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古代の葬送儀礼は今も…… 伊邪那岐・伊邪那美さま⑰神様も失敗して成長した ことの葉綴り。其の六九

最愛の妻を亡くした伊邪那岐命

こんにちは。今日は、新しいオンラインのお仕事に朝からずっと取り掛かり、ふう~とためいきの超サボり屋です。
でも、なんとかnoteに向かえました。
神さまも失敗して成長した。
神話の神さまたちも、人間と同じように悩み苦しみ傷つき涙して。
その“生きざま”は、今を生きる私たちに勇気を与えて下さいます。

初のご夫婦神となられた伊邪那(いざな)岐(ぎ)・伊邪那(いざな)美(み)さま。
「国生み」と「神生み」をされた、
母神・伊邪那美命さま。
「火」の神さまを、お産みになったことが原因で……。

神避さりまし

亡くなられてしまいました。


伊邪那岐命さまは
「ああ~愛しき美しい我が妻が
火の神という、子どもの一人の命と
引き換えに……
亡くなってしまうとは……」

あまりのショックから
枕元に腹ばいになられて
慟哭されたのです。

愛する妻を失ひ、
一人残された夫の伊邪那岐命さま。
伊邪那美命さまの亡骸にすがられ、
その深い悲しみの涙からは、
大和の天の香具山の
畝尾の木の本にます、
悲しみの涙の女神
泣澤女神(はきさかめのかみ)が
お生まれになりました。

と、これは前回にも紹介しましたね。

今日は、妻を失った伊邪那岐さまが
そのとき、何をされたのか?

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古来の葬送儀礼


そこには、今にも続く
葬送儀礼があったのです。

すなはち御枕方(みまくらへ)に
葡匐(はらば)ひ、
御足方(みあとへ)に
葡匐(はらば)ひて
哭(な)きし時

愛する妻の死に
悲しみのあまりパニックに陥り
亡骸のまわりを
はいまわって
泣きわめいた

そうです。

日本人は感情を表に出さない
なんていわれますが、
神話の神さまがたは
けっこう、感情を
まっすぐに出されている気がしますよね。

そして、このくだりなのですが
ご遺体のまわりの
枕もとから
はらばいになって
そして足元にまで
はらばいになられて
大泣きをした……

これは、死を悼む、
お葬式の一つの儀式
なんだそうです。
「殯」(もがり)という
また「あらき」とも呼ぶ
日本で最も古い葬送儀礼。

周りを這いまわるのは
いのちの
蘇りを信じて
魂を呼び戻すための儀礼。
魂よびの呪術ともいわれます。
ご遺体を、葬送するまでの
期間におこなう儀礼で、
今でいうつお通夜にあたります。

古では、呼吸停止をもって
直ちに死とはみなされず
蘇生しないことを確認をしたあと、
喪に入ったのです。
その間は、生前のように棺に
朝夕の御饌をお供えして
歌や舞い、音曲でお慰めをして
飲食などの遊びをして
共に生活をおこない
魂呼びをおこなったそうです。

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地域によっては
この魂呼びが慣習として
残っているところもあるそうですが、
私たちにはなじみがありません。
唯一、天皇家だけは、現代にも
受け継がれているのです。

上皇陛下が
平成二十八年八月八日
国民に向けたビデオメッセージの中で
こう仰せになられたのは記憶にあるのではないでしょうか。

『天皇の終焉に当たっては、重い殯(もがり)の行事が連日ほぼ2ヶ月にわたって続き、その後喪儀に関連する行事が、1年間続きます。その様々な行事と、新時代に関わる諸行事が同時に進行することから、行事に関わる人々、とりわけ残される家族は、非常に厳しい状況下に置かれざるを得ません』

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死は生の一環である

そこに、日本人の「死生観」「生死観」を
見ることができます。

神道には、「中今(なかいま)」
という言の葉があります。

私も大好きな言葉なのですが。
これは、過去・未来を意識した
中間にある「今」現実を最高とし、
それぞれに与えられた時空を、
価値あるものにしようとするもの。


「今、自分の中心に存在し、ここに在ること」
の大切さを伝えてくれています。

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それでは「死」についてどう考えているのでしょうか? 


「死は生の一環である」

・・・…と、しているのです。

この世を、
永遠の世界・価値の主体、
魂の休まる世界としてとらえて。
死は生の否定ではなく、
生の一環として受け取られてきたのです。

前回も書きましたが


人が生まれてくること
それだけで、価値がある

いのちを輝かせて生きる

それでいい。

人生を謳歌する。

それがいい。

人間に「原罪」がある
一神教とは
いのちに対しても
とらえかたが
まったく違っているのです。

『神道にはこの世からの救いはなく、
救われるべき必要もないのである。
あえて言えばこの世にあること、
そのことによって既に救われている』
(上田賢治著『神道の力』より)

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―次回へ

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