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『伝 阿弖流為 母禮之塚』-由緒不詳の首塚に生まれた虚構の伝承

偽史、フェイクロア、創られた伝統といった背景を持つ場所や存在を、現実と妄想が交差する「特異点」と捉え撮影する記事。今回は、大阪府枚方市にある『伝 阿弖流為 母禮之塚』(通称アテルイの首塚)を取り上げる。


阿弖流為(アテルイ)と母禮(モレ)

アテルイとは、8世紀末から9世紀初頭に、陸奥国胆沢(現在の岩手県奥州市)で活動した蝦夷(えみし)の族長である。モレとは、アテルイと同時期に蝦夷の族長の一人であったとみられている。
蝦夷とは、本州東部や以北に居住し、政治的・文化的に、大和朝廷やその支配下に入った地域への帰属や同化を拒否していた集団を指す。

蝦夷は、時の朝廷の国土統治にあたり派遣された征討部隊に、激しい抵抗を繰り返していた。しかし、朝廷の戦力に圧され、いよいよ進退窮まった蝦夷は(諸説あるが)、802年、アテルイとモレが同族5百余人を引き連れ、征夷大将軍坂上田村麻呂の下に降伏した。その後坂上田村麻呂は朝廷に報告し、2人を伴って帰京する。
2人の処遇について坂上田村麻呂は、助命を朝廷に嘆願したが聞き入れられず、河内国(現在の大阪府東部)で処刑された。

『伝 阿弖流為 母禮之塚』(アテルイの首塚)とは

『伝 阿弖流為 母禮之塚』(以下アテルイの首塚)とは、大阪府枚方市にある片埜神社隣の元境内だった牧野公園に存在する。ここは、「アテルイとモレの処刑地」という伝承があり、その石碑が建立されている。

牧野公園概観-1
牧野公園概観-2
公園内には遊具やベンチがあり、憩いの場として機能している
石碑と記念植樹
石碑正面

石碑は、没後1200年を機に岩手県奥州市(当時水沢市)と枚方市との交流の一環としてできた「牧野歴史懇話会」のメンバーらが2006年、慰霊碑建立の実行委員会を結成。アテルイ、モレ終焉の地として地域の人たちに認識してほしいと、2007年建立にこぎ着けた。

「処刑地不詳」という史実

このような石碑がある以上、牧野公園が処刑地であるかに思える。しかし実は、アテルイの処刑地は河内国であること以外、具体的な場所は特定されていない。
『日本紀略』には、「河内國□山」と書かれてあるだけで、□山の部分は後世の写本によっては「杜山」「植山」「椙山」など謎が多い。
その中でも1900年に発行された、歴史学者吉田東伍氏の著書『大日本地名辞書』で記述された植山=宇山説は、その後『大阪府全志』や『枚方市史』といった地誌等にも引用されたが、一般には広がらなかったと、歴史学者の馬部隆弘氏は述べている。

また、宇山説について馬部氏は『河内国禁野交野供御所定文』の記述から、宇山は桓武天皇の狩猟地である「禁野」であり、朝廷が自ら禁野を穢すとは考えられないとの見解を示している。

牧野阪古墳の所在

牧野公園の周辺は、遺跡地図では牧野阪古墳と記されており、一帯が牧野阪遺跡と呼ばれていた。そして、石碑が整備される以前は、「首塚」と称される塚状の小丘があったとされている。しかし、1953年の台風13号による被害復旧のため破壊されている。

馬部氏は2019年に、牧野阪古墳の所在地の調査で、1954年に発掘調査報告書を書いた宮川徏氏を尋ねた。その結果、古墳は「首塚」のある牧野公園西側敷地ではなく、道路を挟んだ東側敷地の可能性が濃厚とみている(リンクのP3~4を参照)。
加えて、自身の著書『由緒・偽文書と地域社会―北河内を中心に(勉誠出版、2019年)』にて、枚方市史資料室が所蔵する枚方市広報課旧蔵アルバムの1952年造成直前と造成直後の、石碑周辺から片埜神社・清岸寺方向を見渡した写真を掲載し、「造成前の牧野公園はもともと片埜神社境内の荒れ地で、塚らしいものは見あたらない」と述べている。

では、なぜこの場所がアテルイの首塚と「されるようなもの」になり、石碑まで建てられるようにまでなったのか。

首塚の発祥について

ある女性が一人で祀り始めた

枚方市で勤務していた馬部氏は、元市史編纂室担当者であった田宮久史氏が1990年に記したメモを発見し紹介している。それによると、1979年頃に牧野地区のある女性が、「勝手に祀り始めた」のが首塚の発祥という。
女性曰く、夢に長い白髪で白いあご髭の人が何かを訴えかけてきた。気になった女性は、昔この辺りで何があったかを市史編纂室に電話した。窓口となった田宮氏は冗談として対応しつつも、蝦夷の族長が処刑された逸話があることを話す。その話を聞いた女性は、夢の人物がその族長に違いないと考え、市に祀ることを要望。しかし受け入れられなかったため独自に祀った。

市は最初、一市民の物好きな行為と放置した。しかし、木は徐々に繁茂し、柵が強化されるにつれて、一帯は妙に存在感をもち出し、どこか聖域の雰囲気をただよわせるようになった。
その後、取材に訪れた河北新報大阪支社の記者が、田宮氏から女性の存在を知り、アテルイの墓を発見したと報道したことで徐々に広まっていった。

首塚のある小丘
首塚には今もお供え物がされている
敵でありながら助命を陳情した坂上田村麻呂は、戦いの中でアテルイとの間に「友情が芽生えていた」という説があり、それに基づいたお守りが片埜神社で販売されている
お守りの裏側

生成され始める伝承

牧野公園内には、昔から「戦いに負けた大物武将の首塚がある」という伝承があったという(まだアテルイとは限定されていない)。
そして、1993年の枚方市議会議事録で、20年程前から(すなわち1970年代初め)牧野地区にて、一部の間でアテルイの首塚があると言われ始めていたという。なお、これは河北新報の報道前である。

一方で、その伝承について馬部氏は、学説が発端となっており、所謂先祖代々といったものではないと指摘している。

アテルイが当地近くで殺害されたという言説は、明治33年(1900)に刊行された吉田東伍氏の著書に始まり、昭和47年(1972)に刊行された『枚方市史』などにも引用されている。これらは、『日本紀略』の解釈から提示された仮説・学説で、当然ながら伝承ではない。 一方で、枚方市には蝦夷が殺害されたという「伝承」があると熱心に主張する方々もたしかに何人もいた。しかし、蝦夷が殺害されたという「伝承」は、どう聞いても先祖代々伝わってきた類のものではなく、明らかに上記の学説が発端となったものばかりであった。このようなものは到底伝承として扱えなかった。

馬部隆弘/『アテルイの「首塚」と牧野阪古墳』志学第考古

しかし、河北新報の報道以降、アテルイと何らかの繋がりを求める機運は高まっていった。
そんな中、少し離れた宇山地区にある古墳にも「蝦夷の統領が処刑された場所」という伝承があることから、「蝦夷の統領=アテルイ=首塚もアテルイ」と推定されていく。

官民一体で創った「虚構」

「枚方の歴史」となったアテルイ

1989年から関西岩手県人会・関西アテルイ顕彰会は、枚方市に慰霊碑建立を陳情している。
また、歴史教育者協議会は1990年発行の『歴史地理教育』で、歴史学者の瀧浪貞子氏は1991年以降に発行したいくつかの著書の中で、アテルイ処刑地が枚方市であることを記述し広く周知している。

当時これらについて、枚方市はアテルイである確証がないと陳情の却下や、市発行の地誌等でアテルイの伝承を否定している。

しかし、時を経て2005年。枚方市が発行した小学校副読本『わたしたちのまち枚方 小学校3・4年』に一転して、牧野公園内の首塚をアテルイの墓といわれるものとして、写真とともに掲載する。さらに2006年、市が発行した子供向け郷土史『楽しく学ぶ枚方の歴史』でも、牧野公園内の首塚をアテルイのものとして掲載する。その後も複数年に渡り、同様の記述が教科書に掲載される(馬部氏の指摘で現在は削除された模様)。

さらに当時の枚方市長、中司宏氏は、アテルイ・モレの慰霊碑建立実現に向けた支援を行うと方針転換。2007年3月に、牧野公園内に『伝 阿弖流為 母禮 之塚』と記された石碑が建立されることになった。 

こうして官民一体となり、アテルイの処刑地は「枚方の歴史」として成立。石碑はその伝承を象徴する存在となった。

石碑前の案内には「この地がアテルイとモレのゆかりの地」と書かれている
石碑の裏には建立に関わった者の名前が記されている

アテルイ・モレ祭

石碑建立後、例年9月に、『アテルイ・モレ祭』と称した慰霊祭が牧野公園内で開催され、神事祭礼や演武などが行われている。また、子供たちをはじめ多くの地域住民も参加する、町おこし的な祭りになっている。

こちらについては、開催に合わせて撮影を試みたい。

終わりに

史実と神話の狭間で揺れ続ける伝承

日本には、地域に定着している伝承が多数ある。その中には史実というよりは神話的なものも多くあるが、それらは地域住民の心の支え、誇りであったり、または町おこしとして地域経済を支える柱となっていることもある。そこに真偽を追求ことはナンセンスだろう。
一方で、それらに対して行政側が何かしらの「お墨付き」を与えてしまうと、住民は史実であると認識しかねない。そのバランスは難しい。

昔は首塚のたたりがあるため牧野公園には近づいてはいけないとの伝承があったそうだが、子どもたちに聞くと今は聞いたことがないという

枚方の歴史となった『アテルイの首塚』。
契機となった女性の弔いは、善意のつもりで誰かを騙そうなどという感情はきっとなかっただろう。そして、それが一部の間で民間信仰的に盛り上がる分にも、信じる者は信じればいいため問題ない。しかし、郷土教育として行政が取り上げることは、根拠がない以上不適切だろう。それは、国の歴史に歪みを生むこととなる。

2020年8月には、MBS毎日放送にて日本の歴史と教科書に焦点を当てたドキュメンタリーが放送されており、その中で『アテルイの首塚』が取り上げられている。


「一人の女性の夢」が石碑として具現化し”成った”歴史。興味深い事象として、今後も注視していきたい。






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