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歌・踊りが大好きな媞子内親王 二十歳で早逝 ことの葉綴り 九三三回

目標の柱を立てる

おはようございます。台風による強い雨が降ったりやんだりが続いています。湿気も高いですが、皆さんは、お元気ですか? 
九月二十日(火)の暦は、六曜は「友引」で、朝と夕が吉。何ごとも勝ち負けのない日。十二直は、物事が平らかになる「たいら」で、平等円満に成るという日。地固め、柱を立てる、壁を塗るなど建築……物事やこれからの予定や目標の組み立てにもいいですね。引っ越し、お祝いごと、すべてさわりなしの日。二十八宿は、「よく」で、植木の植え替え、種まきにいい日です。
皆さん、気圧による体調の変化もお気をつけてお過ごしくださいね。


斎王いつきのみこから天皇の准母じゅんぼ后に媞子ていし(やすこ)内親王

さて、神代の豊鋤入姫命とよすきいりひめのみことさま、倭姫命やまとひめのみことさまを始めとして、歴代の未婚の皇女から「卜定ぼくじょう」で選れて、伊勢に赴き「斎宮」で暮らし、皇祖神の天照大御神さまにお仕えされ、神宮で祭祀をおこなわれた斎王いつきのみこ

平安時代の斎王いつきのみこの一人、媞子ていし(やすこ)内親王は、白河天皇の最愛の妃であった中宮ちゅうぐう(藤原)賢子けんしとの間の皇女で、たいそう愛されました。
幼い三~四歳の内親王が、宮殿を離れ、野宮に向かうときには、ご一緒に行幸されるという初めてのことをされたのです。
この頃、白川天皇は、まだ二十代、今なら、イクメンといわれるかもしれませんね。
 
その後、伊勢で斎王いつきのみことして祭祀を執り行われますが、十歳になるかならないころ、天皇が愛した母、中宮ちゅうぐう(藤原)賢子けんしが亡くなられ、媞子ていし(やすこ)内親王は、都へ戻られます。
 
 
白河天皇は、天皇の皇位を、幼い内親王の弟に譲り、堀川天皇が八歳でご即位されて、ご自身は、三十五歳の若さで上皇となられました。
さらに、媞子ていし(やすこ)内親王を、弟である天皇の母親格の「准母じゅんぼ」とされたのです。天皇の「后」の位につくという、これも、初めてのことで、その父がどれほど寵愛していたかを物語ります。


歌と踊り「田楽」に夢中に!



 
この頃、京の都では、「田楽でんがく」が大流行! これお料理の田楽味噌の田楽ではなく、芸能です。もともとは、田植えのときに、豊作を祈り田の神さまをお祀りするために、笛や太鼓などを演奏し、舞う田舞たまいで、媞子ていし(やすこ)内親王の平安時代には、この歌って踊る田楽でんがくが大流行し、天皇の准母じゅんぼとなられていた媞子ていし(やすこ)内親王も、すっかりハマっていたそうです。
 
そりゃあそうですよね。まだ10代の女の子。
大好きな音楽、踊り、いつの時代もかわりませんよね。今だって、JPOPもあればKPOPが大人気ですもんね。
 
媞子ていし(やすこ)内親王は、この田楽に、ものすごくのめり込まれ、父である白河上皇は、内親王のために、田楽の会を催されたそうです。
ほんとうに、可愛がられていたのですね。
また、上皇は、どこかに行幸されるときは、いつもこの内親王をご一緒にお出かけされたそうです。少しお身体の弱い内親王のために、神社やお寺に息災の祈祷をさせたそうです。
 


二十歳で急逝 父は出家し白河法皇へ


 
そんな大好きな田楽の歌や踊りに夢中になっていた内親王。
 
青春って感じですね~。
 
 
けれど……ある日、病を発し、なんと……二日ほどで、亡くなられてしまったのです!!

媞子ていし(やすこ)内親王……二十歳でした。
 
幼い頃に、斎王いつきのみことなられ、子ども時代は、天照大御神さまにお仕えされていました。
都に戻ってからは、父の愛を一身に受けて成長されて、天皇の母親代わりの「后」となっていた内親王。
母親似で、美しく心も優しかったそうです。このまま大人になられていたら……そう思ってしまいます。

最愛の娘を突然亡くされた白河上皇は、あまりの哀しみにより、二日後には出家され法皇となられたほどでした。
最愛の媞子ていし(やすこ)内親王の御所に御堂を建てられて、在る日と同じように、女官たちを仕えさせていたそうです。
 
父である白河天皇の哀しみも伝わってくるようです。
 
史実の斎王いつきのみこの方々にも、斎王いつきのみこの任をとかれたあとの、それぞれの人生に心動かされます。

―次回へ

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