他人とではなく、過去の自分と比較する(『老子』八章)
今回取り上げるのは『老子』八章からの名言。
最上の善とは水のようなものである、という意味。
無為自然の理想の姿を水に例えた言葉です。
水は万物に恵みを与えます。
人や動物、植物は水がないと生きていけません。
水は特定の形を持たないため、邪魔しあうことがありません。
流れの途中に物があっても、それらを避けて流れ続けます。
水は高いところから低いところへ流れていきます。
他の人よりも常に低い(へり下った)位置に居続けます。
このような特性から、老子は水が「道」に近いものだとします。
「道」というと仁義などを連想されるかもしれませんが、それは孔子などの儒家側のイメージです。
老子のいう「道」とは、道徳的な「道」ではありません。
すべての自然の根本にある起源ともいうべき母なる存在、それが「道」です。
ちょっと理解が難しいのですが、「万物の根源」や「世界の真理」とか、そういった感覚が近いような気がします。
欧米の自己啓発書で見る「宇宙」という訳語も似ている概念かもしれません。
その「道」に最も近いものとして、ここでは水が挙げられているのです。
水は万物に恵みを与え、争いをせず、他者が嫌がる低い位置に流れていきます。
その様に、老子は理想の姿を見たのでしょう。
水のように生きること。
それが「道」を体現する最良の方法なのです。
私も『老子』を読み、水を意識するようになってから学んだことがあります。
他者と比較しない、ということです。
人間、生きていると色々なことがあります。
他人と比較して落ち込むこともあるでしょう。
私はよく他人と比較して一人で落ち込んでいました。
しかし、他人と自分を比べてもフェアじゃありません。
人生の主役は私自身ですし、人それぞれ持っている物も価値観も異なっているのですから。
比べるなら過去の自分と比べるべきです。
水はいつだって水ですが、その過程では様々な支流が流れ込んでいます。
私が色々な出来事から影響を受けて成長してきたように、水も色々な水と混ざり合ってできているのです。
河川全体での水質の変わり具合を確認するためには、上流の水と下流の水で比べなければなりません。
全く関わりのない別の地域の河川の水と比べても意味がないのです。
周囲の土壌の質も違う。
流れ込む支流も異なる。
そんな条件のもとで比べても、味とか見た目とかの、特定の部分にしか目がいかないでしょう。
上流と下流での違いは分からないままです。
比べるなら同じ流れの中で行いましょう。
歴史の時の流れを川に見立てて大河と呼びますが、これは個人の場合も同じです。
あなたの大河の中で、過去の自分と今の自分を比べるのです。
先週よりも1つ成長できた。
昨日とは違うことをやってみた。
それってとても素晴らしいことだと思いませんか?
昨日の自分を少しでも超えていくことができれば、私たちは何にだってなれます。
時間はかかるかもしれません。
それでも確実に前に進んでいます。
他人は関係ありません。
私は私らしく、私なりのペースで前に進めば良いのです。
川を見るたびに、そんなことを思いながら、勇気をもらっています。
どうか、あなたが川を見た時に、少しでも前向きな気持ちになれますように。
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