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#27『タイガーモービル』

好きになれなかったものが大好きになる瞬間がある。
醜悪こそ美徳だと感じる傾向がある。

ロックンロールと出会った瞬間に、納得できないものを納得できるまで努力するという忍耐力を手に入れた。

本当に風変わりな性格だけど、ロックンロールに誑かされた僕達は、好きになれないものを好きになるまでひたすら努力してきた。
ローリング・ストーンズを、ボブ・ディランを、ルーリードを、レッド・ツェッペリンを、その全てが素晴らしいと思えるまで修行のように聴き続けてきた。

日本人の僕には泥臭い黒人ブルースの嘆きも、アメリカのフォークロアも、ニューヨークの前衛的なアート志向も、欧米の宗教観も100パーセント理解することはできない。

ボブ・ディランがノーベル文学賞を受賞したと言われても、彼の書く詩がつまり何を意味しているのか、黄色人種の僕にいったいその何割が理解出来るというだろうか。
だけど分からないまま来る日も来る日もレコードに針を下ろした、時には精神的に疲弊して、こんなレコードのせいで自分の人生は必要以上に難しくなっているのだと嘆きながら。

サッカー部のハンサムがあの娘にちょっかいをかけている昼休みも、野球部のムードメーカーが団の士気を高めている体育祭の最中も、明朗な彼彼女が部活動に打ち込んでいる放課後のグラウンド、それを横目にひとりバイトへ向かう帰り道も、ずっとロックンロールのことばかりを考えていた。

暗闇の人生だったと思う、不健康な10代を過ごしてきた、そういう青春の青あざがじゅくじゅくに膿んで痒くて痒くて、何ひとつ本心で楽しめなかった。
それが背骨を引っこ抜くような不幸だったわけではないけれど、中途半端に楽しいという感覚が日常の大半を占めていて、細かい疲れを感じながら生活を送っていた。

大学生になってもそういう鬱々とした思考を追いやることは出来なかった。
たまにカウンターで酒を飲んでいると、同じような趣味嗜好の人と出会うこともあった。
しかし音楽の話が幅を利かせた途端、一緒に来ていた友達が退屈そうな顔をしていることが気掛かりで、咄嗟に当たり障りのない話題にすり替えて、アベラワーのおかわりを頼んでいた。

隣の席の君はいつだって世俗的な不幸を新鮮な話題のように話すけれど、僕は東南アジア系のギャルが国籍を探し回っているフロアに行きたいと思っていた。
夜の盗賊団が後悔知らずのどんちゃん騒ぎを繰り広げるフロアに行きたいと思っていた。
誰も傷つけない方法ばかりを考えて、結局すべての人を傷つける、歩き疲れた隣人を見捨てる勇気が僕には持てない。

これらは決して音楽だけにまつわる話ではない。
漠然とした何かを完成させたいと思う時、不確実な何かに辿り着きたいと思う時、最終的なものが何なのかを考えている時、強い意志を持っているようで、空っぽの化け物に飲み込まれている。

空っぽの化け物に1度食われると、物事の折り合いが付けられなくなる。
気が狂いはしない、気が狂うまでの順序を着々と踏んでいる状況が予想以上に長いということに気づいて途方に暮れる。
事実僕らは抜け出せない、何からも抜け出せない。

スーパーマーケットからの帰り道、ソーダストリームのボトルを交換しに行った帰り道、偶然鉢合わせた昔の同級生が嫌なグレ方をしていて、顔を見合わせないように意識して通り過ぎた後の気持ち、何も悪いことはしていないのに、少し傷ついた気分になる。
つまり僕らは抜け出せない、こんな日常の些細なことからも抜け出せない。

だけどある時、そのすべてを理解する瞬間がやって来る。
黒人ブルースの嘆きに何故悲観的ではなく高揚させられるのか、フォークギターに乗せられた英語の破片が何故鋭く胸に突き刺さるのか、前衛的なアート志向を助長させるルーリードの歌声の魅力とはいったい何なのか、言語化する前に体内が理解し始める。
覚えたり、教えられたり、勉強したりするんじゃなくて、ある日突然ピンときて、だんだん分かることがある。

つまり、物事にはいくつもの面があって、角があるだけ見る角度も多くなるということだ。

ローリング・ストーンズが黒人ブルースやソウルに対する新しい回答だとしたら、そもそもの命題、つまりシカゴやデルタのブルース、あるいはリズム・アンド・ブルースが持つ原始的なエネルギーに触れる必要があった。
それはローリング・ストーンズに対する別の角度からの接触だ。
そうすることで、白人のロックンロールバンドが黒人の音楽をルーツに持つことの意義が感覚的に分かるようになる。
逆にソウルシンガーがストーンズの楽曲をカバーした音源を聴いて、何故僕達がソウルミュージックだけではなく、あえてローリング・ストーンズを必要とするのか、白人の存在意義も同時に理解する。

あるいは、ボブ・ディランの言葉を理解するには土着的なフォークロアが自分の根底に存在しなければ不可能だと思い込んでいたが、日常的に彼の言葉のフレーズをノートに認めたり、訳詞を読みながらレコードを聴いているうちに、意味の解釈を広げることができるようになった。
彼の言葉を日本人の生活に当てはめた時に、不思議と相応しい表現だと感じることもあって、それはつまり本来の意味を捉えていなくても、本質的な部分が重なっている、つまり欧米文化に対する黄色人種独自の回答なのだと思う。
そもそも欧米人の目線ではなく、日本人という立場から彼の言葉に接触した時に馴染む感覚こそが、僕らにとってのボブ・ディランの意義だと思う。
もちろん解釈を広げるために、彼が影響を受けたビート文学を嗜み、よりストーリー性と大きな枠組みを理解するための努力はした。
大きな枠組みで捉える、それはやはり今まで見えなかった多面的な部分に触れるための努力に他ならない。

物事には絶対的なひとつの目線なんて存在しない、形のないものだからこそ、想像すればするほどいくらでも多面的に捉えることが出来る。
好きになれないものを好きになるために、理解できないものを理解するために、決して勉強はしないけれど努力はする。
僕らは絶対的なひとつのものという制約の中に存在しない。

無知や臆病を罪だとは思はないが、それが退屈であることは知っている。
1度口に含んで不味いと思った食べ物を、全く違う調理法で食べた時に急に美味しいと感じることがある。
ただそれだけのことだ。
もう一度繰り返すが、物事にはいくつもの面があって、角があるだけ見る角度も多くなる。

人間だって同じ、雑味や不純物があればあるほどその人は多面的になり、角度を変えるたびに興味深くそそられる、醜悪は美徳だと初めに言った通りである。
角が取れて真丸の球体になれば割り切れない、永遠に続く数字の羅列に美徳はない、人間の魅力はそんなところには存在しない。

しかし理解できないものには恐怖を感じる、自己防衛のために理解できないものを傷つけようとする。
それはつまり、この国の教育が正解答を持ちすぎているからだ。
正しい暴力だけが突っ走る教室で理解できないものを理解しようなんて不可能だ。
全体主義の末路がどんな歴史を辿ったのか僕らは知っているのに、事実そういう制約から抜け出せない。

僕は何が正しいかを知らないが、何が楽しいのかは知っている。
そんなに真面目な顔をして、そんなに深刻ぶった顔をして、どうでもいい嘘をつかなくたって僕は嫌いになんてならない。
ありもしない普通だとか、ありもしないまともだとか、幻のイメージの中に僕らは存在しない。
ロックンロールのレコードは直径30cm以上の広がりをもって僕らに色んな角度を教えてくれる。
まだあまり好きになれないだけ、そういうものを簡単に手離したくはない。

僕はハイロウズの「タイガーモービル」というアルバムがあまり好きではなかった。

理由は明確で、ヒロトとマーシーの35年間で最もハードロック志向が強いアルバムだからだ。
暑苦しいギターリフがふんだんに詰め込まれているし、ヒロトはいつもより長髪でヒョウ柄の衣装なんかを着込んで、妙に色気づいている。

恥ずかしい話、僕はハードロックがあまり好きではない。
技術志向でファッションがダサくてボーカリストのカリスマ性に欠けるハードロックに昔から思想的な共鳴が出来ない。

ブルースロックのルーツとして1960年代後半に誕生した初期のハードロックはベトナム戦争期の時代背景とマッチして、サイケデリックで解放的な音楽だったと思う。
しかし70年代以降は、ロックンロールの本質や文脈を完全に無視して、技術だけが独り歩きしたヘヴィメタルというこの世で最もくだらない音楽に派生していく。
80年代には商業ロックのベースとして、全く思想も独創性もない、空っぽの音楽にまで成り下がる。

ユースカルチャーの歴史が対抗と裏切りの連続だという神話を未だに信じている自分にとっては、ハードロックの末路にユーモアの欠片も感じられない。
(故に77年のパンクロックの台頭にいつまでもときめいてしまうのだが。)

だけど僕は驚いた、再発された「タイガーモービル」のレコードを聴いて宇宙の果までぶっ飛んだ。
ぽこちんを引っこ抜かれるような衝動だった。

今では好きで好きでたまらないアルバムのひとつになった。

理由は明確、納得できないものを納得するための努力を怠らなかったからだ。

世の中にはまだまだ好きになれないレコードが沢山存在する。

その好きになれない山のようなレコードの数が、僕の人生に与えられた余地なのだ。

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