見出し画像

自然・人間・社会/『アフォーダンスの心理学』と考える/3. アフォーダンスとは?

写真出典:AlainAudet @pixabay
このシリーズ、3回目の連載です。第1回で ”エドワード・S・リード『アフォーダンスの心理学』を相棒に” 、自然と人間と社会について考えますと言っておきながら、《アフォーダンスとは何か?》をまだ説明していませんでした。今回は、アフォーダンスを私なりに定義しておきたいと思います。

前回はこちら:


1.アフォーダンスにつきまとう分かりにくさ


 アフォーダンスは、実は、とても分かりにくい考え方です。以下に、日本におけるアフォーダンス研究の権威である 佐々木 正人 とリードによるアフォーダンスの説明を引用します。

【説明1】

アフォーダンスは「環境が動物に与え、提供している意味や価値」である。

引用:佐々木正人『新版アフォーダンス』
(岩波書店、岩波科学ライブラリー、2020年)P60
/太字化は楠瀬

【説明2】

アフォーダンスは事物の物理的な性質ではない。それは「動物にとっての環境の性質」である。アフォーダンスは、知覚者の欲求や動機、あるいは主観が構成するようなものではない。それは、環境の中に実在する行為の資源である。

引用:佐々木正人『新版アフォーダンス』
(i岩波書店、岩波科学ライブラリー、2020年、P72
/太字化は楠瀬

【説明3】

アフォーダンスは、全動物の環境の特徴であり(カモメの例で言うと、適当な大きさの硬い表面は、どのカモメにとっても利用できる環境の特徴である)、実際には利用されていないときでも 個々の動物からは独立に存在している

引用:『アフォーダンスの心理学』P56

 私たちは、「意味」と「価値」という言葉を、「事象AにXという意味を見出す」、「事象BにYという価値を認める」という形で使うことが多いと思います。
 私たちにとって「意味」と「価値」は、事象そのものの性質ではなく、その事象に対する私たちの判断ではないでしょうか?

 ところが、上に挙げた3つの説明は、「意味」と「価値」を、

提供されるものである
(【説明1】)
知覚者の主観が構成するようなものではない(【説明2】)
個々の動物からは独立に存在している
(【説明3】)

としています。「意味」と「価値」をこのように捉えることは、この2つの言葉を判断(=主観の1種)として使っている私たちの日常感覚とはズレていて、そのズレが、アフォーダンスという概念を分かりにくいものにしていると思います。

2.分かりにくさを生む原因=《生き物の自発性》の欠落

 
 私は、上で述べたわかりにくさが生まれるのは、私がアフォーダンスの2つの側面と考えているものを、佐々木とリードが、一本化して説明することからきていると考えています。

《私が考えるアフォーダンスの側面1》
自然環境は個々の生き物が誕生する前から存在していて、それに固有の性質を持っている。

《私が考えるアフォーダンスの側面2》
個々の生き物は、周囲の自然環境が持っている性質の中から、みずからの生存に役立つ性質を選択し、これを利用する。

 《側面1》は、単に事実を述べているだけで、そこに主観は入っていません。一方、⦅側面2》は、主観を含んでいます。環境が持っている特定の性質のどれを選択するかは、生き物の主観によると考えるからです。
 
 
ただし、主観と言ってしまうと、動物が、人間が自らの選択を意識しているのと同じような形で意識して選択するように聞こえてしまいます。主体性という言葉もありますが、これも、人間的な意識と結びつけて使われる言葉です。

 そこで、私は、生き物が自然環境のどの性質を利用するか、自ら選択することを《生き物の自発性》と呼ぶことにします。

 佐々木とリードは、⦅側面1》と《側面2》に分けずに一本化して説明しているため、説明から《生き物の自発性》が抜け落ちてしまいます(「主観」を否定する【説明2】をご覧ください)。
 そのため、二人の説明の中では「意味」・「価値」と「性質」が切り分けられず互換的に扱われることになります。だから、二人の説明は私たちの日常感覚とズレて、分かりにくいのです。

3.《生き物の自発性》が理解のカギ

 私は、アフォーダンスという概念を理解するカギは《生き物の自発性⦆だと考えています。リードの次の記述を読むと、私の考え方は、決して的外れの誤解ではないと思います。

多くの動物は、さまざまな場所のなかから、休息、生活、巣づくりのための場所を確実に選択し、さまざまな種類の食べ物のなかから特定のものを確実に選択し、そして、もちろん、捕食者/同種の仲間など、さまざまな運動する対象のなかから特定のものを確実に選択している。このような動物たちが環境のその部分を意識していないなどと言うのはナンセンスである――ヒトだけが「意識している」という独断的な信仰に同意しないかぎりは。

引用:『アフォーダンスの心理学』P53~54
/太字化は楠瀬
/「いない」にリードが傍点をつけている

・・・生態学的にみれば、意識内容はおもに、環境と能動的に切り結ぶ動物が利用し、ピックアップしている特定の情報に由来している。

引用:『アフォーダンスの心理学』P54
/太字化は楠瀬
/「意識内容は」以下にリードが傍点をつけている

 リードは、私だったら人間を連想させてしまうことが心配で使わない「意識」という言葉を、敢えて動物に対して使っています。動物に主観があるとまでは言わないまでも、主体性は認めているように感じます。

 《生き物の自発性》がアフォーダンスを理解するカギになるという私の考え方は、アフォーダンスという概念が登場してきた歴史的背景を考えても、無理のない解釈だと思います。

四半世紀もの長い間、科学としての心理学の発想の源泉にはほとんどつねに「機械」の比喩があった。17世紀に、デカルトは、生きている動物についての機械的なモデルを構想した。
ところで、機械システムはシステムの外部の動因によって動かされないかぎり動かない。人間を「機械」になぞらえる「機械論」に毒された心理学は、行動が起こるためにはシステムの外部もしくは内部からの「刺激」が必要だと仮定した。だから、心理学理論では、外的刺激にはじまる「反応機構」と内的刺激もしくは「命令」にはじまる指令機構という二つの機構が要請される。「信号・命令」の機構である。「刺激がなければ動かない」ということは、ロボットや機械についてはたしかにそのとおりだろう。しかし、それは動物の実体からはかけ離れている。動物はつねに能動的である。

抜粋:『アフォーダンスの心理学』P18~19
/表現を一部改変/太字化は楠瀬

 アフォーダンスの概念は、‶動物は機械であり外部の刺激がなければ動かない” とする「機械論」に対して、動物の「能動性」を主張する異議申し立てなのです。動物の「能動性」は《生き物の自発性》と同義と考えてよいと思います。

4.私のアフォーダンスの定義

 冒頭で、アフォーダンスを私なりに定義しておきたいと述べましたが、実は、私は、アフォーダンスという概念を精密に定義することには、あまりこだわりがありません。
 私は、『アフォーダンスの心理学』を、私自身が自然と人間と環境の関わりを探る道中の相棒にしているだけで、この本の内容の正確精密な理解を目指しているわけではないからです。

 私が、私自身が考えることの大きな助けになってくれると考えているのは、重繰り返しになりますが、次の2つです。

《アフォーダンスの側面1》
自然環境は個々の生き物が誕生する前から存在していて、それに固有の性質を持っている。

《アフォーダンスの側面2》
個々の生き物は、周囲の自然環境が持っている性質の中から、みずからの生存に役立つ性質を選択し、これを利用する。

 敢えて言えば、これが私流のアフォーダンスの定義なのですが、ここにはアフォーダンスという言葉が出てきません。さすがに、それは  ‶いかがなものか?” と思います。

 そこで、私が今までアフォーダンスについて読んできた文章のなかで、いちばんシックリきたものを、アフォーダンスの定義として引用します。
 この文章も厳密な定義とは言いにくく、アフォーダンスがどのようなものかの具体的描写に近いものです。ですが、アフォーダンスが意味するところを理性でなく感性でつかんでいただくのに非常に適した描写だと思います。

J・J・ギブソンがかつて述べたように、環境の事物は常に身体行為との関連で知覚されます。われわれヒトの大多数にとって、空気は呼吸することを「可能に(アフォード)」するものだが、鳥にとってはむしろ飛ぶことを可能にするものです。われわれにとって水はもっぱら飲むことを可能にするものですが、魚にとって水は泳ぐことを可能にするものです。しかし水浴びを覚えたときから、水はわれわれに身体を冷やすこともアフォードし、泳ぎを覚えたときから、泳ぎもアフォードします。
こうして空間は動物にとって「アフォーダンス知覚」(ギブソン)、つまり行動的な可能性と意味の充満する場所であり、抽象的なからっぽの容れ物や、物理的で中立的な物質などではありません。そして脳の学習や記憶の機能が役に立つのも、このような環境が先立つからです。

引用:下條 信輔『〈意識〉とは何だろうか』
(講談社現代新書、2004年)P98
/太字化は楠瀬

 J・J・ギブソンというのは、アフォーダンスの概念を最初に提唱した心理学者です。リードはギブソンから直々に指導を受けていますが、『アフォーダンスの心理学』のどこまでがギブソンから学んだとおりで、どこからがリードの創意なのかは、私には判断できません。

 実は、私が初めてアフォーダンスという言葉に出会ったのは、上掲の一節を読んだ時です。20年近く昔のことです。それから、ギブソンを読み(原書に挑戦して挫折)、リード(翻訳のみ使用)を読み、佐々木を読んで、結局、原点回帰した格好です。

 「空間は動物にとって行動的な可能性と意味の充満する場所」ーーこれは、アフォーダンス概念の本質を的確に捉えていて、そして、何より私たちを勇気づけてくれる素晴らしい表現だと思います。

5.次回予告

 「機械論」は、人間の脳を、外部からの入力信号を行動の指示という身体への命令に変換する演算装置のように考えがちです。
 ところが、最近の脳科学の研究は、脳が外部からの入力信号がなくても自発的に活動していることを明らかにしています。乳児が「自発性」を発揮して環境を把握していることを明らかにした研究もあります。
 次回は、このような脳科学の研究成果を紹介します。

 今回はここまでとします。

 ここまでお付き合いいただき、ありがとうございました。

次回はこちら:


5.補論

 第1回で「二元論」の創始者として登場したデカルトが、今回は「機械論」の先駆けとして登場しました。
 実は、「二元論」と「機械論」は、とても相性が良いのです。第2回に見たように、「二元論」は、次の二本柱からなる考え方です。

*「神」は永久不変の「原則」を適用して「神以外」を動かす。

*「神以外」は「神」に動かされない限り、動かない。

 「神以外」は、「神」によって作動ボタンを押され「神」が決めた原則に従って運動する機械のようなものです。ニュートン力学を《宇宙という機械の運動を記述しその原理を解明したもの》と理解しても、大きな間違いではないでしょう。

 「二元論」の二本柱に、次の三本目の柱を追加したのが「心身二元論」です。

*人間の「心」は「神」の側に、人間の「身体」は「神以外」の側に属する。

 『3. 《生き物の自発性》が理解のカギ』で、「機械論」が人間にも適用されたことを見ました。
 ところが、人間に「機械論」を適用すると、理論の座りが非常に悪いのです。この点を、リードが的確に指摘しています。

人間を「機械」になぞらえる「機械論」に毒された心理学は、行動が起こるためにはシステムの外部もしくは内部からの「刺激」が必要だと仮定した。だから、心理学理論では、外的刺激にはじまる「反応機構」と内的刺激もしくは「命令」にはじまる指令機構という二つの機構が要請される。「信号・命令」の機構である。「刺激がなければ動かない」ということは、ロボットや機械についてはたしかにそのとおりだろう。しかし、それは動物の実体からはかけ離れている。動物はつねに能動的である。

 「心身二元論」では、「心」は「神」の側に属するのですから、「神以外」の側に属する「身体」に命令し、動かす存在でなければなりません。
 ところが、「機械論」では、「心」が外部からの刺激を受けて初めて動くことになってしまいます。つまり、本来は「神」の側にいて「動かす」主体であるべき「心」が「神以外」によって「動かされる」存在になってしまうのです。
 したがって人間を機械になぞらえる発想は、「心身二元論」および「二元論」と根本的に矛盾します。

 リードが言うように四半世紀にわたって心理学が科学になりきれずにいたとするなら、その原因は「第1回」で挙げた ‶「神」を科学すると「神」を冒涜する危険が生じる” からだけでなく、「二元論」を出発点とする「機械論」を人間に適用することに原理的な無理があったからでもあるのです。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?