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いつかリトリートで瞑想してみたい。イエス・キリストの『荒野の誘惑』はリトリート?

リトリート瞑想について、心にうつりゆくまま、そこはかとなく、、。

リトリートで瞑想したい

いつか機会があればリトリートで集中的な瞑想をしてみたいなと思う時があります。

リトリートといっても、軽井沢とか温泉地とか南国とかで日頃の喧噪を離れて自然を満喫して、国産ナチュラル素材を大事にするカフェを巡ったり、有機・自然農の食材を使用したカレーやマクロビ料理や雑穀料理を楽しんだりで、観光の合間にヨガをするようなバカンス・リトリートでないです。

断食を組み合わせて、睡眠とトイレの時間以外は瞑想(と呼吸法とヨガニドラー=シャバアーサナ)のような本格的なリトリートです。

いつか、できれば少なくとも1ヶ月くらい期間、リトリートで断食を組み合わせた集中的な瞑想をしてみたい、、、。


集中的な瞑想と断食

リトリートで瞑想したいと思う理由は、集中的な、ぶっ通しの瞑想の方が意識の内部に突っ込みやすい、もしくは、意識の内部にあるものが顕現しやすいだろうと思うからです。

断食を組み合わせたいのは、それによって「肉体意識」を弱めた方が、やはり効果が生じやすいと思うからです。

関連note:断食療法(ファスティング)の体験談。断食と瞑想

要は、リトリートで断食して瞑想に没頭すると、頭のネジが外れやすくなって体験が生じやすいだろうということです。


 断食でカロリー、糖質の摂取を制限すると、はじめのうちは強い飢餓感が生じるとは思います。
しかしさらに経つと、おそらくケトン体の代謝システムが作動するなりなんなりで、とにかく何らかの生理システムが働いて、飢餓感は抑えられると思われます。

さらに、ひょっとすると特有の生理活性物質が分泌されたりなどで、瞑想で意識の内部に向かうのに適した意識ー脳・神経生理の状態になるのでは、と思うことがあります。

断食で意識状態はある程度の期間は健全に保たれるけれども、体はやつれ「肉体意識」は弱まる分だけ一層、意識の活動力は瞑想に向かうといったイメージです。


リスクもあるけど、、、

このようなリトリート瞑想は、やはりリスクはあると考えられます。

真っ先に思うのは、断食による体調悪化です。

あとは集中的な瞑想で心身の正常さが崩れて狂気に陥るなどです。

まぁ、とにかく不測の事態も考えられます。
なので他者の監督が必要だとは思います。


苦行について――匹夫の行

宗教の修行などでは「苦行」がなされることがあります。
そして断食はこの苦行に含まれます。

注意すべきなのは、準備や訓練が先で、苦行は後だということです。

スピや宗教系で無理矢理の苦行によって高い境地を得ようとか、神秘体験しようとか、霊能力を得ようとか考える人がいるようですが、これは道理をわきまえない匹夫の苦行と言えます。


精神的な実践のために断食を組み込むのは、断食それ自体で何かを得ようとするのではないと思います。
ある程度の基礎訓練を経たあとに、体験や現象を生じやすくするために、正しくマネジメントされた状態で行うものだと思われます。

断食など苦行それ自体に価値をおいてしまうのは、魑魅魍魎に通じる匹夫の行だと思われます。
得られるのは健康被害だけということもあり得ます。


瞑想の伝統とリトリート

本格的なリトリート瞑想はチベット密教の修行やヨーガ内丹(仙道)などであります。
内丹では辟穀へきこくといった食餌制限なども知られています。
この辟穀は単に穀物断ちと説明されることがありますが、本格的なやり方ではもっと厳しいものがあるようです。


チベット密教のリトリート瞑想についての、ごく簡単な情報はネットや書籍でしばしば目にします。

特にカギュ派とニンマ派のリトリートです。

カギュ派は密教重視でリトリート修行する人も多いようです。

ニンマ派は、有名な「ゾクチェン」に連なる修行などでよくリトリートがなされるようです。

書籍『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』(ラマ・ケツン・サンポ   中沢 新一 共著   平河出版社)などで、ゾクチェンの修行体験を目にすることがあります。
こういった鮮やかな瞑想体験は、暗闇での瞑想を含めた、ある程度の期間のリトリートが前提となっているのではないでしょうか。

1時間や2時間の瞑想をする程度では、そんなに頭のネジが外れたりすることはないので、あんな明確な体験はなかなか起こりづらいと思われます。


 ちなみに、サキャ派については、日本ではあまり存在感が無くてよく分からないです。

ダライ・ラマの属するゲルク派は、顕教(学問)重視のインテリのイメージがあります。学問僧のイメージです。

ラマ・ケツン・サンポ 著『知恵の遙かな頂』(中沢新一 訳 角川書店)の中に、ニンマ派について「あんなのまともな仏教じゃない」とか「埋蔵教典(テルマ)が尊重されるけど、あんなの仏典じゃない」などのような非難をするゲルク派の人たちが登場します。


 念のため、ダライ・ラマ14世はニンマ派含めて諸派に寛容です。超宗派運動(リメ運動)を支持しているようです。チベット仏教だけでなくボン教も保護、支援しているようです。


旧約聖書と新約聖書。イエス・キリスト

『聖書』というのがありますが、私はこれは神話、昔話、創作宗教文学だと思ってます。
単刀直入に、、これを「歴史的事実」と信じる方がおかしいです。

新約聖書のイエス・キリストについては、モデルとなったような若い世代の精神的・宗教的・政治的・思想的リーダーみたいな人物は存在したという歴史的研究はあるようです。


 聖書の新約と旧約では、あまりにも思想が違いすぎます。

旧約聖書は血まみれの酷い有り様です。
ネットで聖書全文を読むことができますが、旧約の例えば、申命記とかヨシュア記とかは、まぁ、酷い有り様です。

中東諸国とかで広まっている宗教の聖典もネットで読んだことがあるのですが、これよりも旧約聖書の方が酷いです(これについては意見が分かれるかもしれません)。

旧約全体でもっとも殺戮を繰り返しているのは、「神」だという酷い有り様です。
前頭葉に錆びた釘でも突き刺さっていて自制心がどうにかなってしまったのか、もともと反社サイコパスなのか、神はすぐにブチ切れて、イナゴの大群をおくったり、疫病を発生させたり、「人間を創造したのを後悔して、これを地の表からぬぐい去ろうと」(創世記6章6ー7)大洪水をおこしたりで殺戮しまくってますし、殺戮をモーセとかヨシュアとかに命じてます。

人間を殺したくて、殺したくて、うずうずしている神、、、、

酷い有り様です。年齢制限の成人指定しても良いような内容です。

参考:佐倉哲エッセイ集


 しかし新約聖書は様相が全然違います。
使徒パウロが、献金をくすねた人を呪い殺す記述が、たしか2カ所くらいあったと思いますが、全体としては血のしたたる阿鼻叫喚の旧約聖書と比べて随分ましです。

特にイエスの言行については、旧約の中にあるものとは かけ離れているように感じます。

なのでロマンチックかもしれませんが、当時特殊な宗教修行グループ、思想グループみたいなのがあって、その思想が新約聖書、福音書、「イエスの言行」に反映されたのかもなぁ、と私は妄想してます。

関連note:顕教について >> イエスの言葉


ちなみに、こういったロマンチックなアイデアは西洋のオカルト、スピリチュアル、ニューエイジ系でもあります。
こういったものには、しばしば「ホワイトブラザーフッド(聖白色同胞団)」「エッセネ派」「クムラン教団」といったのが登場してきます。

以前「神智学」「西洋魔術」「シルバー バーチ」「ホワイト イーグル」「エドガー ケイシー」「モーゼスの霊訓」「宝瓶宮福音書」、、、、などのスピ・オカルト系を読んだことがあるのですが、たしか、そういったのにもあったハズです。あんまり覚えてない、、。

有名な『あるヨギの自叙伝』のヨガナンダも、似たような見解を持っていたような気が、、、、。

これらでは、イエスは実はインドなどに修行に行ったとか、仏教の影響を受けたという主張もあるようです。


イエスの『荒野の誘惑』はリトリート?

聖書では「荒野の誘惑」というのがあります。

イエスが40日間荒野にいて悪魔の試みにあったというものです。

四福音書(マタイ、マルコ、ルカ、ヨハネ)の中では最も古いとされるマルコによる福音書では、「洗礼者ヨハネの洗礼を受けたあと、イエスは40日間荒野にいて悪魔の試みにあわれた」という簡単な記述です。

それがマタイとルカでは「40日間断食」や「悪魔の試みの内容」などの記述があり、話がさらに創作され付け加えられたとする見解があるようです。


まぁ、成立はどうであれ、、私はひょっとするとこのイエスの「荒野の誘惑」はリトリートなのかもなぁ、と思うところです。
断食しながらの瞑想リトリートです。

「悪魔の試み」というのも意識体験に関する記述なのかもしれません。

当時存在したかもしれない特殊な宗教グループの修行法や体験が、「荒野の誘惑」の話の元ネタなのかもしれません。

なんの根拠もない思いつきの妄想にすぎませんが。