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女の友情は本当に生ハムくらい薄いのか?

日曜日の午前中にクックパッドでお気に入りのトマトソースレシピを使って、30分間四方八方に飛び散るトマトソースを掻き混ぜながらこんな言葉を思い出した。


「女の友情は生ハムより薄い」という言葉だ。

20代前半から同級生だった女友達のグループがある。

赤裸々な男の話しだったり、仕事の話しだったり

色々な思い出を共にしてきた私たちもすでに31歳になろうとしている。

27歳をすぎた頃だっただろうか。同世代の中では結婚第二ラッシュが始まった。

29歳になると30歳を目の前に第3の結婚ラッシュが始まる。

そう、誰も口にはしないけれども女には目に見えない「旬」が存在する。

男性でも女性でも30歳までに結婚するというのはある意味一つのマイルストーンなのである。

「そろそろあんたもいい歳なんだから素敵な相手くらいいないの?」

「そろそろ孫の顔を見たいな〜」と親族から遠慮なく飛んでくる

あなたはそんな当たり前のこともできないの?という横槍。

幸い、わたしは20代前半に結婚を終えているので、その配慮があるのか?

いつもそう言われると45歳でいまだに結婚していない叔父を攻めるからなのか、祖母から直接言われることも少なくなった。(あくまで間接的には言われているらしい笑)


振り返れば昭和、平成を飛び越え、令和のこの時代になっても

いまだに子供を産むことは女の幸せだと、働いたこともない70代の祖母から口すっぱく言われる。非常に居心地が悪い。


なんとなく最近思うことは女性の場合、どんなに仕事を頑張っていたとしても、やっぱり結婚してるとか、子供がいることが偉いみたいな風潮がいまだにのさばっているなと思う。このモヤモヤな気持ちを今のうちに解消したくてつらつらと文章を書いている。

そう、冒頭で話した「生ハム」の話しにもこのモヤモヤは繋がっていくのではないかと思う。

27歳くらいを境にして、女性の幸せの価値観は大きく変化を遂げる。

20代前半から仕事を頑張っている女は「キャリア志向」へ、20代中盤までに結婚した女は「母親志向」へ、20代仕事を思いっきり頑張ってやっぱりサラリーマン向いてないなって思う女は「丁寧な暮らし志向」へ。

どれも正解なのである。

ただ、60代以降の世代から見ると、自由にやりたいことができる選択肢を与えられずに、とにかく国の発展の為に、どこの誰かもわからない親からの紹介で結婚をして子供をたくさん産んで、子育てして旦那を支えることが女の役目だと強い価値観を強要されてきた世代からすると「そもそも女が働くとかどういうこと?女の一番の仕事は子供産んで育てることよ!」っていう解釈になってもおかしくないと思う。

そう、これも正解なのである。

そう、全ては人それぞれの価値観であって全てその人からすると正しいのだ。

結論、「女性の友情は生ハムくらい薄い」訳ではなく、自分のライフスタイルが変化したことによって同じような話題で深く会話をすることができなくなり、結果それが居心地の悪い環境になり、離脱が生じるということなのかもしれない。

だからそれぞれのライフステージとか価値基準が変化することによって、優先順位が変わると今まで求めていた関係性が陳腐化したように思えてくる。

そして距離を置くことで、あの子は薄情な子であるという押印をされる。

なんでこんなことを思ったかというと仕事面でも最近、具体的な基準のないもに対しての「責任」を追求されることが増えた。

おそらく「責任」というふうに言っている人たちの基準と、わたしの基準が全く違うので、優先順位の低いものに対してそこまでに時間をかけたり、100%のアウトプットを求められてもわたしの中での優先順位は低いので、

要求される「責任」に対してのクオリティは担保する必要がないのである。

まあ、それが尊敬する上司からの依頼ならまだしも、普段、環境や人が思い通りに行かないと悪口を吐き捨てているようなレベルの低い人から追求される「責任」は不毛な作業でしかないのである。

色々自分のなかでの負の感情が整理されつつあるが

まとめると人それぞれ違う価値基準を持っているのだが、その価値基準の変化に気づかず、前提を擦り合わせを行わないと、以前のコミュニティから足が遠のく。気づいたらそれが大きな溝になり、結果、付き合う人が変わっているという現象がアラサー女性の中でのあるあるな現象なんだということに気付いた、いい気づきだった。

まあ、言語化できたのはいいのだけれども意外とこういうのって組織とかでもよく起こってることだからそれが発生した時にどう気持ちよく対処できるかを自分の中で見出していけたらいいなと思うそんなできごとでした。

わたしもよく陥ってしまうのは、自分とは違うものに対して、レベルが低いなどとその人の価値観を認めずに傲慢に振舞ってしまうけれども、それって結局、自分のマイノリティな部分を承認せずに自分に呪いをかけ続けていることと一緒だなあって。1ランクレベルアップした大人のわたしは(のはず笑)他を寛容できる一歩先ゆく人間になれるようになりたいと思う。

だって、その気持ちを否定し続けるといつまでも呪いが解けないんだもん。

そして、そんなことを悶々と考えているうちにわたしの感情のように、煮立ったトマトソースが飛び散って、キッチンが殺人現場のようになってしまったので、モヤモヤした感情と共に綺麗に拭き掃除をする日曜日の午前であった。

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