<定理13-15>自分オリジナルの幸福を見つけていくゲーム

人生で面白いところか、腐るほどあるな。しかし、基本かつ究極はこれであろう。自分が何をどのようにしている時が幸せなのか、という認識が深まっていくことだ。

自分の好きなことを考えていく。何か発展があったり、残していきたいものに関して、情報を加えたり除いたりする。それが為されないものは自然と消えていく。つまり、認識について進展がある「好きなこと」のみが残っていく。

こんなことをしなくても好きなこと、したいことなどわかっていると言うかもしれない。金が欲しい、名誉が欲しい、愛されたい、モテたい。本当にそうだろうか? 本当に金がたくさんあって、名誉があり、ファンがいて、性的快楽が満たされていれば幸福なのだろうか。誰しもが?

私たちはみな違う人間で、違う性質を持ち、違う育ち方をし、経験、考え方、知識、情緒を経由してきた。それなのに、何をもって幸せか、みな同じだろうか?

それなら文化はなぜこれほど多様なのか。スポーツも音楽も美術も学問も芸もファッションも人を助けることも話し合うことも色々なことに幸せを感じ、それが人によって偏っているのはなぜだろう。

人はそれぞれ何を幸せに思うか違うからだ。もちろん重なる部分もあるだろう。飢えていないし、病んでおらず、戦争が起きていない、など。しかし、それは最低限社会が確保していくべき「文化的な最低限度の生活」であり、その先の「文化的な最高に楽しい生活」というのは十人十色である。

そして、ここが肝なのだが、私たちは自分が何をもって「文化的な最高に楽しい生活」と言えるのかを知らない。自分のことは自分がよく一番わかっている? 確かにそうだ。結局自分の幸せは自分の感覚でしか見つからない。自分のことは他の人よりわかっている。しかし、自分のことについて一番わかっているあなたでさえ、自分のことのほんの一部についてしか知らない。

私は私の体が医学的にどのような仕組みで動いているのかを知らない。脳がどのように動いているのかも、心がどのような仕組みで働いているのかも知らない。無意識でどのような感情を抱え、自分の今の選択がどのような理路を辿って行われたのか十分な説明をし尽くすことはできない。

当たり前である。私たちはそもそも勝手にこの世界に産み落とされたのだ。そしてありがたいことに自我を意識できる年齢まで育ったのだ。そもそもが自分の預かり知らないところで自分がつくられていった以上、自分について知り尽くしているわけがない。この世界の仕組みについてもそうである。

ということで、私という生命はどのようなときに最高に楽しい生活を送れるのか、という仕組みについても、私たちはよくわかっていない。みながそれを知っていれば、迷いなくそこを目指し、葛藤や回り道は起こらない。

自分に幸福をもたらしてくれるものを見つけるためには、経験を積みながら考えるしかない。これは良い感じで、これはあまり良くない。こうしたときは良かったけど、ああいう風にするのは悪かった、など。自分について全てを知らなくとも、その感覚だけについては確かに知っていることであり、私が幸福に過ごすための最も大切な情報群となる。

そして、自分の幸福に過ごせる状況について多くを知っている人は、あまり惑わない。惑わされない。不惑となる。なぜなら自分の目指すべき状況、あるいは1日、1週間、1月、1年のうち、どの活動が死活的に私の幸福にとって重要なのかを知っているからだ。それをしないで別のことをさせる誘惑に難なく抵抗することができる。あるいはもはや誘惑として意識すらされない。

金や名誉や快楽に溺れる可能性もない。なぜか。それらより自分を幸せにするものが何かを十全に知っているからである。それらに溺れると自分を幸せにするものが手に入らなくなってしまうからである。

なんとなく知っているだけではダメで、しっかりと知っていないといけない。身体で記憶で継続的に、これが私にとって幸せなのだと、認識を繰り返す必要がある。そうした場合に、世俗的な「幸福とされるもの」以上に、「自分を幸福にするもの」を選び取りたいという感情を保つことができる。

十分に知るには体験するしかない。だから、自分が何をしているときにめちゃくちゃ楽しいのかは、色々やってみるしかない。そうやってデータを得ていく。自分だけの大切なデータを。

神様はなぜ人間をそんな風に作ったのか、と嘆くかもしれない。動物のように本能で動き迷いなく自然と調和して暮らすことができれば、最初から不惑で幸せなのではないかと。

仕方がない。人間は生まれたのだから。そして、人間は本能以上の「余計なもの」を見出してしまう/見出すことができる生命である。これは人間に唯一無二の特性である以上、これを活かした方がいい。人生と同じだ。人生に意味なんてないが、どうせ生まれてきたのならこの生命の特性を活かし、楽しんだ方が楽しい。

そして、「自分のやりたいことが徐々にわかってくる」というゲームの喜びはまさに、動物では味わえない、人間のみに与えられた幸福=喜びのあり方なのである。ゲームのルールはそのようになっている。このルールはどうやら破壊できそうにない。なら、たとえば手を使ってはいけないというルールでサッカーを楽しむように、その中でできるだけ自由闊達に走り回ってやろうじゃないか。

そして、神様が人間の本能を壊したことを嘆くのをいつの間にかやめ、このゲームの面白さに感謝するときが来るかもしれない。

定理
(13)自分はどのような時に幸せかを知っていくには、様々な体験と幸福感についての検証が必要不可欠である。
(14)自分に幸福をもたらすものを十分に認識しているとき、誘惑への抵抗力が上がり、消失すらする。
(15)自分の幸福がなにか最初は知らないが徐々に分かってくる、というルールは人間だけに与えられた喜びとなりうる。

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