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【大印契】顕教について  【瞑想する人note】

この瞑想する人noteは、実は私自身も戸惑うところでもあるのですが、「密教」「霊性」「生命エネルギー」など、オカルトめいたマニアックな記事ばかりになりつつあります。スピ、宗教的雰囲気が濃くなっています。

「瞑想でうつ・不安から回復」とか「アロマテラピー」など素朴な頃から随分と様変わりしてしまっています。


ヨガやマインドフルネス瞑想で健康になろう」とする一般読者向けではなくなっているのは、私自身も十分に認識しているところです。

どちらかというと霊性(スピリチュアリティ)との関係で瞑想に関心ある人たちや、「仙道(内丹)」クンダリーニ系ハタ・ヨーガ」など生命エネルギーの実践に関心ある人たちの探究に役立つように、思索を残しておきたいというものになりつつあります。

そのような意図を私自身が明確に持っているので、瞑想する人noteのこの方向性は今後も変わらないと思われます。

今回の記事もそうです。
まだ自分でもまとまっておらず思索段階のメモみたいなものですが、「顕教」についてです。

文殊菩薩。智慧と慈悲の象徴としています。

関連note:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性

顕教 ―― エゴのない愛他(利他)

エゴのない(非利己的な)愛他・利他、他者の幸福や喜びを思いエゴ無く与えるという実践を、この瞑想する人noteにおける顕教とします。

密教をとりあえずは「主に、瞑想とくに生命エネルギーの実践をともなうものによって内なる意識、霊性を探究するもの」としています。

しかし顕教とは何かについては、薄ぼんやりとしか述べてきませんでした。


顕教とは「エゴのない(非利己的な)愛他性(利他心)とその実践」であるとします。
他者の幸福や喜びを思い、エゴ無く与えるという実践です。

ここで言うエゴとは、心理学などで言われる社会生活を送るために必要な「健全な自我」などではないです。

「エゴ」や「自我」、「愛他性」とは具体的には何か、といった細かいことは私自身も探究思索中のものです。
まぁ、今はなんとなく雰囲気をつかんで下さい。関心ある人は各自で探究して下さい。

とにかく、このエゴのない愛他性を原理原則として、あとは思索を深めつつ自分なりにTPOで臨機応変に、というのを顕教とします。

関連note


 この話題に触れる時にもっとも気が引けるところなのですが、私自身は決して他人様に「愛他性」とか倫理道徳を説けるような人間ではありません。
まことに自己中、エゴの塊、卑矮凡弱な人間です。

口が虚しくなりそうです。


「こうであって欲しい」とする私自身の単なる願望に過ぎないのかもしれません。
しかし内なる衝動を感じていて、これに抗うことに生産性も創造性も感じられないので、その衝動のままに「エゴの無い愛他利他こそが顕教である」と明示します。

どうか霊性、文殊霊徳の導きでありますように。
内なる霊性の前にあって、私自身もへりくだって真面目に受け止め、自分なりに取り組まなければなりません。

イエスの言葉

顕教を仏教の言葉で言うと慈悲(四無量心)とその実践になると思われます。

他には、宗教界隈で最も有名な言葉の一つとして「思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛せ。汝の隣人を汝自身の如くに愛せ」になると思われます。

“...…パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて集まってきた。
彼らのなかのひとりの律法学者がイエスを試した。

「先生、律法の中で、どの戒めが最も大切なものですか?」


イエスは言われた。
「『思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛せ』。
これがたいせつな第一の戒めである。
自分を愛するように、汝の隣人を愛せ
これも同様に大切である。

律法全体と預言者が、これら二つの戒めにかかっている」”

マタイによる福音書22:34ー40


 私はしばしばキリスト教を含めて宗教について「迷信」「時代遅れ」「衰退勢力」などとしてばかにしてきました。
最近もばかにしました。

関連note:いつかリトリートで瞑想してみたい >> 旧約聖書と新約聖書。イエス・キリスト

しかし「イエスの言行」についてはなかなか興味深いものがあると感じてます。

「安息日は人のためにあるのであって、人が安息日のためにあるのではない」
「罪なき者が、まず石を投げよ」
「最も偉大な者とは、奉仕する者のことである」
「この内で最も小さき者に為すことは、すなわち私に対して為すことである」

、、などは血なまぐさい旧約聖書の思想とはかけ離れたものであり、まさに菩提心であり大乗の菩薩の境涯です。


「思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛せ」の部分は、馴染みのない人も多いと思います。
これはヨガならバクティ、仏教ならダルマ、、、など、各々自らの信仰や実践に合うように解釈していいと思っています。


「キリストの愛と仏の慈悲は違う」と言う人もいると思いますが、実際に愛や慈悲を実践するとなると、そんな細かいこと言ってもしょうがないと思います。

私はキリスト教神学や律法を説いているわけではないので、そういった小うるさいことを言われても全然関心ないです。
私の知ったことではないです。

他、宗教やスピでは

エゴの無い利他愛他の実践について、カルマ・ヨーガ(行為のヨーガ)と言われることがあるようです。

仏教では全てをホトケのあらわれとみて、エゴ無く奉仕するというようなことを言う人がいます。

エゴ、自我で善いことを為そうとするのではなくて、内なる神、内なるキリストが自分を通して働かれるかのようにするなどという説明もあります。


大印契(マハームドラー)

大印契(マハームドラー)という言葉があり、チベット仏教・密教、ヨーガなどでいろいろな意味、文脈で用いられています。
有名なのがチベット密教カギュ派の最奥義「大印契(マハームドラー)」です。


この瞑想する人noteでは「顕教と密教の統合」「円満なる霊性の道、実践、境地」などの意味で用いることがあります。

関連note:ヴァジュラバイラヴァの詩

おおよそ霊性を求める人は大印契を理想とすべきと考えます。


印契(ムドラー)とは封印とか印章、象徴という意味があります。

霊性の探究やその実践をする人は、まさに霊性の象徴であり、このnoteにおいては霊性とは価値あるものとしているため「大印契(マハームドラー)」という言葉を用いることにしました。

密教と顕教

密教、生命エネルギーの実践をする人は、すべからく大印契を理想とすべきであると考えます。
これについてはまだ思索が不十分なのことではあります。

しかしとにかく大印契を瞑想する人noteの理想とします。


密教と顕教は補い合う関係だと思われます。
密教は顕教を助けるだろうし、顕教も密教を助けると思います。

また顕教は「心の浄化」にも役立ち、密教による副作用や暴走を防ぐ効果もあると思われます。

さらに大印契を理想としてしっかりと掲げ、それを「霊性の大道」とすることによって、「超能力(霊能力)が欲しい」だとか「神秘体験したい」といったような魑魅魍魎に通じる脇道にそれることを防ぐことができます。

道筋がハッキリとしてきます。

関連note:超能力(神秘体験)と瞑想、ヨガ


あとこれもまだ思索が不十分なのですが、生命エネルギーの実践においても顕教は直接的に影響するのではないかと思われます。

現時点で思索していることは、

 自らの内にある霊性というのは、ひょとするとエゴのない愛他性と直接的な関係があるかもしれない。

 生命エネルギーの実践、密教は自らの内にある霊性の探究のためである。

 ならば愛他性それ自体も、生命エネルギー(の活動、現象、体験)に直接的な関係があるかもしれない。

、、、といったものです。
これはあり得ることだと思われます。