【怒ること】【褒めること】への責任
最近議論されている【怒ること】の必要性や、【褒めること】の必要性。
私は意識的にどちらもしないようにしている。
【怒ること】は相手に『恐怖』を与え、支配をすることができる。
サッカーの指導者をしている私はこの光景をよく目にする。
困ったことに強豪校と呼ばれている多くのチームは指導者の『絶対的恐怖』を駆使し、支配をしていることが多い。
【怒ること】で得られるものは怒る側の精神的安定である。
【怒ること】は選手から思考を奪い、成長を止める。
怒られなければ良いという感情が生まれ、『怒る人間』がいる環境でなければ力を発揮しない事態に陥る。
本来与えなければならないのは、【気付き】である。
【褒めること】に対しても同様にリスクが伴う。
【怒ること】がいけないのであれば【褒めること】に徹すれば良いと思うかもしれないがこれもまた間違いである。
【褒めること】は【怒ること】以上にリスクが伴う。
よくニュースで犯罪が起こった際に
『あんな子が...想像できない。』『クラスでも優等生だった。』
といったことを聞いたことがあるのではないか。
これは【褒めること】をされていた人間のエラーである。
私は言われたことをこなして偉い。
一番の業績を残した。
でも、私を誰も褒めない。私を褒めない世の中はおかしくなってしまっている。
この思考は犯罪を招く。
本来、道にゴミが落ちていて拾うことは【褒められる】から行うことではない。
しかし、【褒められること】を目的にそのようなことを行ってしまう。
【褒めること】によって生まれた取り返しのつかないエラーである。
では、どのようにすれば良いのか。
どうあるべきかの【気付き】を与え、見護る。
理想論だと言われる。私も現場に立っているので痛いほどわかる。
しかし私は実践している。【怒ること】も【褒めること】も意識的にしていない。
ただ、ひたすらに【気付き】を与え続けている。
そして彼らと一緒に喜び、悔しがり、感動し【共鳴】している。
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