完成していないからこそ、人は無限の可能性に満ちている(『老子』四十一章)
今回取り上げるのは『老子』四十一章からの言葉。
偉大な器が完成するには途方も無い時間がかかる、という意味。
日本では「大器晩成」という四字熟語で知られています。
しかし、もともとの『老子』を読むと現代とは意味が異なっていることが分かります。
原文の文脈に合わせるのであれば、これは無限の可能性について述べた言葉。
つまり、偉大な器はいつまでも完成しないものだが、永遠に未完成だからこそ偉大であり、無限の可能性に満ちているのだ、という意味です。
この四十一章は「道」のあり方について説明した章となります。
老子がいう「道」とは森羅万象の理、宇宙の真理のようなもの。
人には到底計り知れない概念であり、本来はとても言葉で言い表せるようなものではありません。
そのため、老子は仮の名として「道」と呼んでいます。
あくまで仮の名前として「道」と呼んでいるだけなので、我々人間にはどこからどこまでが「道」なのかは分かりません。
終わりや限界なんてものは存在しませんし、これといった形もありません。
イメージとして水に近いものです。
水は形がないからこそ、どのような形にもなれます。
周囲の環境に合わせて自在に姿形を変え、その場に無理なく適応する。
そんな姿を見て、老子は水を理想としていました。
この点を踏まえて考えると、完成した器は「道」の理想とは言えません。
完成してしまうと形が定まってしまいます。
形が定まるということは、限界が決まってしまうということ。
お皿の形であればスープをたくさんいれるのは難しいですし、コップであればご飯を十分に盛ることはできません。
用途が決まってしまうということは、できることの幅が狭まってしまうということなのです。
しかし、器も粘土の状態のときは無限の可能性を秘めています。
焼かれて形が決まるまでは、お皿でもコップでも壺でも、何にだってなれるのです。
完成する前だからこそ、未完だからこそ、どこまでも成長することができます。
可能性は無限大です。
偉大な器は、いつまでも完成しないからこそ無限の可能性に満ちています。
人も同じです。
うまくできなかったり、未熟なところがあったとしても悲観することはありません。
完成していないということは、まだまだ成長の余地があるということです。
自分の可能性を信じて、少しずつ前に進んでいきましょう。
サポートをいただけますと励みになります!いただいたサポートは資料の購入や執筆環境の整備などに使わせていただきます!より良い記事をお届けできるように頑張ります!