、ないと困るし必要な分あると良いが、十分があるならどのように「使うか」を考えた方が楽しい。
(18)「みんなが言っているから」という理由による他人の正当な権利への非難はイジメや差別である。

補遺
定理(16)にも書いたとおり、嗜好とは何かを「汚す」行為である。スポーツやダイビング、ツーリングなども「リスクなく守られた命」を汚していると言える。だが、煙草は嗅覚と視覚を通して、「汚している感じ」がわかりやすい。

一方、東京にいる限りでは、現代の都市や店舗デザインがどんどん「こぎれい」なものになっていると感じる。この原因に関してはわからないが、「インスタ映え」がこの傾向に拍車をかけたのは間違いないと思う。この「こぎれい」な感性と喫煙の「汚れる」感じの食い合わせが悪いのではないだろうか。

清潔なのは基本的に良いことだが、それとは別にデザイン的な観点から、社会全体が喫煙を悪としやすい環境に向かっている気もしている。

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