<定理4-6>集中力、意志の強さを向上させる

集中力とか意志の強さといったものについて。それらはいずれも「余計なものを排除する力」である。何か1つのことに意識を向けるためには、別の何かが入ってこないようにしなければならない。むしろこちらの方が難しい。生死がかかっているわけでもない状況では、本来注意力は分散させておいた方が生存戦略上有利だったからだ。大昔は。

しかし、今は読書や映画や目の前の人との会話や食事や仕事などに集中したい、という時がある。そう、「集中したい」という欲望が生まれたのは、人類史的には最近の出来事なのかもしれない。

意志の強さというのもこれに関わる。別の受動的な刺激に惑わされず、自分が幸せになれるはずのことを選びとること。そのために、他への欲望を排除すること。これが意志力と一般に考えられるものである。

この「今不要なものを排除する力」は、ランニングなどの運動によって向上すると、アンデシュ・ハンセン『運動脳』に記載されている。実際自分でもやってみると、確かにこの力は向上した。飛躍的と言ってもいいぐらいだ。それだけ人類は運動を本来もっとすべきところをしていないのだと感じる。正確に言えば、運動で集中力が向上したというより、運動不足によって下がっていた集中力が運動によって本来のパフォーマンスを取り戻した、という印象である。つまり、運動していない状態がいかに損であったかを認識した。

何でも太古の昔の人類に当てはめて正当化する考えには気をつけなければならないが、こと脳の構造的にはやはり大昔の人たちがしていた量の一部でも運動を生活に組み込まないと、脳や身体が本来持っている力を発揮できなくなる感じはある。

普段の移動の半分を小走りに変えるだけでも、爆発的な効果が発揮されている。精神も身体も(本来の)エネルギーが戻ってきた感じがある。日本の夏はクソ暑いので、移動中の走行は厳しく、時間をとって着替えてランニングした方が良さそうだが。

あと、意志の強さということについて言えば、運動をする以外、もう一つアプローチがある。それは、やろうとしていることについての必然性を知っておく、ということだ。これをやると何がどうなって、なぜ自分の幸せに結びつくのか知っておくことだ。

これについては運動と同様、魔法のような効果を発揮する。なぜなら意識が変わるだけで行動が変わるからだ。例えば、上記の運動について、ランニングについてだってそうだ。走って少しでも心拍数を上げて運動することで、自分の活動にどれだけ楽しく集中して取り組めるか、書籍から得た理論としてあるいは自分の体験として知っているかどうかで、それをするかどうかが決まる。

私は移動中に走ることについて「意志の強さ」を持って実行している感覚はもはやない。本当は歩きたいところを走らされているという感覚はない。ただ、走った方が気持ちよく楽しい生活が送れることを知っているから、走りたくなって走るのである。「意志の強さ」が何かを我慢した上での実行力を意味するのであるならば、ここではもはや「意志力」という概念そのものが消失している。

集中力だって同じだ。今、この文章を書いていることは自分なりにとても楽しいことで、これがどれほど自分の毎日を幸福にするかを知っているから、もはや集中しようという意識すらないし、「欠かさず続けるんだ」という意志力すら存在しない。私はこの文章を書くことが自分の幸せそのものであるという認識があるのだ。

ゆえに、自分の活動についての十分な必然性(幸福へのルート)が見えていれば、集中力は高まる。たとえ運動不足であると音楽アーティストが自分の曲作りに熱中したり、棋士が目の前の一局に集中できたりするように。あるいは、目の前の仕事に集中して30分早く終わらせられれば、その分別の自分の幸福につながる活動=遊びができると知っていれば、まさに集中できるように。

そう、考えれば、やはり自分の幸福がどこにあるのかつねに意識しておくこと(定理3)は、集中力や意志力を、自分が持っている本来のレベルまで高めておくにあたり重要と言える。

定理
(4) 集中力や意志力は、余計な認識を排除する力である。
(5) ランニングなどの運動により、集中力/意志力は向上する。
(6) 定理3(幸福認識の定理)も踏まえ、自分の活動の幸福への必然性を知っていると、集中力や意志力も向上する。あるいは概念自体が消失するほど自然に集中できる。

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