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長期的な「理想」と短期の「欲望」を分ければいろいろ説明できる

10代終了まで30時間ほどなのでその集大成的な記事を書きます。

今回の記事は、小学生の時に聞いた福山雅治の歌から、中高、そして大学の今に至るまでに読んだ無数の本がスルスルっとつながって得られた知的な感動が出発点となっています。

ごっちゃごちゃですが、個々の章はそれなりにまとまっているつもり。

みなさんの人生への刺激となることが書けているつもりです。そう思い込まないと恥ずかしくてこんな文章見せられません笑。

まず目次に目を通して、つまみ食いしてください。

それでは、レッツゴー!!


理想と欲望 〜ダイエットはどうして失敗するのか?〜

僕たちは、人間の長期的な願望を「理想」と呼び、短期的な願望を「欲望」と呼んでいますよね。

たとえば、課題が終わらず夜更かしし深夜にカップラーメンに手を伸ばしたくなるのが短期的な願望であるのに対して、健康のために痩せたいというのが長期的な願望ですね。

そして、いやなことにふつう両者は矛盾してしまいます。しかも短期的な願望の方が手強い。意志の力に頼ったダイエットは成功しないとかよく言いますけど、仕方のないことです。

じゃあどうするのかといえば、痩せたいという長期的な願望のために、そもそも家の中に不健康な食べ物はストックしないとか、ダイエットするぞっていろんな人に宣言してみるとか、ダイエット仲間を見つけて運動する予定を入れるとか、そういった対策をとるわけですよね。

その前に痩せた自分がどんな生活をしているのかを想像してモチベーションを上げたりするかもしれません。

これらの対策によって「私は健康に気を使う人間だし、周囲もそれを知っている」とか「俺は今年の夏にはバッキバキの体になっていて、たくさんの人をつい振り返らせてしまう」みたいな物語を自分ごととして獲得できればかなり頑張れるはずです。成功するかは別として(やれやれだぜ)。

いろんな手を駆使して、自分は痩せている方がふさわしいという“物語”を獲得すれば、今太っている自分は居心地の悪い状態になるのでそれが生活を改善する原動力になるわけですね。

理想を思い描くのもそのいろんな手のうちの1つです。物語という道具を上手く使うための道具として理想(目標、ゴール)を利用しているわけですね。


ともかく、いろんな手を駆使して長期的願望を叶えるための物語を手に入れることができれば、僕らは自分が持っている資源、集中力や体力や知力といったエネルギーを、楽しみを見出すことにレーザービームのように照射することができるのです。(わけわからんと思いますが今はスルーしてください)

理想の物語の臨場感が高ければ高いほど、僕たちは短期的な願望(コーチング的にいうなら現状の力)に負けなくなります。

この辺についてはこちらを読んでみてください。僕がライターとしてプロコーチの方の話を書いたものです。

上手くいくゴール設定がわかります↓

僕たちは、あの手この手で自分の物語を変え、深夜のカップラーメンとか焼肉の誘いというノイズにあらかじめ対処し、やらざるを得ない状況を用意したりして、自分の意識を統制し集中させることができます。

そして実は、意識の統制が取れている時間が長くなるほど、僕らは楽しみや成長を感じることができます。フロー体験というの概念で説明できるのですが後ほど紹介します。

充足(楽しみ)と快楽 〜エネルギ補給か”食事”か〜

フローの話の前に、短期的な願望と長期的な願望をまた別な視点から見てみましょう。充足(楽しみ)と快楽について考えてみます。

まず、先ほどのように快楽と充足(楽しみ)の定義から考えていきます。具体的に食事の例から説明を組み立ててみようと思います。

僕たちには食欲があり、食べると快を得ますよね。僕の場合あんまり食事に集中していなくて何を食べたかもあんまり覚えていませんが、それでも何かは食べます。

このような食事の仕方を“快楽的な食事”とします。快楽的な食事は、食事というよりエネルギー補給に近いと言えます。食事のたびにエネルギーを充填して空腹状態から回復してはいますが、別に成長したようには感じませんし楽しみもないといった感じ。

もし快楽的な食事しかできない人々の世界にアメリカからジャンクフードがやって来るとどうなるか?

食べるほどに物足りなくなって、食生活は乱れ、不健康へまっしぐらです。

一方、グルメな人たちを考えましょう。アメリカ的な食に対して、フランス人の食事みたいなイメージです。

彼らは料理を前にまず観賞し、香りを味わい何か一言「ハーブの香りが」などなど呟いて、ようやく口の中に小さい塊を運びます。口に入れたら、かみごたえ、舌触り、微妙な味の変化、鼻に抜ける香り、ハーモニー(?)などに意識を向けゆっくりと呑み込みます。

今までに同じように味わってきたものと比較したり、料理の背景を想像したりしながら、感傷に浸り、シェフに「ファーストタッチが全然違いますね」とか「魚介の宝石箱やあ」なんて声をかけたりします。

こういった食事の仕方を”充足的食事”とします。

意識を統制して、対象に感覚を研ぎ澄ませ向き合っていることで生まれるのが充足(楽しみ)と言えるでしょう。

グルメな人は、食事のたびに次の食事を分析するためのデータが増え、舌が肥えていくといった成長を感じ、料理に対する自分の感覚がより複雑になっていくのに喜びを感じます。

だから儲かるかとかモテるかと言えばそうでもないかもしれませんが、ともかく少ない量で自分独自に楽しむことができ、成長した感覚を得られます。


これをもとに一般化すると、

快楽:不足している状態から平常状態に回復するための技術のいらない気持ちのいいものであるが、歯止めが効かなくなりうるもの

充足(楽しみ):意識を対象に集中させるというスキルによって引き出せれる独自の快楽、それによる自己の複雑化によって得られる成長感や満ち足りた気持ち

といえそうです。

ポジティブ心理学のジョナサン・ハイトが書いた『しあわせ仮説』から引用します。

広く知られているように、感覚的快楽に哲学が警戒する理由の一つは、その効用が長く続かないからである。快楽はほんの一瞬良い気分にさせてはくれるが、その感覚的な記憶はすぐさま消え失せてしまう。またその人は、それによって賢くも強くもならない。さらに悪いことに、快楽は人をさらなる快楽へと引き込み、長い目で見ればより良いと思われる活動から人を遠ざけてしまう。しかし充足はそうではない。充足は私たちにより多くのものを求める。充足は私たちに試練を課して、能力を伸ばすことを求める。充足は多くの場合、何かを達成したり、学んだり、改善したりした時にもたらされる。『しあわせ仮説』


この定義でいうと、ゲームに熱中している人は快楽ではなく楽しみを味わっているといえます。集中し全力を出し切ってようやくできるレベルをクリアして、もっと難しいステージを目指すプロセスを楽しんでいるのです。

ゲームが長い目で見て良いと思われる活動と言えるかは人によりけりだと思いますが、要するに充足感も使い方次第ということでしょう。

充足が良いもので、快楽が悪いものだというより、長い目で見て良いと思われる活動に人を向かわせるのは充足の力ですよというのが本筋だと思います。意識の統制なしには、際限のない快楽からしか満足を得られなくなってしまう。

先ほどの、理想と欲望の話に関連づけると、“成長”や“なるべく少ない外部の刺激から楽しみを多く引き出す”という充足の特徴は、持続性や長期的な視点の存在を内包しています。

長期的な願望と充足、短期的な願望と快楽がイメージとしてつながっていることがポイントです。


象と象使いの比喩

よく、人間の本能と理性の比喩として象と象使いが使われます。本能=象、理性=象使いですね。

当然ですが、象使いのパワーは象にとても敵うものではありません。象使いは、うまく象を導くことしかできないのです。

これを先ほどまでの話につなげるならば、

快楽、欲望、本能は象の要素であり、
充足、理想、理性が象使いの要素である

ことに納得していただけるかと思います。
(鈴木祐さんの『ヤバい集中力』はかなり具体的なレベルで象を導く方法を45種類も紹介してくれています)

だんだんここまでの話がつながってきましたね。

単純だけれどとんでもないパワーを持つ象の、短期的な願望を満たそうとする力を、いかに象使いが長期的願望に導き充足を得られるかかが僕らの持続的な幸福のカギを握っているといえそうです。

面白いことに、象使いの力によって象をうまくコントロールできている人を僕らは“品のある人”と呼び、多くの宗教や哲学は象に振り回されている人を“愚か”であるとしてきました。

そして、旧世界においては人間の短期的な願望が長期的な願望を駆逐してしまわないために大きな物語の力を駆使してきました。具体的にいえば、死後の世界や神を仮定したり国家の誇りや脈々と受け継がれてきた伝統といったものを信じさせることによって。


「縮退」という概念で全部つながる

ところが、昨今のグローバルな社会で何が起こっているかといえば、これらの方向とは真逆のことです。GAFAの台頭がわかりやすいですね。

思考の補助線とするために物理の話からこの現象を考えてみます。数行の間物理っぽい話をしますね。

一般に、秩序立った状態は稀少性が高くエネルギーを秘めており、これが無秩序な稀少性の低い状態へ移る過程で莫大なエネルギーが引き出されます。エントロピーの増大(放っておくとエントロピーは増大していくという性質があります)とかいう概念で説明されることですね。

たとえば、水力発電は水が高い位置にあるという外部からの力が必要な“稀少な状態”から、稀少性の低い状態へ移行させる過程でエネルギーを得ています。火力発電なら燃料は稀少ですが燃えかすは文字通りカスでしかありませんよね。

こうやって、エントロピーが増大する過程で膨大なエネルギーが引き出される過程を「縮退」と言います。

はい、物理の話はおしまいです。

この「縮退」という概念が、ちょうど現代の経済を語るのにもってこいなのです。

現代の資本主義社会は、これまで抑圧し秩序立ててきた状態を解体し一気に欲望を解放させることでその富を生み出し続けているのです。ちょうどダムから放水するような感じです。

これは、短期的な願望(楽をしたい、今すぐもっと〜したい)を暴走させ、長期的な願望を駆逐させることで、ともいえます。

快楽と充足の話も縮退で説明できます。充足には意識のコントロールがいるという点で稀少性が高く、充足の縮退した形が欲望であると言えます。欲望は放っておいても広がろうとしますよね。

たとえて言うなら、現代の勝ち組みたいな企業が行なっているのは、テクノロジーによって外部から象を巧みにたぶらかそうという、まあある種のテロ攻撃です。実際、ひと昔の人が見れば狂気に見えるでしょう。

今世界を牛耳っている巨大企業がどんな競争をしているかといえば、“あらゆる衝動を、即座に、ストレスなく実現させる”競争です。

もちろん便利を追求するテクノロジーもその競争の産物ですが、むしろより厄介なのは現実と幻想を混同させるようなファンタジーの提供でしょう。

無限に供給されるファンタジー、ますますリアルに近づいていくポルノ、無料ゲームアプリ、スマホの中だけで完結する言いたい放題の世界、家でもできるネットショッピング・・・etc

これらを提供する企業がどれだけ儲かっているかはご存知かと思います。その度合いは、現代人の精神の縮退っぷりを反映しているのではないでしょうか。

これらの結果、僕らの社会は精神面でいろいろな問題を抱えることになってしまいました。

こういった社会の縮退ビジネスはアメリカが建国以来ずっと促進してきたものなので、アメリカのファンタジーランド的な歴史がそのまま縮退していく世界の様相に重なります。

社会の縮退を学ぶ上で、アメリカのショービジネスの歴史は良い教材となるはずです。

180年前にアメリカを視察した人が書いてたこと

今から約180年前、フランスのトックヴィルという若い政治思想家が一年間アメリカを旅して考察したことを本にしました。

日本には福沢諭吉が紹介し、今もアメリカ史を学ぶ上で欠かせない教科書となっています。

彼の鋭い洞察を見てみましょう。

人間は、もし肉体の死と共に自分のすべてが消滅すると考えるようになると、次第に将来のことを考えようとする習慣そのものを失っていき、そしてその習慣を失うや否や、自分たちの小さな願望を、忍耐なしに直ちに実現しようとする。・・・・つまり彼らは永遠に生きることを断念した途端に、今度はわずか一日しか生きられないかのように行動するようである。

180年前のアメリカを見ての言葉ですが、まさに僕らはこれが全世界的に実現しかけている社会にいると言っていいかもしれません。

トックヴィルはアメリカの延長上にある世界を終末世界とまで言っています。

そういう終末世界では、“人間はとにかく楽して、なるだけいいものを得たい、とにかく楽したいというその衝動がすごく大きい要因として出て来てしまう。それから組織の中に入るよりも平等のほうを望む。人の命令は聞きたくない。命令を聞くのが嫌で、努力するのが嫌で、それでいて、飽きっぽい。そして、飽きたらすぐに次のところへ行きたい”というどうしようもない刹那的な生き方をすることになります。人間の精神が縮退してしまっているのです。

象使いの例えで言うと、象を外から誘惑する手がたくさん伸びていて、象使いが完全いやる気をなくしているみたいな状態ですね。

象も象使いも同じ一人の人間なので、精神が縮退すると象使いは象に吸収され一体となります。

テクノロジーによる社会の縮退の最終形態は、人間が培養槽のようなものの中に閉じ込められ、仮想世界を生きているという『マトリックス』みたいな世界線かと思います。

まあ、社会の成員がだんだんそういう方向に“縮退”していく方が、企業や権力者にとっては都合がいいわけですね。資本主義システムは欲望発電みたいなことをしているわけです。

ただしそれは不可逆的で、ジャンクフードばかり貪り食うアメリカ人のような末路が待っているというイメージを持った方が良いでしょう。

フロー体験

さてさて、お預けにしていたフロー体験についてです。ちゃんと充足とか縮退の話とつながってきますのでご安心を。

聞いたことがない方のためにいうと、スポーツの世界ではゾーンと呼んでいる、あのような完全な集中状態をフローと言います。フローの間は今やっている体験自体に完全に意識が集中しています。

勝利のためにバスケをしていたり、胸筋を鍛えるためにトレーニングをしていたり、神に近づくため祈ったりしているのではなく、活動それ自体を楽しんでいる状態です。

フローの間は意識が1つのことに向かって秩序立っていて、その間は自分が世界とつながっているような感覚だったり、時間の感覚が歪んだりという経験をします。まさにさっき説明した充足しているときの状態ですね。

もちろん、快楽によって対象に没頭していることもありますが、そちらは注意を集中しているというより、集中させられているという方が近いように思われます。

ここまでで僕が関連している、または類似しているとして扱ったワードをまとめてみます。

○長期的願望、理想、充足、意識のコントロール、秩序、成長、スキル、フランス人の食事、象使い、フロー体験、大きな物語(歴史、伝統、宗教的教義)

    ↓縮退(不可逆:自然には回復しない)


○短期的願望、欲望、快楽、平常状態への回復、エネルギー補給、アメリカ人の食事、象、現代資本主義

だいたい直感的なイメージは固まってきたでしょうか?

フローの話に戻ります。

僕たちは、フロー体験の後で、幸せだったとか成長したといった感覚を得ることができます。自己がより複雑になっているという感覚もあります。少し前に出た充足の話と同じですよね。

つまり、ここまでを総括すると、意識をコントロールする術を身につけることは長期的な願望や長期的な利益のためになるばかりではなく、短期的な楽しみにも繋がるということです。また、それは個人の話としても言えるし、社会的にもそうだと言えるでしょう。


フロー体験の研究の第一人者であるチクセントミハイ氏がうまいことまとめているので、文章を引用してみます。

何に集中するかをコントロールすることは、感じ方をコントロールすること、したがって人生の質をコントロールすることである。情報は関心を向けているときにのみ意識に上る。
何に集中するかは、自分の外の出来事と体験の間のフィルターの役割を果たす。どれだけストレスを感じるかは、実際に起こることそのものよりも、何に集中するかがどの程度コントロールできるかにかかっている。
身体の痛み、お金の不安、恵まれない生い立ちといったものの影響は、意識の中にどれくらいそれらを取り入れるかにかかっている。痛ましい出来事は、心理的なエネルギーを注げば注ぐほど、現実味を増し、心がざわめき落ち着かなくなる。そうした出来事を、否定し押さえこもうとしても、ごまかしたとしても、何の解決にもならない。そうした悲しい出来事の記憶は、心の奥でくすぶり続け、やがて大きく広がらないように押しとどめている心理的なエネルギーさえも枯れさせてしまうだろう。
むしろ苦しみを見つめて、その存在を暖かく受け入れ、認め、尊重する方がよい。できるだけ早く、自分で集中することを選んだことに注意を向けて忙しくしてしまう方がよい。『フロー体験入門』


目標の重要性

長期的な願望は夢や目標ということもできますが、未来は予測できず描いた夢は叶わないことの方が多いという点で、それは一種の虚構であると言えます。

ただしそうであるとしても、人間が欲望に駆逐され、トックビルの言う終末的世界に陥らないためにやはり理想や目標は必要です。できれば利他的なものであるとより幸福度が高まります。

もちろん酒池肉林のようなものは単なる巨大な欲望という感じなので別です。縮退という視点から考えれば違いがすんなりわかりますね。

かつて福山雅治は「大きな夢を1つ持っていた 恥ずかしいくらいバカげた夢を そしたらなぜか小さな夢がいつの間にか叶ってた」と歌っていましたが、まさに夢という物語の役割はそこにあります。

引き続き、チクセントミハイの言葉を引用します。

フローを体験するには、明確な目標持つことが有効である本当に重要な目標を達成するためというより、目標なしでは精神を集中させて注意散漫を回避するのが難しいからである。たとえば登山者が目標として頂上に到達することを決めるのは、そこに到達したいという深い願望があるからではなく、目標が、登ると言う体験を可能にしてくれるからである。頂上と言うものがなければ、登山は無意味なぶらぶら歩きになり、心が落ち着かず無気力になってしまうだろう。多くの根拠があることだが、たとえフローを体験しなくとも、目標に一致することを何かするだけで、精神状態は改善する。例えば、友人と過ごすことはふつう浮き浮きすることだが、その時、その友人とそうしたいと思っていたら、特に浮き浮きした体験になる。目標の一部であるとうまく考えることができたら、嫌いな仕事でさえ好きに思えてくる。  『フロー体験入門』

目標や夢は、充足を引き出すために象使いが使える強力な物語の武器なのです。

チクセントミハイが言うには、心理的エネルギーをコントロールできない人生というのは、生物学や文化の奴隷です。

通常、人の注意は、遺伝的教示、社会的関係で、子供の時に学ぶ慣習によって方向づけられている。したがって、何に注意を向けるべきか、どの情報が意識に上るかを決定するのは、我々ではない。そのため、我々の人生はいかなる意味においても我々のものではない。我々が体験するほとんどの事は、あらかじめプログラムされているのである。われわれは、何を見るべきで、何を見るべきでないかを学ぶ。覚えるべきことと忘れるべきこと、コウモリ、旗、あるいは異なる形式で神に祈る人を見たときに、どのように感じるべきかを学ぶ。歳を経るにつれ、我々の体験は生物学や文化によって記された脚本に従うようになるだろう。自分の人生のオーナーシップを取り戻す唯一の方法は、自分の意図と一致するように心理的エネルギーを導く術を学ぶことである。

最近になって脳の神経可塑性や遺伝子スイッチと言われるシステムが解明されてきているようですが(こっちの知識ももちろん甘噛み程度)、僕らは想像以上に運命に対してフレキシブルだと認識しておいて良さそうです。

もういちど言いますが、目標や夢は、充足を引き出すために象使いが使える強力な武器です。

そして、目標や夢は物語であるとも述べました。

先ほど、人類は短期的な願望が長期的な願望を駆逐しないために大きな物語を利用してきたことをざっくり説明しましたが、それも合わせると、人類は物語の力をうまく利用することで個人的にも社会的にも象をうまく飼い慣らしているようです。


人は物語で理解し、結束し、悩む

人間の頭は、物語をもとにして考えるようにできている…だから人間の動機の大半は、自分の人生の物語を生きることから生まれる。自分自身に語りかける物語が、動機を生み出す枠組みとなるのである『アニマルスピリット』

実は、現代人のように物語を使って考えることは人類にとってわりと最近のことでした。その起源は狩猟から農耕社会への移行期にあります。

稲や小麦に家畜化され、せっせと腰を痛めて働くようになってから、人類は長期のスケジュールを組み、備蓄した作物を長期的に管理し、大人数で集落を作り、一人一人を把握できないような規模の人数で社会を作っていくようになりました。

ここで、短期的な願望に抗う理性や人を束ねる理想の力が必要になってきます。

大勢で協力するため、また管理社会を成り立たせるため、人は因果という考え方を利用するようになります。

因果とは、“ああすればこうなる”というやつです。その“ああすればこうなる”という因果の組み合わせが“物語”です。物語を共有することによって、顔と名前が一致しないような相手とも、会ったことがない人とも協力し合えたんですね。

大きな社会の営みは、物語を動力にして回転し始めたのです(上手いこと言ってやった感)。

もっとミクロな話だと、受験勉強の時にエピソード記憶を使うと暗記力が高まるとか教わった人もいるかもしれません。これも、物語の力を利用しています。自分ごとになった物語には忘却に抗う力があるのです。忘却に抗う力は当然、長期的・社会的に考えるのに必須となります。

人数が少なければ忘却することはそんなに問題ではありませんが、増えて社会が複雑になってくるほど忘却に抗う必要が出てきたので、大きな物語の構築を始めたと言われています。

現に今も狩猟生活をしているアモンダワという少数民族の間には未来や過去という概念自体が存在しません。1970年代に彼らを取材した言語学者は彼らのことをこう表現しています。

「人々は経験していない出来事については語らないー遠い過去のことも、未来のことも、あるいは空想の物語も」

つまり、アモンダワの社会には因果も物語も存在しないわけです。彼らは、今この時この場所しか生きていません。精霊の存在は信じていますが。

時間軸の概念がなくても、彼らの営む狩猟生活には象を誘惑する力(スマホ、テレビ、会社…)が弱く、ぼんやりとしていては生きていけないような緊張があるので意識は統制され、フローの時間は長くなるのでしょう。たぶん。

よくある因果

アモンダワの民とは違い、現代の僕らの脳にはすっかり因果で考えることが定着しているようで、悩む時にも将来を考える時にも必ずと言っていいほど利用しています。

単純な因果によって世界を理解した気になると安心できるからでしょう。無意識に強力な因果(物語)の力を使っているのです。

試しに、よくある物語を列挙してみましょう。

・私は〇〇な(バカな、なんでもできる、がんばれる、無力な・・・)人間だ
・僕には〇〇(忍耐力、合う仕事、がんばる理由)がないから、次々と仕事を辞めてしまう
・悪いことをしたから、今こんなに苦しい思いをしているんだ
・親に可愛がられてこなかったから、恋愛ができないのだ
・監督が交代したから、あのサッカーチームは勝った
・このまま頑張れば、きっと大金持ちになれる
・努力したから東大に合格できた
・俺が太ってるのは遺伝のせいだ
・私は誰にも愛されるはずがないのだから、傷つけられたって当然だ

などなど。日常的に僕らが考えてることはほとんど単純な因果で考えていると言ってもいいかもしれませんね。

物語には真実が含まれることもあるかもしれませんが、納得することや力を引き出すことを優先しているので、大体は的を射ていないか簡略化しすぎです。たぶん、僕が書いているこの文章もそうです。

みんなが信じることで真実味が増している物語もあります。お金や国家がそうです。お金なんてテロリストだろうが共産主義者だろうがその価値を信じて振り回されています。笑える。

言ってしまえば、資本主義や国家やお金だって、すべて虚構、宗教みたいなもんです。社会の成員が共通の物語を信じることでその物語を保っているだけなのです。

前章までの話から考えるなら、物語の力を使えば一気に縮退を推し進めることもでき(酒池肉林、アメリカン・ドリーム)、縮退の進行に抗うことさえもできるということになります。

資本主義のような縮退を生み出す物語は、秩序を生むのとは反対の方向性に人の背中を押す力として作用しています。代わりに巨大なエネルギーを引き出していますが、やりすぎると後戻りできなくなるのでしたね。

これほど強力な物語の力ですが、因果で考えるのとそれが現実的に正確かは別問題です。むしろかなり間違っていることが多い。

さっきから物語を“道具として”使う話をしてきたのも、タチの悪い物語は自分自身を傷つけたり、他人を傷つけたり、はたまた戦争の動機にまでしてしまうからです。たかが虚構、されど虚構です。

人類が手に入れてきた様々なパワー(火、ダイナマイト、核)と同じく、物語もどう使うかが問題と言えるでしょう。


因果の説明はだいたい間違っている

僕らが考えているほど出来事はそんなに単純ではなく、多くの場合わかりやすい物語は現実に対して正確ではありません。

現実には、確率やべき乗則、人間にはわからないけれどAIには理解できる法則のようなものなどなどが働いています。

確率の話をするなら、ランダムネスという考え方は因果の物語とは異なります。僕らの世界は途方も無い偶然に支配されているというものです。

高校生の時に読んで影響を受けたランダムネスの本からちょっと引用してみます。

ランダムネスの研究は、出来事に対する水晶玉的見解は可能だが、残念ながら、それができるのは唯一出来事が起きてからであることを教えている。われわれは、ある映画がなぜうまくいったのか、ある候補者がなぜ選挙に勝ったのか、なぜ嵐に襲われたのか、なぜ株価が下がったのか、なぜあるサッカーチームが負けたのか、なぜある新製品が失敗したのか、なぜ病が悪化したのか、を理解していると信じている。しかしそうした専門知識は、ある映画がいつうまくいくのか、ある候補者がいつ選挙に勝つのか、嵐がいつ襲うか、株価はいつ下がるか、あるサッカーチームがいつ負けるか、ある新製品いつ失敗するか、病がいつ悪化するか、を予測するうえでほとんど役に立たないという意味で、空疎である。
『「たまたま」ー日常に潜む「偶然を科学するー』

目にすることができるのは結果だけだが、我々はしばしば結果が人格を反映するものと考えて人々を間違えて評価する。能力は偉業を約束していないし、偉業は能力に比例するわけでもない。大事なことはその方程式の中に別の言葉ー偶然の役割ーを忘れないようにすることだ 『「たまたま」ー日常に潜む「偶然を科学するー』

ようするに僕らが納得し理解したつもりになっていることは後付けの物語であって、予測には役に立たないし、僕らはついつい物語の根拠っぽい情報ばかり集めてしまうということです。

ランダムネスの話しか説明していませんが、それにしても僕らが頼りにしている理解の枠組みは、実のところポンコツで、偏見に満ちているんですね。単純な因果しか理解できないし、単純な因果以外で理解しようとするのはなかなか難しい。

とはいえ、それは本来あまり問題のないことでした。

「思い込みを持たなければ」という思い込み

なぜか?

実は、もともと脳は物を正確に見るために進化していないからです。正確に見方よりも生き残る見方が残りました。

一回虎に襲われて危険な思いをしても、次も虎に襲われる確率は未知です。でも僕らは早いとこ「虎には近づかない方がいい」という知恵を獲得する。理解できないことは恐れたほうがいいし、甘いものは食べられるうちにたっぷり食べたほうがいいし、なるべく楽になるべく考えずにいたほうがいい・・・というのもそうでしょう。

あんまり考えず、早いとこ偏見をたくさん獲得した者が、生き残っていったわけです。

実際、僕らの脳は今も出来事に遭遇すると息つく間もなくなるべくたくさんの単純な“法則”という名の偏見を見つけ出そうとします。

すべての存在は、「知覚して生き残るためには、思い込みを持たなければならない」という、根本的な思い込みを持って生まれてくる。それに加えて、「もっと思い込みを増やさなければならない」という命令も、遺伝情報に組み込まれているのだ。『脳は「ものの見方」で進化する』

しかし、社会が複雑になるにつれて、このような脳の性質はむしろ誤解をたくさん生み出し、過剰な情報や資源に恵まれる現代においては快楽への誘惑や不安に踊らされ破滅させられる原因になってしまっています。

幸い、僕らは意識を統制する術を身につけることで自分の思い込みをある程度は客観視することができます。

チクセントミハイは「現代生活の不安と抑圧に打ち勝つためには、人は生活がもたらす賞罰だけに反応するというレベルを超えるところまで、社会環境から独立しなければ」ならず、「人はどんな環境にいても楽しさと目標とを見出す能力を発達させること」が必要であると述べています。

僕らは、アモンダワのような狩猟生活者に比べいっそう意識をコントロールすることを求められ、快楽よりも充足を得る方にシフトしなければ不安と抑圧とに押しつぶされてしまう時代を生きているんです。


サイコロをたくさん転がすしかない

この章はおまけみたいな話です。

ちなみに、僕らの世界がランダムネスに支配されているなら、うまくいく回数を増やすには試行回数を増やす、つまり、たくさんやってみるしかありません。傑作を残す確率は多作であるほど上がるということです。

もちろん、それでもやはり成功するかはわかりません。

たとえば、コインを投げて表が出る確率は50%ですが、4、5回投げてずーっと裏が出ることだって当然あり得ます。何千回も投げれば50%に収束していくぞというのが50%という意味なのです。二回やれば成功するという意味ではありません。

ランダムに数字を並べた時、ある位に1が出る確率は10分の1ですが、必ずどこかに1が1万回続くところもあるってのと同じです。

直感的にはこれは理解し難いので、人類が確率という概念を獲得できたのはたったの数百年前のことでしかありません。なんと、確率という概念が歴史に生まれた日付がわかっているほどです。1654年8月24日、パスカルからフェルマーへの手紙の中でです。

さて、この無情なランダムネスについて(甘噛みした程度の知識ですが)の理解から、行動につなげられる知恵を絞り出すなら、これです。

① うまくいく回数を増やすには試行回数を増やす必要がある

そのためには、やり続けられることをやることとやり続けられる環境(仲間や住む場所など)を用意することが必要になるでしょう。なんでもすぐ上手くやれる自分への自信(高すぎる自己肯定感)ではなく、やりとげるまでの失敗も含め楽しめる自分への自信(高い自己効力感)が有効です。

試行回数を増やすことでいうと、今日自分にとって長期的に望ましい考え方や感情に意識を向ける回数を上げることは次回からもそのように考える確率を上げることになるでしょう。グーグルの瞑想の研修でも、慈悲の瞑想というのを導入してこれをやっていますね。

続いて2つ目。

② でも結局うまくいくかは分からないので、そもそも社会的な成功や評価に関係なくやっていること自体から楽しみを得られることをやればいいんじゃなーいの

要するに、少し前までの章で述べてきた、フローの時間を増やす方向で生活したらどうかということです。

結局のところ、試行回数をあげる原動力も人生を楽しむ術も縮退とは逆の方向性にあると言えそうです。そう思ってもらうためにここまで誘導したんですからね笑。


最後に

ここまで、フロー、縮退、ランダムネスといった概念を使って人生や社会についていろいろなことを語ってきましたが、もちろん僕はすべてについて専門家には程遠い知識しかありません。

ですので、「こんな風に世界を眺めたら面白くなりませんか?」という僕の”ものの見方”へのお誘いとして捉えていただければいいかなと思います。

誠実にお誘いしたつもりですので優しいノリで受け止めてほしいなあと思っております。先輩に初告白する女子に向けるような優しい目で・・・

一番最後の方に、今回参考にした本や記事をまとめておいたのでぜひ興味があれば手を伸ばしてみてください。


あとがき的なもの 〜つながった!うひゃあああ!〜

結局何が言いたいのかよくわからなくなってしまいました。読者の方も(もしここまでお付き合いいただいているのであれば)、よくわからなくなってしまったかもしれません。

たぶん、というか絶対、いろいろ詰め込みすぎたせいです。10回に分けろよという冗長でバラバラな内容です。

でも、書いている間僕は最高に楽しかったです!

この記事を書く過程で僕の思考は秩序立ち、執筆スキルがまた少し上がったように感じられ、充足を得られたんだからそれでいいんです。フローしまくってました。

今回の記事は、僕の中で、小学生の時に聞いた福山雅治の歌から、中学高校、そして大学生の今に至るまでに読んだ無数の本がスルスルっとつながって得られた「あぁぁぁぁぁぁ!!!」という知的な感動が出発点となっています。

10代が終わるまでには自分の言葉で体系化しておきたいなと思っていたことがいろいろつながったので、チャンス!とばかりにどうにかこうにか書き上げました。

この自己満足(と言いつつ、けっこう役に立てるんじゃないのとうっすら思っている)記事が人の役に立てばさらにハッピーという感じです。

結局、あとがきすらあんまりまとまっていませんが、それでも書き上げるまでに途中で何度か挫折しかけたのを乗り越えてきたので自分を褒めたいと思います。

本当に、最後までお付き合いいただきありがとうございました。どんだけ優しいんですかみなさん。

それではまた!!


僕の頭の中でつながった本たちなどの案内

『現代経済学の直感的方法』長沼伸一郎
『しあわせ仮説: 古代の知恵と現代科学の知恵』ジョナサン・ハイト  (著), 藤澤隆史 (翻訳), 藤澤玲子 (翻訳)
『やばい集中力』鈴木祐

『フロー体験入門』M.チクセントミハイ  (著), 大森 弘 (翻訳)
『フロー体験 喜びの現象学』M. チクセントミハイ  (著), Mihaly Csikszentmihalyi (原著), 今村 浩明 (翻訳)
『ストーリージーニアス』リサ・クロン (著), Lisa Cron (著), 府川由美恵 (翻訳)
『データの見えざる手: ウエアラブルセンサが明かす人間・組織・社会の法則 』矢野 和男  (著)
『時間とテクノロジー』佐々木俊尚  (著)
『たまたま―日常に潜む「偶然」を科学する 』レナード・ムロディナウ  (著), 田中 三彦 (翻訳)
『バカの壁』養老孟司
『脳は「ものの見方」で進化する 』ボー・ロット (著), 桜田直美 (翻訳)

『サーチ・インサイド・ユアセルフ ― 仕事と人生を飛躍させるグーグルのマインドフルネス実践法』
著者: チャディー・メン・タン、 一般社団法人マインドフルリーダーシップインスティテュート、 柴田裕之

『遺伝子は、変えられる。: あなたの人生を根本から変えるエピジェネティクスの真実』シャロン・モアレム

『ファンタジーランド 狂気と幻想のアメリカ500年史上・下』カート・アンダーセン

はまのりさんのコーチングの話
福山雅治「生きてる生きてく」

NHK 遺伝子特集 タモリ✖️山中伸弥

営業成績か幸福度を上げたい方はこちらが参考になります↓

縮退した先の世界をコラプサー化した世界というのですが、それについての長沼さんの記事です。だいぶ前に書かれた文章ですがクソ面白いです↓


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