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姉妹の妃とかぐや姫 垂仁天皇③神話は今も生きている ことの葉綴り。二八一


どうにもならないこと

こんにちは。お天気の良い日曜の午後、「ことの葉綴り。」のひと時です。


神話の物語は、第十一代伊玖米入日子伊沙知命(いくめいりびこいさちのみこと)こと、垂仁天皇(すいにんてんのう)の御代です。

垂仁天皇(すいにんてんのう)は、叔父で「四道将軍(しどうしょうぐん)」の一人、日子坐王(ひこいますおう)の子、
従妹の佐波遅比賣命(さはぢひめのみこと・沙本比賣)を皇后に娶りました。
皇后には、沙本毘古命(さほびこのみこと)というがいました。
この皇后との間には、品牟都和気命(ほむつわけのみこと)が誕生するのですが……やがて、悲しい物語が待っているのです。

いくら、父方も母方も天皇家というサラブレットで恵まれた環境であっても、才気にみちていて“苦労などなにもない”と思えても
天皇であっても、”恋心”だけは、どうにもならないのかもしれません
ね。

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姉妹の妃とかぐや姫

その物語の続きは、またのちの回でご紹介します。
まずは、七人のお妃と、十六柱の皇子の系譜をみていきます。

最初の妻は、従妹で、皇后の沙本比賣(さほひめ)
ほかに六人の妻を娶りますが、その中の三人の妃は三姉妹
一人は、あの「かぐや姫」のモデルとなった比賣(ひめ)と、
また別の二人の姉妹の妃なのです。

しかも、三姉妹の妃は、皇后の沙本比賣(さほひめ)自身から、垂仁天皇の「妃に」という“推薦”でもあったのです。
なんだか“複雑”な、なにか物語がある気配がしませんか?
それは、おいおいのお楽しみにしていただくとして、
この三姉妹の妃をご紹介しましょう。

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旦波比古多多須美知宇斯王(たにはのひこたたいにしきのいりひこ)
丹波を治めるこの王は、第九代、開花天皇の子の、「四道将軍(しどうしょうぐん)」である、日子坐王(ひこいますおう)の三人目の妃の子です。
垂仁天皇の叔父であり、皇后の沙本比賣(さほひめ)にとっては従妹にあたります。
その娘となる姉妹ですので、垂仁天皇にとって従妹の子にあたる三姉妹になります。
日子坐王(ひこいますおう)も子だくさんだったのです!!

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日子坐王の孫の比売(ひめ)長女編

日子坐王(ひこいますおう)の孫にあたる比賣(ひめ)三姉妹が
垂仁天皇の后となります。

日子坐王(ひこいますおう)の子、
旦波比古多多須美知宇斯王(たにはのひこたたいにしきのいりひこ)の娘の比売(ひめ)たちの系譜です。


一、氷羽須比賣(ひばすひめ・比婆須比売)は、姉妹の姉ですので兄比売(えひめ)と呼ばれました。
この比売(ひめ)との間には、
〇印色入日子命(いにしきのいりひこのみこと、五十瓊敷入彦命
この王は、河内に遣わされ、人々のために、灌漑用水のための人工池の血沼池、高石池、狭山池、高津池(大阪府の泉南郡、河内郡)の水路をつくります。
そして、大阪府泉南郡の河上宮 にて、横刀(たち)、剣一千口をつくり、石上神宮に奉りおさめられました


〇大帶日子淤斯呂和氣命(おほたらしひこおしろわけのみこと)
皇位を継承されます。ここでは短めにしておきます!

〇大中津日子命(おほなかつひこのみこと)
『日本書記』では、大中姫命(おおなかつひめのみこと)。
この皇子は、下記の多くの祖先とされています。
山邊の別(山辺之別やまのべのわけ)、三枝之別(さきぐさのわけ)、稻(稲)木の別(いなきのわけ)、阿太の別(あだのわけ)
、尾張国の三野の別(みののわけ)、吉備の石无の別(いわなしのわけ)、許呂母の別(ころものわけ)、高巣鹿の別(たかすかのわけ)、飛鳥の君(あすかのきみ)、牟禮の別(むれのわけ)

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伊勢の神宮の斎王 倭姫命さま

〇そして、倭比賣命(やまとひめのみこと)
皇女倭比賣命(やまとひめのみこと)さまは、伊勢の神宮に、皇祖神の天照大御神さまをお祀りされた斎王として知られていますね。


若木入日子命(わかきいりひこのみこと)のご柱が誕生します。


この姫の妹たちも、垂仁天皇の妃になられます。
でも、『古事記』には、姉妹は四姉妹だったそうです。
なぜそれが、最初の系譜には三姉妹しか紹介されていないのか?
それもまたのちほどわかってきます。
垂仁天皇の御代の、神話の物語も、内容盛りだくさん!
一つずつ綴ってまいります。
宜しくおねがいします。

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―次回へ

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