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【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性

荒野に 内なる霊性の道を備え
砂漠に 大なるもののために 大路をまっすぐにせよ。

(聖書・旧約、イザヤ書40章3節のパロディ

↑↑関係ないけど、バッハ、カンタータ BWV 29、Choro、「Wir danken dir, Gott, wir danken dir und verkündigen deine Wunder」

この瞑想する人noteでは「内なる意識(霊性)」の探究を謳っています。
まだまだ思索が全くもって不十分なのですが、今後の方向性について。

長文です。引用部分含めて13000文字超え、、、、。

とりあえず、今回のnoteで言いたいことは、

「内なる意識・霊性なんて無意味なことかもしれないけど、私自身の内からの衝動なんで気にせず探究しますよ。
 自らの内にある霊性は他者との関係性、愛他性に通じるかもしれません。
探究が価値あるものだったら嬉しいです。もしそうなら社会・後世に役立つものであるように精進いたしますよ」

、ということです。

探究が良いものでありますように。
智慧と慈悲がありますように。

文殊菩薩



探究にはそもそも意味があるのか?

そもそも「内なる意識  霊性」なんてものは実体としてあるのでしょうか?その探究には何か意味があるのでしょうか?

そんなものは厨二病熱のたわ言、脳ミソの作り出した夢や幻であり、結局は虚無なのかもしれません。
無意味だとする可能性自体は実際にあると思います。

「人間の一生というのは、腹が減ったら食べ、眠くなれば寝て、時期がきたら後は無になるだけだ。
人類発祥以来ずっとそうやってきた。それ以上でも以下でもない。

天道、是か非か。

内なる意識やら霊性やらにいったい何の意味がある?
生きているうちは せいぜい安全にできるだけ楽しく暮らせれば、それで十分ではないか?」

、、、というのが真理なのかもしれません。

三省堂 ことばのコラム:天道是か非か(司馬遷『史記』 伯夷列伝)

こちらも👉 唯物還元論、ニヒリズムについて


個人的衝動としての探究

霊性なるものの探究というのは空虚無意味なことなのかもしれませんが、それでも私が続けるのは、もうこれは持って生まれた衝動としか言いようがないです。

関連note:瞑想本能!?瞑想は本能だと思う!!

私の探求心は客観的な事実に立脚したものというものよりかは、信仰心に分類されるものかもしれません。


 私のささやかな願いとしては、たとえ「霊性」なるものが夢、幻であろうとも、これに関する思想が人間社会の中で何らかの価値があってほしいとは思います。

たとえば「民主主義の思想」というのは「霊的な実相、霊的真理」ではありませんし、物理科学的な方法でその存在や正しさが証明されるというものではありません。
しょせん人間が作り出した「この世」的なものです。

しかし人間社会の営為のなかで、その価値が認められ、多くの人々の幸福に関係していて、文明に役立つものとされています。

 それと同じように、人間の内には「霊性」と呼んでもよいものがあり、それが人間社会の営為において、もし「人間をより良い人間とし、社会をより良い社会にし、文明を創造する」ものなら、それが霊性の価値と考えたいです。
 実際にこういったものがあるのかどうか分かりませんが。


 私自身はモクシャとか、そういったワケの分からない宗教的境地には全然関心ないです。


密教の重視

この瞑想する人noteでは「生命エネルギー」に関する実践を密教としています。

用語解説:密教、生命エネルギー、、など

この密教は、独特な体験があるなどで、今後も重視せざるを得ないです。

中国の気功では、特に内丹(仙道)が生命エネルギーの実践に該当します。

ヨガでは、古典『ハタ・ヨーガ・プラディーピカ』の中にムドラーなど特殊な行法が出てきますが、そういった実践(ハタ・ヨーガ)に該当します。

ヴィム・ホフ・メソッドにあるような特殊な呼吸法でクンダリーニを目覚めさせましょうなんてやっている人もいます。

チベット密教(後期密教、無上ヨーガタントラ)では、特に究竟次第(ゾクリム)の修行体系によく見られる「ツァ(脈管)、ルン(風)、ティクレ(心滴)」関連の実践が該当します。 


 気功でもヨガでもチベット仏教でも、生命エネルギーを利用する神秘的な奥深い実践は、独特な作用があり、修行者によって尊重されてきました。

ダライ・ラマの属するチベット仏教ゲルク派の開祖ツォンカパの自伝詩『トジェ・ドゥレマ』の一節です。

“ この世界には完全なホトケとなるために、甚深なる金剛乗(密教)と波羅蜜乗(顕教)の二種類があり、そして密教が顕教よりも遥かに優れていることは、太陽や月のようにあまねく知られている。...…

  …… ホトケの最高乗であり、ホトケよりも希有ですらある絶対真理への道であり、神通(超能力)という一般的な利験と、悟りという特別な利験の、二種の利験の宝庫であるこの甚深なる密教の修行に、私は懸命に励んだのである。”

ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『増補 チベット密教』筑摩書房 2008 p.99


“ 密教は、瞑想があたえるあざやかな直接体験を得ることで、すみやかに覚醒にいたろうとするものである。
...…  密教の修行をつうじてたどりついた境地はクリアーで、しかも何ものによってもゆらぐことがない。密教が金剛乗(ダイヤモンドのような体系)とも呼ばれるゆえんである。”

ラマ・ケツン・サンポ  中沢 新一 共著『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』平河出版社  1981 pp.42-43

ちなみにですが、この『虹の階梯―チベット密教の瞑想修行』で主に触れられているのは、ニンマ派の「ゾクチェン(大究竟)」(ゾクチェン=アティヨーガ)です。

“...…ケツン・リンポチェがわたしの部屋を訪れたあの晩から約一年半ののち、ラマによる灌頂と口頭伝授をつうじて、わたしの前に開示されたゾクチェン=アティヨーガの世界は、...…わたしを深々とした神秘体験のとば口へと導いてくれた。現象の世界をつきやぶって、本然の心の輝き(リクパ)が、見開かれた修行者の眼前に、たちのぼる虹、とびかう光滴、あざやかな光のマンダラとしてたちあらわれるようになる。ゾクチェンの瞑想はダイレクトに、わたしたちの内に宿る仏性をありありと体験させてくれる。”

同上書 p.2

参考:中沢新一(Wikipedia)


 ただこの密教に関しては、いろいろと難しい厄介な問題が絡むことがあります。

ちなみに、宗教テロの大惨劇を引き起こしたカルト教団は、日本史上初の、現代先進国にあっては信じがたいほど大規模な、密教(後期密教、クンダリニー系ハタ・ヨーガ)の実践団体でした。

中沢新一氏および著書『虹の階梯』なども、かの教団の教祖、教義、信者達に影響を与えたということが巷では言われているようです。

“ホー
水に映る月のようなさまざまな虚像にひきずられ
輪廻の鎖の輪を浮沈する生きものたち
彼らすべてが明知リクパに光輝く法界に安らうことができるよう
四無量心をこめて菩提心をこします”

同上書 pp.184-185

これは『虹の階梯』にある詞章です。「発菩提心の瞑想」の時に唱えるそうです。
これとそっくりなものが、かの教団でも「大乗の発願の詞章」として用いられていました。

しかし、この「大乗の発願の詞章」が『虹の階梯』の直接の影響を受けたものかは、私は知りません。
またどの程度、中沢新一氏およびその著書がかの教団に影響を与えたのかも、私は詳しいことは分かりません。


話がそれました。

瞑想する人noteの方針としては、密教の体験や知識というのは霊性、愛他性、向社会性において導かれ解釈されるべきだとしています。
まぁ、難しい作業ではありますが。

関連note:オウムの軛 ―― 密教の懸念の一つ。


対象とする範囲。内なる霊性へ

人間が生命エネルギーの体験や超越的な体験、深い意識体験をするのは、それを可能とするような人間の意識ー神経生理システム、生物学的メカニズムが存在するからだと考えられます。

私の方針としては、その生物学的なメカニズムや体験、「霊性」との関連でのその解釈思索、こういったことの周辺の指摘にとどめたいです。


 原則として神や霊魂、輪廻転生などといった超越的で客観的証明が全く不可能ことは、これらは個々人の信仰に関することであって、このnoteで断定的な指摘はしない方針です。

神との合一、梵我一如、真我独存、輪廻の苦しみからの解脱、、、、そういったことの探求心があるのなら、どうぞ各自お好きにして下さい、私は断定的な物言いで口出しはしませんよ、ということです。

私個人が超越的なものに対するなんらかの形態の信仰を持つようになり、その信仰告白みたいなことは、ひょっとするとあるかもしれませんが、、、あくまで個人的心情の吐露であって、こういった信仰めいたものは個々人の選択にとどめるつもりです。


 しかし大原則としては個々人は自らの内を見るべき、「内なる意識、霊性」に向き合うべきであるとは指摘していこうと思っています。
外なる神、外なる宗教、外なる信仰ではなくて、自らの内を見るべきであるという方針です。

さらに、このような霊性、霊性の探究は「善」「良心」「良識」「人間をより良い人間とし、社会をより良い社会にし、文明を創造する」といったものと結び付くべきであるという願望、方針を持っています。

関連note:「内なる意識」の信仰。内なる霊性


光明の大マンダラ――「内なる霊性」と「大いなる(一なる)もの」もしくは「空性、縁起、智慧、慈悲」

これは、今のところ何の根拠も提示できない私の気まぐれな思いつきなのですが、自らの「内なる意識、内なる霊性」というのは、他の存在との関係性が含まれるのかもしれません。

自らの霊性に向き合うというのは、そもそも、自分以外の他の存在との関係性にも向き合うということに、自然と通じるのかもしれません。


これは思想的にそう言っているのではなくて、また、そうであるべきだと理想論を言っているのでもなくて、そのように生物学的に、意識ー神経生理のメカニズムとしてセッティングされているのかもしれません。

非常に妄想めいたものに聞こえますね。

しかし、そもそも人間というのは、この地球上であれ存在する以上は、他の存在との関わりがあるわけです。人類発祥してから、否、それ以前からずっとそうなわけです。

なので生物の進化の過程で、人間の意識ー神経生理において、生物学的に、遺伝子レベル的に、意識・識閾下領域においても、他の存在との関係性が重要なものとしてセッティングされるようになったという主張は、突拍子もないものではないと思います。

例えば「他者との精神的なつながりのある関係や、他人に親切にすることは、遺伝子レベルでも健康に良い」なんていう主張もあります。
これは「人間というのは、畢竟、生存するために他者との良好な関係が必要であり、それが遺伝子レベルでプログラムされているからだ」などと言われているようです。

参考:パレオな男 アラフォー男がアンチエイジングについて考えるブログ
ブログ内検索「親切」↓↓

他人に「親切」にするとホルモンバランスが整って長生きできるぞ!みたいな話




 ひょっとすると「他の存在との関係性が重要である」というのが、生物学的にも、識閾下領域においても、人間には組み込まれていることもあるのではないでしょうか。
 たとえば数多くの存在がひしめくこの世界で、他者のみならず自分自身の存在を肯定するようなものとして、識閾下において組み込まれているなどです。

もしそうならば瞑想などによって日常的な意識が後退して自らの意識の内、内なる霊性に向かうような時に、意識体験として発揮され経験されるということがあるのかもしれません。

たとえ明確な神秘体験、幻覚体験などがなくても、意識や心理の傾向に影響があるという考え方もできるでしょう。

このような意識体験は大いなるもの、一なるもの、ワンネスといったものだったり、もしくは、「空性、縁起、慈悲、四無量心」といったものに通じる体験なのかもしれません。
意識(光明)のマンダラとも表現できるのかもしれません。

内なる意識(霊性)に向かう(自利)というのは、他の存在との関係性、愛他性、慈悲に向かう(利他)に自然と通じるメカニズムがあるものなのかもしれません。


自らの意識の内に向かうことが  外の世界にも通じ
他者との関係性に  内なる霊性が反映するのなら

内と外
自利と利他
顕教と密教
世俗と勝義
これらは互いに分離した真実なのか?

織りなされる大なる光明マンダラに感慨して
智慧が生じるのなら
慈悲もあわせて生じるのではないのか?


もちろん歴史を振り返れば分かるように、瞑想の実践者達を見ればわかるように、瞑想すればみんなが自然に愛他的になったり、慈悲深くなったりというわけではないでしょう。

瞑想実践の度合い、体験の解釈、個人の持って生まれた性格、気性、それに心がけ、人生観、思想、信条、信仰、、、などが関係するだろうと考えることができます。

生物学的な個体差もありえると思われます。


関連note:顕教について


【備考】神経学的考察など

備考として読んだ書籍にあった気になった文章をのせておきます。

以下紹介する書籍は宗教、スピリチュアリティ、信仰に対して、かなり好意的な姿勢ではあります。


聖なる刻印---脳を変えるスピリチュアル体験』(バーバラ・ブラドリー・ハガティ 著 柴田 裕之 訳 河出書房新社 2010 より


“(カリフォルニア州、シティ・オブ・ホープ国立医療センターのディヴィッド・カミングスらは書いている。)「スピリチュアリティは、人間の脳の高次機能の精髄と言えるかもしれない」(Comings et al., “The DRD4 Gene,” p.188)”  

“「...… (宗教的体験が引き起こされたのは)脳の機能ということで説明がつくのであれば、実際に何かスピリチュアルなことが起きているという可能性が否定されるのでしょうか?」
 「いいえ!」と(ニューヨーク大学の神経学者オーリン・)デヴィンスキーは答えた。その剣幕に私は驚いた。「私は、両方の可能性が明らかに共存できると考えています。たとえば、愛し合っている男女がいたとしましょう。 二人は見詰め合ったとき、私たちが愛と呼ぶ感情を経験します。そのとき、脳の状態に変化が起き、おそらくは側頭葉にも変化が起きるでしょう。だからと言って、二人の間に真の愛があることを否定できるでしょうか? もちろんできません。スピリチュアリティに関しては、私は科学者として、どうしても『可能性はある』と言わざるをえないと思います」”p.203

 (注・・・側頭葉に言及されているのは、側頭葉とスピリチュアルな体験には関係があるという見解が紹介されたため。)


“...… 祈りや瞑想、臨死体験を通じて自らもスピリチュアルな領域に踏み込んだ科学者は、必ずスピリチュアリティ支持の側に回ることに私は気づいた。自らの体験が現代科学の仮説に優るのだ。
 だからこそ、(有名な脳神経科学者である)リチャード・デイヴィッドソンはじつに不可解だ。三〇年間も熱心に瞑想を続けているにもかかわらず、そして、ダライ・ラマと親しい間柄であるにもかかわらず、すべてはけっきょく物質的なものに行き着くと、相変わらず信じて疑わない。瞑想は精神を鍛えて「互いにつながっている感覚、もっと壮大な目的が存在しているという感覚」を味わうためのものだと彼は私に語った。とはいえ、最終的にはそれも脳の活動にすぎないと言う。”


参考:リチャード・デイヴィッドソン(デビッドソン、Richard J. Davidson)の研究↓↓

 Gigazineの記事『6万2000時間以上瞑想を行ってきたハイレベルな瞑想家の脳内では何が起きているのか?』

 『日経サイエンス  2015年1月号 特集:瞑想する脳 瞑想の脳科学』


脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』アンドリュー ニューバーグ 、ユージーン ダギリ 他著 茂木健一郎 監訳  PHP 2003 より


“ われわれは、宗教的な神秘体験、儀式、脳科学についての膨大なデータの山をふるいにかけて、重要なものだけを選び出した。
 …… やがて、一つの仮説が形成された。それが、「宗教的な神秘体験は、その最も深い部分において、ヒトの生物学的構造と密接に関係している」という仮説だった。別の言い方をするなら、「ヒトがスピリチュアリティーを追究せずにいられないのは、生物学的にそのような構造になっているからではないか」ということだ。” p.21

“ ...... 神秘体験の生物学的な起源は、われわれの脳の超越の機構の中にあり、このことは、...... すべての神秘体験に当てはまると考えている。...… ヒトの脳がこのようなかたちに組み立てられていなかったら、たとえ高次のリアリティーが実在していたとしても、それを経験することは決してなかったのだ。” pp.183-184

“ …… 最新の科学は、われわれを驚くべき結論へと導いた。それは、神秘家たちは実際に何かと出会っていたのかもしれず、われわれの心に備わる超越体験のための神経学的機構は、真に神秘的なものの究極のリアルさを垣間見るための窓なのかもしれないという結論だった。”  p.207

“ …… われわれは、神秘体験の本質について、挑発的な問いかけをすることを余儀なくされている。それは、「すべてのスピリチュアル体験は、瞬間的に大発生した電気化学的な刺激が脳の神経回路を駆けめぐる現象に還元できてしまうのだろうか?」という問いである。脳か感覚入力を経験の知覚へと変換する方法についての現在の理解によれば、答えはイエスだ。
 それでは、神は単なる概念であり、空想や夢以上の絶対的な実質など持っていないのだろうか? 脳の知覚を心が解釈する方法についての現在の理解によれば、答えはノーだ。” pp.210-211

“ ( ...… 神の存在や非存在を証明すること、)「神は存在するか?」という問いに簡単な言葉で答えることは、われわれの脳科学には不可能だ。スピリチュアル体験を神経生物学的に調べれば、神のリアルさの「感覚」が存在することは証明できる。われわれはこの結果を、「脳が何かをリアルだと判断するとき、それは、主観的な自己意識を通じてリアルなのだ」という意味に解釈している。” p.211

“ すべての知覚は心の中にある。あなたの足元にある大地 .…. のリアルさに疑問の余地はないと思われるかもしれない。けれどもこれは、あなたの頭蓋骨の中で起きている神経学的過程がもたらした、間接的な知覚なのだ。そう考えると、スピリチュアル体験を「単なる」神経学的活動として切り捨てる人は、物質世界についての知覚のすべてを信頼していないことになるし、逆に、物質世界についての知覚を信頼する人は、スピリチュアル体験など心の中にしか存在しない作り事だと極めつける合理的な根拠など持っていないことになる。” p.215

“われわれの理論からは、数々の驚くべき帰結が導かれた。すなわち、神話が、生物学的過程によって強制的に作られてくるということ。儀式が、神秘的な合一状態に入るために直観的に考案された動作であるということ。神秘家が、必ずしも狂気に陥っているわけではないということ。すべての宗教が、一つのスピリチュアルな木から突き出している枝であるということなどである。われわれが最も興味深く感じたのは、この究極の合一状態を合理的に支持できるという事実だった。” p.251

【備考】宗教的体験

ウィリアム・ジェイムズによる宗教心理学の名著『宗教的経験の諸相』(桝田啓三郎 訳 岩波書店)より。孫引きになりますが。

Wikipedia:ウィリアム・ジェームズ

カナダの精神科医リチャード・モーリス・バック博士の体験に触れられています。
バック博士の著書『Cosmic Consciousness』(1901年)は欧米の宗教、スピ、ニューエイジ、新興心理学、トンデモなどの界隈ではかなり有名なもののようです。
20年くらい前に邦訳が出たようです。(『宇宙意識』尾本憲昭 訳 ナチュラルスピリット)


宇宙的意識」について。

“「...…(宇宙的意識とは)宇宙の生命と秩序についての意識である。宇宙の意識と平行して或る知的な啓蒙が生じるが、これがはじめて個人を或る新しい存在の段階に立たせるだう...…。これにさらに或る道徳的高揚の状態が添加される。これは筆舌に尽くしがたい向上と意気と歓喜との感情であり、道徳的感情に生気を与えるものであって、高められた知的能力と同程度に顕著でありそれより以上に重要である。さらにそれと同時に、不滅性の感覚、永遠の生命の意識と呼ばれてよいものが生ずる、これはいつか永遠の生命をもつにいたるであろうという確信ではなくて、すでに永遠の生命をもっているという意識なのである。」Cosmic Consciousness : A study in the Evolution of the human Mind, Philadelphia,1901,p.2.”

ウィリアム・ジェイムズ著『宗教的経験の諸相(下)』桝田啓三郎 訳 岩波書店 1970 pp.212-213

バック博士自身にもその宇宙的意識の体験があったようです。
友人達と詩を読んだり哲学談義をした後に別れて、一人になり心穏やかな状態で、精神の働きに受動的だった時に体験したようです。

その記述です。

“……なんの前触れもなしに、私は火炎のような色をした雲に包まれてしまった。一瞬間、私は火事だと思った...…。次の瞬間、私は火事は私の心のなかにあったことを知った。そのすぐ後に、狂喜の感じ、無限の歓びの感じが私を襲い、それと同時に、あるいはその直後に、筆紙に尽くしがたい知的光明が襲ってきた。...…私が知ったことは、宇宙は死んだ物質で出来あがっているものではなく、その反対に、活ける生命であるということであった。私は自分の中に永遠の生命を意識した。……
 
 宇宙的秩序は、万物が各自みなの幸福のために協力するようにできている、ということを、世界の根本原理、あらゆる世界の根本原理は、私たちが愛と呼ぶところのものであり、各自みなの幸福は結局は絶対に確実である、ということを知った。...… ”

ウィリアム・ジェイムズ著『宗教的経験の諸相(下)』桝田啓三郎 訳 岩波書店 1970 p.214

【備考】臨死体験

今まで述べてきたことは、ひょっとすると臨死体験者、特に欧米キリスト教圏の臨死体験者の意識体験にも関係するかもしれません。

臨死体験の内容は類似・共通することが多く、「体外離脱体験 Out of Body Experience(OBE)」「走馬灯のような人生回顧(ライフ・レビュー)」「普遍的な(無条件の)愛にあふれた光の存在に出会った」「ワンネスを体験した」といったものがよく見られます。


体験者の証言などを書籍『臨死体験 9つの証拠』(ジェフリー・ロング, ポール・ペリー 著 矢作 直樹 解説  河村 めぐみ 訳 ブックマン社 2014)から。

“...… それまでの人生で経験したどんなことよりも、現実味を感じた“

“...… 絶対的で無条件の包み込むような愛、慈悲、平和、あたたかさ、安全、帰属感、理解、故郷に戻ったという圧倒的な感覚、そして喜び”

“光に到達したとき、人生が愛と幸せで満たされた。それ以外のものは存在しなかった。強烈な感覚。すごく強烈で無限だった”

“壁を通り抜けると光のまゆの中に直接入ったようだった。中央に大きく強い光があり、それとまったく同じだがやや小さい光の繭がいくつか連なっていた。今考えると、個々の光の繭は私が入ったのと同様、人間の魂で、それが中央の神とつながっていたのだと思う”

『臨死体験 9つの証拠』p.14-18

臨死体験の影響も共通したものが見られます。

“臨死体験者は死への恐怖が薄れ、これと反比例するように死後の「生」を信じるようになる。さらに、他人との関係において、より愛情と思いやりを示すようになる。”

『臨死体験 9つの証拠』p.78

体験によってスピリチュアルな思想を抱くようになる人も多いようです。「ワンネス」といったものを連想するものがよくみられます。
 以下はある体験者の証言。

“私たちは「複数が結びついたもの」あるいは「単一のもの」の中で生きている。すなわち、私たちの現実性は「複数の中の単一と、単一の中の複数」である。”

“愛を意識して生きることこそ、もっとも重要なことである”

『臨死体験 9つの証拠』p.222-223


 余談ですが、「神、霊魂」「死後の生」といった霊的なことがらに懐疑的な科学者の中には、自ら臨死体験を調査する内に、スピリチュアルな信仰を持つようになる人が結構いるようです。

界隈の中で、その最も有名な人物は、著書『かいまみた死後の世界』のレイモンド・ムーディ博士でしょう。
書籍『死ぬ瞬間』の著者の精神科医で、これまた有名なエリザベス・キューブラー=ロスとともに臨死体験の調査・研究もしていました。

ムーディ博士はもともとは、“超常現象、超能力、心霊現象といったようなものは、信じないという立場” だったようです。(立花 隆 著『臨死体験 下』文藝春秋, 2000,  p.14)

しかし心境の変化があったようです。

“ (ムーディ博士は、著書『かいまみた死後の世界』では、)かなり用心深い表現で温和などっちつかずの見解を表明している。しかし、『続 かいまみた死後の世界』では、次のように書くにいたった。
 「私は死後にも生命があるということを、信仰の問題として受け入れるようになりました。そして、これまで検討してきたような現象は、来世の明示であると信じています」
 ただし、これには、
 「心理上の問題であって、論理的な結論ではないことが分かってもらえるならば」
 という但し書きがついている。つまり、証明はできないが、信じているということである。
 最新作の『光の彼方に』では、この立場がさらに強く押し出されている。 ...…

立花 隆 著『臨死体験 下』文藝春秋, 2000,  pp.36-37

立花隆氏のインタビューでムーディ博士は次のように語りました。

“「...… 臨死体験の研究に入ったはじめの頃は、私はこれは幻覚だろうと思っていたのです。幻覚の原因は、脳の低酸素状態がもたらしたものかもしれないし、...…。いずれにしろ、現実ではなく、幻覚だろうと思ったのです」
...…

「...…  現実に体験者たちの話を聞いていくと、これはそういう頭の中でこしらえた理論では、とても説明できない現象だということがすぐにわかります。そういう説を述べる人は、みんな例外なしに、自分で体験者に会って直接話を聞いたことがない人たちです。いろんな体験者に会って、長時間その体験談を聞くという実地調査をしたことがある研究者たちは、みんな、そういう科学的説明では満足できなくなるのです」
...…

「第一に、そういう幻覚と臨死体験とでは、内容にあまりに質的ちがいがありすぎるということがあります。第二に、そういう科学的説明では、どうしても説明しきれない要素があるということです。特に体外離脱です。……」

立花 隆 著『臨死体験 下』文藝春秋, 2000,  pp.39-40

【備考】非利己的な愛、愛他性、利他心、慈悲、四無量心、、、

「よくわかんないけど愛他性は瞑想の実践や霊性というものに重要なのではないかなぁ」という気まぐれな思いつきがあったので、それについてこの瞑想する人noteで触れたことがあります。

瞑想する人は仁者たれ?慈悲深くあれ?愛他性(利他性)や慈悲の瞑想(トンレン)の実践


述べてきたように自らの内なる霊性に向き合うというのが、他者との関係性にも向き合うことにもつながるのかもしれません。

そしてそれは自己超越といったものにも関係があるのかもしれません。

もしそうなら、ここにおいて愛他性が注目されるべきなのかもしれません。
愛、愛他性というのは、自己だけでなくて、他者の存在をも肯定的に気にかけることであって、こういった点で自己超越性が含まれるのかもしれません。

ここでの愛、愛他性といったものは、エゴのない、非利己的ものだと考えられます。
エゴの要素が強い分だけ、自己超越性に矛盾すると考えられるからです。

宗教体験者や臨死体験者がしばしば、「圧倒的な包み込むような愛」「普遍的な(universal 、unconditional)愛」を感じた、と似たような主張するのは、その時に自己超越性に関する感情、意識を体験したからなのかもしれません。

【備考】仏教の瞑想修行者の選択 ――阿羅漢ではなく大乗の菩薩の道を選ぶ

山下良道氏(住職。坐禅、瞑想の指導者。鎌倉一法庵,One Dharma Forum,ワンダルマの会)の書籍『光の中のマインドフルネス』(サンガ)より。
Wikipedia:山下良道

一法庵、山下良道氏の法話:スピリチュアルはサイエンスを否定する? - YOGAYOMU編集部の問いに答える (22/01/16)

この法話ではコンスピリチュアリティのカルトに触れられています。


さて、『光の中のマインドフルネス』(サンガ)からです。

山下良道氏はミャンマーのパオ森林僧院(僧院長:パオ・セヤドー)で修行をしていた時に、あるマレーシア出身の若い比丘(男性修行者、僧侶)に出会いました。
その彼は瞑想の天才だったそうです。

彼はどんどんと瞑想の境地が進んでいくのですが、ある時、「自らの悟り得て阿羅漢になる」という道を変更して、大乗の菩薩の道を歩もうと決意し、チベットの流れで大乗仏教の修行に向かったそうです。

山下良道氏はその時は、彼の選択に違和感を覚えたようです。

“ ...… 我々はあのときミャンマーのテーラワーダ仏教の中にいたので、ものすごく違和感を覚えました。ミャンマーでは菩薩になるのはあり得ないのです。
 ...…

 でも、彼は菩薩になる道を選びました。このことを相談に来た彼の話を聞いても、「えー」と思うだけで、そのときは彼の気持ちは理解できませんでした。
 今ならとてもよくわかります。そのあたりで結局、仏教の歴史は大乗仏教とそうでないものに分かれて、未だに分かれっぱなしなのだということも。なぜ、そこで微妙に分かれてしまったのかは仏教史上最大の謎です。
 この二つの道の違いはけっこう本質的で、ちょっとお互いに妥協できないところだろうと思います。...…
 ...…

最後のところでどちらの道を選ぶかは、いちばん深いところで決まってしまっている気がします。
 いちばん深いところの問題だからどうしようもない。テクニックの問題でもないし、その人の存在の根っこのところで何かある。
 それを私は今、「世界への愛」と呼んでいます。”

山下良道 著 『光の中のマインドフルネス   悲しみの存在しない場所へ』 サンガ 2018 pp.279-280

“ 徹底的に無のところにやすらぎを求めていく生き方がひとつ。
 もうひとつは、もう一回転してそういう世界を愛していく、という生き方です。

 ...… 世界というのはなんの実体もないよね、無だよね、あなたも私も何も実体がない存在だから、この世界は仮想だよね、だから世界への執着を捨てようねとなってきました。
 それでもこの無意味な世界を生きなければいけないので、それは人生ゲームのようなものと見なし、ゲームだとわかったうえで、無執着に扱えばいいという考えも出てきます。
 うーん、でも、そのような考えとそれに基づく生き方は何かが欠落していると、私は深いところで感じてきました。
 ...…
 それは、世界への愛です。
 そしてそれが、仏教を菩薩の方向性とそうでない方向性の二つに分けた根本のところだと思います。”

山下良道 著 『光の中のマインドフルネス   悲しみの存在しない場所へ』 サンガ 2018 pp.281-282


物質性(この世的なもの)を超えた霊的な実在を認める場合でも

しばしば述べてきましたが、この瞑想する人noteでは「霊性(霊的、スピリチュアリティ、スピリチュアルなど)」の話題においても、「神」「霊魂」「霊界」「輪廻転生」「超能力(霊的能力)」などといった物質を超えた超越的なものは扱えません。
 現時点では、物理的・科学的な限界を超えたものであり、手には負えません。

そーいったのはどーぞ各人勝手に思索するなり信仰するなりして下さいということです。


ただし、霊性というものに関しては、「自らの内を見るべきである」「自らの内なる霊性に向き合うべきである」という意義は込めていくつもりです。


この「内なる霊性に向き合う」というのは、この世的なものを超越した実在とやらを探究する際にも役立つものだと思われます。


 物質、この世的なもの以外に超越的実在を認め、そして、宗教者、神秘家、スピ系さん達が言うように、そのようなものを認知したり接触したりすることがあるとしてみましょう。

では、物質的世界で物質的肉体を持って暮らす人間と、そのような超越的実在とはどうやって接触するのでしょうか?
接触点はどこにあるのでしょうか?

接触点を考える点でも、それは人間の内、人間の意識ー脳・神経生理体系の内に注目すべきであり、それに霊性(スピリチュアリティ)が関係するだろうという思索は提案できます。

超越的実在を認める場合でも、「内なる霊性に向かうべき」という方針は重視できます。