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『優しさのすべて』観てきたよ 〰「身体」という呪文でチチンプイ!にはもう頼らない の巻 その1〰

本当はリヒターか予告先発である島口大樹について書こうと思ってたんだけど、映画ネタになってしまった。ってか島口について書くために横光利一読んだり、ジュネット読んだり、栗蒸し羊羹食べたりしてたら一週間があっという間に過ぎちゃった。次こそ島口。リヒターは本気だすと疲れるから、そのうちね。
『優しさのすべて』の前に、二日続けて渋谷にいて疲れちゃったけど楽しかったのでそのお話。

渋谷ユーロスペースで上映中の『NOBODY KNOWS チャーリー・バワーズ発明中毒篇』をやっと観てきたの。Twitterに少し書いたけど本当に面白い。良く忘れられた映画作家のフィルムがひょっこり出てきて、なんじゃこりゃ!ってなることがあるけど、まさになんじゃこりゃ!ですよ。その前の日にアリス・ギィ短篇集を観ていただけに新鮮だった。
『怪人現る』There It Is(1928)は以前観たことあったけど、纏めて観るとその異様さが良く分かる。コメディとしてはキートンともチャップリンとも違うし、アニメーションとしてはフライシャー兄弟とも違うし、トリック映画としてはメリエスとも違う。20年代から30年代の前衛映画に近い。とにかく実際に観てくれ。あたしからのお願い。
あとパンフレットは永久保存版。芸術関係の研究科がある大学の図書館は必ず買っておきましょう。貴重です。

で次の日は『秘密の森の、その向こう』Petite Maman,監督:セリーヌ・シアマをル・シネマで。事前にボロクソに書かれた批評をうっかり読んでしまったのでハラハラして観てたけど、とても良いよ。前作がものすごかっただけにみんな期待値が高すぎたのかな?あたしは好き。湖へボートでくり出すシークエンスとラストショットは泣くでしょ、そりゃ。
ランチは魚力で鯖味噌定食(シモ)。お楽しみの札の番号は残念ながらハズレ。でも良いんだ。柔らかいのにしっかりした食感の鯖味噌と煮込まれた豆腐。サービスのひじき(前はテーブルに置いてあったのに小鉢スタイルになってた。この状況じゃね、そうなるよね)だけでご飯足りないくらいだもん。ごちそうさまでした。

で松濤美術館で『装いの力 異性装の日本史』を鑑賞。メディアでもかなり取り上げられてるから混んでた。感想としては第一会場は素晴らしい!の一言。展示物としてはそれほど貴重というわけでもないんだけど、切り口が面白い。その反面第二会場はややトーンダウンした感が否めない。
戦後の異性装に踏み込むと、やはり大人の事情で展示できないものが多くあるのが原因なのは分かるし、宝塚を中途半端に扱ってヅカオタから猛ツッコミ喰らうのが嫌なのも分かるんだけどね。
女装ミニコミ誌の展示は面白かった。『薔薇の葬列』とダムタイプはとってつけたような感じがしてなんとなく違和感。
キュレーションの焦点が「装いとジェンダー」から「クィア・アートとジェンダー」にぶれてしまってる気がする。やるならとことんやって欲しかったというのがあたしの感想。行った人がいれば、ぜひ意見を聞かせて欲しい。北斎の『若衆文案図』(1840)も見られたし、まぁ及第点。

NADiffでお買い物して、ニイハオで餃子を食べてたらあっという間に21時になってた。いざイメージ・フォーラムへ。ここから本題。

ニイハオの餃子。前は6個だった気がするけど5個になってた。せちがらい。

『優しさのすべて』についての二、三の事柄

初日ということで大盛況。オフィシャルかな?ムービーとスチールが入ってた。客層は若い子たちが多め、後述する蓮實重彥のコメントを読んで来たであろうハスミニアンがちらほらって感じ。いまだにその集客力は健在です、蓮實先生(次の文學界のゴダール追悼文楽しみにしてる)。
監督、キャスト、スタッフの登壇、フォトセッションの後本編へ。
ある程度はね、予想してたの。だって、

ユスターシュの『サンタクロースの眼は青い』に匹敵する
中編映画の傑作が日本に生まれた!
安達勇貴の『優しさのすべて』がそれである。各自、劇場で確かめられよ!!! -蓮實重彥(映画評論家)

「優しさのすべて」チラシより

だもん。まぁ「はいはい出た出た」感はもちろんあるんだけど、ここまで熱い重彥は久しぶり。「!」四つも使ってるし。だいじょうぶか、重彥?

で、あたしが事前に何を予想してたかって言うと、おそらく映画史に意識的な作風であろうこと、そして2010年頃から活躍する映画美学校、東京藝術大学大学院映像研究科出身の映画監督達、すなわち濱口竜介、空族(相澤虎之助、富田克也)、真利子哲也、三宅唱、瀬田なつきらの影響を少なからず受けているだろうなってこと。
ちなみに渡邉大輔は上記の監督達に入江悠と石井裕也も入れて「2007年の世代」と呼んでいる。もちろん重彥の「73年の世代」の本歌取りだ。あたしここちょっとオブジェクションなんだけど、入江と石井はそれぞれ日芸と大阪芸大でしょ、なんとなく違う気がするんだよね。あくまで、あたしのぼんやりした腑分けね。どうでもいいが。

で、どうだったか?半分当たり、半分はずれ。はずれというか、予想をはるかに上回る作品だった。カイ君じゃないけど「だめだよ、逃げなきゃ」である。参った参った。
冒頭のショット(ちなみにヨーロピアンビスタ(1.66:1))から、小津、成瀬、ついでゴダール、溝口、アンゲロプロス、ブレッソンなどの映画作家の名前が頭をよぎる。これは予想通り。ユスターシュはそんなに浮かばなかった。もちろん映画内の時間が年末であること、街や室内での長回しとかは『サンタクロースの眼は青い』を彷彿とはさせるけどね。まぁとにかく映画史に意識的であることは確かだ。
じゃあ、あたしの予想の何がはずれたのか?

まず、観れば分かるけど、とにかく居心地が悪い。「はい、みなさんが好きな引用ですよー、ここのショット」ってな感じで綺麗に纏めてチャンチャンな作品とは全く違う(誰のどの作品とは言いませんが)。本気でこの『優しさのすべて』という作品で何かを訴えて、何かを更新しようとしている。その本気さがとてつも無い居心地の悪さとして現前する。
では一体何が?

一言で言ってしまえば「身体」である。
とてもありふれた言葉だと思うし、またそれですか?と思うかもしれないけど、実はこれまで考えられ、語られてきた映画、あるいは写真なども含めた視覚文化における身体の表象を、意図的か否かに関わらずここまで追求した映画作品は珍しい。
具体的に3つの層に分けて考えてみたい。
それは
1映画における身体
2作り手(演出)⇔作品⇔観客(受容)という具体的プロセスの中での身体
3一九七三年の世代から現代までの観客の身体

じゃあはじめますよ。

表象における身体、あるいは「身体」という呪文

まず身体という言葉について注意しなきゃいけない点。

身体なる語は、ときとして、冷静な分析の臨界点において、まるでその臨界の先の闇を包み込んでくれるような魔法の言葉として舞い降りてくることがある。人間存在に関わる問題機制について何ほどかのことを探求しようとする思考に疲れたとき、ひとはふと「身体」と口にしてしまいかねない

乗松亨平・北野圭介・番場俊、共同討議「ヤンポリスキー来日のあとで」
『隠喩・神話・事実性ーミハイル・ヤンポリスキー日本講演集』平松潤奈・乗松亨平・畠山宗明訳
(東京:水声社 二〇〇七年)一七二頁 番場俊の発言

つまり理論化し難い、言語化できない事象に対して、あたしたちは「身体」という言葉で安易に片づけてしまいがちですよってこと。
それは映画、芸術だけでなく、人文系の多くの批評や論文で散見される。「身体」というブラックボックスに投げ入れてしまえば、さも何か意味のあることを語っているように読める
それは知的後退である。まず映画における身体についておさらいしてみましょう。

現代の映画研究において大きく二つの潮流があるのね。一つ目は構造主義・ポスト構造主義・精神分析を利用した映画研究。代表的な論客としてはドゥルーズ、もう少しアカデミック寄りだとジャン・ルイ・ボードリーなんかが有名。日本で言えば蓮實重彥が仏文だったこともあって、その影響下にある批評家、研究者はこっち寄り。大学で言うと東大、横浜国大、明治学院大、早稲田のフランス系の研究科。
おおざっぱに言ってしまうとこの構造主義・精神分析派が前提としているのは、映画あるいは映画的な制度によって観客は主体化される。もっと雑に言うと観客は映画を受動的に観ているという立場。だからプロパガンダにも使われるし、イデオロギー装置として働くことがあるって主張ね。
一方でそうじゃなくて、観客は能動的に映画を観て、解釈をする主体なのだという立場が認知科学を応用した認知派。代表的なのがデイヴィッド・ボードウェル。世界中の映画教育で使われる教科書を書いているおじさんです。日本で言えば加藤幹朗。大学でいえば京大、名大。その認知派の想定する観客は、つねに自分の記憶や経験を総動員して映画作品を解釈し続ける存在として定義されている。
わかりやすく言うと

構造主義・ポスト構造主義=ボトムアップ
VS
認知派=トップダウン

って感じなんだよね。でお互い批判しあってるわけ。
で、どっちが良いとか悪いとかじゃないんだけど構造主義・ポスト構造主義・精神分析は無意識の存在を前提としているのでかなり思弁的なのが弱点。「そんなこと言ったら全部の映画作品がそうじゃん!」っていうことが多々ある。対して認知派は認知処理プロセスに過度に重きを置いているので、具体的な観客の新しい映画経験そのものを扱うことが出来ないのが弱点なわけ。
で、どちらもすっぽり抜け落ちてるのが「身体」という位相。

あたしたちは普段「映画観に行こう」って言うじゃない?映画って観るものなんだよね。でもさ、映画には音もあるし(サイレント期の音については今度また書くね。これはこれで話すと長い)、映画館には匂いや座席の肌触りもある。映画館じゃなくてもそれは一緒。常に観客は身体を総動員して映画作品を体験しているわけ。
けれど上述のどちらの学派も観客を「まなざし」に、映画作品を「テクスト」に還元しちゃっているのでこの身体的な体験を捉えることが出来ていない。百歩譲って音は認めますよくらいのレベルだもん。
まぁ写真あるいは写真以前の隣接する視覚文化の延長で捉えられてきたから仕方がないとは言え、あまりに身体を無視してる。

ものすごく分かりやすく観客が身体的にかかわる映画というものもある。そもそもエジソンのキネトスコープはのぞき見して自分でコマ送りしないと駄目だし、『チェルシー・ホテル』(1981)監督:アンディ・ウォーホルなんかは観客が自分で映写機にフィルムかけかえたり、回転を止めることが出来た。まぁこれらは極端な例だけど、理論的には現代のあたしたちが言う「映画を観る」体験っていうのは、同じように身体が関与してるんだよね。

でね、まぁみんな気づいちゃったわけ。そうだ!そもそも身体を忘れてない?って。
そこで登場したのがスティーブン・シャビロが書いた『映画的身体』
Steiven Shaviro,"The Cinematic Body" University of Minnesota Press(1993)
という本。

と、ここまで書いて寝る時間。明日へ続きます。(続)

おやすみ世界
コオニユリ





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