瞑想能_note

【瞑想とうつ】酷いうつ、不安の時の瞑想体験。瞑想が続くようになったきっかけ。

 実は私は数年前に酷いうつ(鬱)と不安症状を経験しました。
不思議なことに瞑想によってうつが改善しただけではなく、さらに瞑想体験が深まるきっかけにもなったのです。

今回はうつ病と瞑想に関する個人的体験の話です。

※「うつ、不安に関する瞑想のアドバイス」「瞑想指導者の選び方(具体的に)」「瞑想が良い理由」を加筆しました。

瞑想の実践は状態、やり方によっては心身の負担となり、症状などが悪化することも考えられるので無理しないようにして下さい。


瞑想ジプシー

 私は10代前半から瞑想に関心がありました。しかしその頃はまだ今ほど瞑想が一般的ではなく、宗教、オカルト、精神世界に関する怪しいモノののように考えられていた時代です。
スマホで簡単に調べられる時代でもありませんでした。

そのため瞑想のやり方を求め彷徨い歩く瞑想ジプシー、瞑想難民になってしまいました。


 TM瞑想や気功などを習ってみて、興味深くはあったものの自分自身の内から湧き上がってくる瞑想衝動を満足させるものではなかったのです。
結局は呼吸を静め心を静め、できるだけ余計なことは考えずリラックスし、精神を集中させるようなシンプルな瞑想に戻り実践していました。

瞑想の時間は15~20分くらいは安定した心地よい集中状態は続くものの、それくらいが限度でした。
もっと長く瞑想の状態を保ち、深い状態に入っていきたいという衝動は感じつつも、それは叶えられませんでした。

その後何年も自分の瞑想に満足がいかない状態が続いていました。しかしあることをきっかけに瞑想体験が深まるようになったのです。
それが冒頭にあるように、なんと酷いうつ不安の症状でした。


うつと不安の症状に

 2015年の9月の後半だったと思います。うつになったきっかけは、仕事と経済的な問題に人間関係のトラブルも重なったことです。ここから自信を失い、自分を責めるようになり、後悔や将来への不安、自己否定・・・といったことが段々と強くなるといったパターンです。


 はじめのうちは今まで自分が経験してきたような、また他の多くの人も経験してきたような、誰の人生においてもよくあるトラブルであり、またよくあるストレスであると考えていました。
ただ、不眠の症状が強くなってきたので、とりあえず内科に相談に行き睡眠薬を処方してもらいました。それで一旦は眠れるようにはなりました。

しかし徐々に身体的症状が明確になっていき、睡眠薬を飲んでも眠れなくなってしまいました。
疲労感。何度水を飲んでもすぐに口が渇く。何を食べても砂を噛んでいるような味覚の変化。胃腸が食物を受け付けなくなり、無理に食事すると生じる吐き気。心臓の鼓動の変化。みぞおち、腹部の違和感。足腰に力が入らずに立っていられなくなる。などなど、です。

同時に精神的症状も徐々に激しくなっていきました。
気分の落ち込み。特に寝起き時と夕方以降の憂鬱、不安感。思考力、記憶力が落ち、ケアレスミスが多くなる。文章が頭に入りづらくなる。何事にもやる気、興味がなくなる。焦燥感、腹部から胸部にかけてのソワソワ・ザワザワ感。強い不安感や悲しさに襲われ泣き出す。強い後悔、罪悪感、自己否定、孤独感。


 私自身でも今自分自身がおかしな状態にあることは充分に分かっていたのですが、まさか自分が精神医療のカウンセリングや、よもや投薬まで必要であるという、そういう発想自体が頭の中にはまるで無かったので、精神科クリニックにはすぐには行きませんでした。

しかしクリニックに行かざるを得ないほどに症状が、特に精神的症状が激しくなったのです。
希死念慮と、あと「大恐怖」もしくは「大発作」と私が呼んでいる恐ろしい体験です。


恐ろしい「大恐怖」の発作

 精神的症状が激しくなっていき、強い不安、後悔、自己否定、罪悪感、孤独感によって心が支配されるようになって行きました。
「あのときこうしておけば良かった、もしくは、しなければ良かった」とか「もっと努力しておけば良かった」といったことだけでなく、家族、友人、 仕事上の人間関係などが思い出され、それらが自分自身を責める材料になっていきまいた。

例えば、私とは離れて親戚の家に住んでいた亡くなった祖母に生前もっとこまめに連絡を取り、淋しさを慰めてあげれば良かったといったこと。また仕事上のことで作業が遅い人に辛くあたったことなど。
ある時には自分がまだ小学生だった頃に、いじわるして友人を仲間外れにしたといったことまでが思い出され、激しい後悔と罪悪感、自己否定が生じるようになりました。


 こういった症状が続き、ついには「大恐怖」が生じました。
心の中に、ポッカリと大きな穴が開き、その不気味な底無しの深淵から真っ暗闇が立ち上り、それに飲み込まれるような恐ろしい感覚が生じたのです。
その真っ暗闇は、真っ暗闇、途方もない、純粋な暗闇としか表現しようがなく、生命の、もしくは、存在それ自体の真っ向からの完全否定以外にはなにもないようなものでした。

この恐怖感は、今まで自分が感じたことのあるものとは完全に異質のもので「死」や「死の恐怖」をダイレクトにイメージさせるものでしたが、その暗闇は死臭すらも無い純粋な真っ暗闇でした。

この大恐怖が生じると、激しい恐怖と永遠に続くような尋常でない孤独感に襲われ、自分にはなにも出来ることがなくなり、倒れ込み、うずくまり、頭を抱え、無様に泣き続けるしかできませんでした。

このままだと、死にかねない、もしくはこの大恐怖に飲み込まれ殺されかねないと思ったので、ここで知人の助言もあり精神科のクリニックを受診しようと決断しました。同じ年の12月のクリスマス前のことでした。


療養する

 クリニックでは、高齢の優しそうな男性医師のカウンセリングを受け、うつであり、不安感が強いと言われ、薬を処方されました。

このnoteを始める前にクリニックと処方箋薬局に記録を問い合わせたのですが、記録の保管期間過ぎており記録が入手できませんでした。確か2、3種類が処方されたと思います。
薬の依存性や副作用に不安があると医師に相談したのを覚えています。


 当時は自営業的な立場で知人の新店舗の運営に関わっていて、ある程度忙しさが落ち着いてきた時期だったので仕事をかなりセーブして療養することができました。


 睡眠に関しては内科で処方された睡眠薬よりも効きました。
身体、精神症状ともに、初めのうちは、幾分かは効いた記憶があります。薬の影響でボーッとなることが多く、何か作業をしなければならない時には辛かったです。
しかし徐々に、特に不安感などの精神的症状が薬を飲んでも強く現れるようになり、しばしばあの大恐怖に襲われるようになりました。


 この時期はあまり記憶が定かではないのですが、翌年1月終わりか2月初め頃だったと思いますが、薬の種類がより強いものに変わりました。
以前の薬よりも睡眠が改善されたのですが、薬に対する慣れがなかったのでしょうか、ボーッとする感覚も強くなり、浮遊感、ふらつきのような感覚もしばしば生じました。

しかし不安感、自己否定、罪悪感、後悔・・・といった精神的症状が抑えられず、大恐怖にも襲われていました。希死念慮もあったので入院という選択肢があることも示されました。


突然のインスピレーション!瞑想を再開して急速に快方に向かう

 確か強い薬に変わって最初に処方された薬は使い切り、2回目に処方された同じ薬を使い切る前、もしくは使い始めてすぐのことだったと思います。

 その日は天気の良い日で、まだ明るい時間帯でした。大恐怖の発作があり、部屋の中でうずくまってうめいていた時のことです。

発作の真っ最中に、突然、天から降ってきたかのようにインスピレーションがあり、興味深いイメージが湧いてきたのです。

「意識の大海」というイメージです。
人間の意識というのは、日頃、自分自身で意識できるよりも広大であり、表層は太陽に照らされ、雨に降られ、風が立ち、嵐や竜巻が起こり、波によって騒がしくかき回されたたとしても、内部の深い部分はゆったりとした静けさがある、というものです。
そしてその内なる意識の広大な静けさの領域には瞑想によってアクセスできる、というものです。


 瞑想について調べると、宗教や精神世界、オカルトの思想にも触れることになるので、「人間の意識は実は大海のように広大なんだ」のような主張があることは知っていました。

一時期習っていた気功を通して知るようになった中国の古い思想や、TM瞑想の中にも似たようなものがありましたし、心理学の分野でも、様々な説や考え方はあれど、潜在意識とか無意識といったものが扱われています。


でもその時までは、大海のように広大な意識、という考えは大げさに思えていて、よもやそういった広大な意識があるにしても、「実用的」ではなく自分の人生には、あまり関係がないと考えていました。

しかしその時は、そのイメージがリアルに感じられたのです。
このインスピレーションが生じた途端に、心が少し軽くなり、発作が落ち着きました。それから中断していた瞑想を再びしようと思ったのです。


 瞑想はうつになった前年9月以降は、あまりしなくなり、症状が激しくなってからは完全に中断していました。
瞑想は集中することが必要であり、精神的症状にさいなまれるような状況では瞑想に必要な集中が全く出来ない、と感じていたからです。文章を読むことも難しい時期でした。


それだけでなく、むしろ瞑想しようとして無理に集中すれば、より一層精神に負荷がかかり症状が悪化するのではないかと思っていました。

しかしインスピレーションを受けて、内なる意識の静けさの領域に触れてみたいという衝動に駆られ瞑想してみたのです。
この時の瞑想は無理に集中することはせずに、とりあえずは「意識の大海」という考えを受け入れ、その意識の静けさの領域を信頼し、できるだけリラックスするという瞑想です。


その日からです―――瞑想を再開したその日から、薬の服用を止めました。

その日から、身体的症状と精神的症状がずいぶんと軽くなり、薬を飲んでもボーッとするだけだろうから、と必要性を感じなくなり止めました。

クリニック通院も止めました。「寛解した」と告げられたわけではなくて、自分勝手な判断だったので良くないことではあるとは今でも考えていますが、カウンセリングと服薬の必要性が感じられなくなったのです。
結局、薬は処分し、今に至まで通院も服薬もしていません。


 ただ自分でも不思議に思ったことがあります。
その時は、うつになったきっかけである外部環境は、確かにいくらか改善や小康状態になったりはしてましたが、依然として悩ましいストレス自体はありました。

外部環境に大きな変化があったわけではないのにも関わらず、突然のインスピレーションの思いつきによる、内なる意識の静けさを信頼する瞑想で急速に快方に向かったのです。「これはいったいどうしたことか?」と自分でも思いました。

心それ自体、意識それ自体に治癒力のようなものがあると思わせる体験でした。


 瞑想が―――この場合の瞑想とはマインドフルネス瞑想のことが多いのですが―――うつや不安の改善に効果的かどうか、効果的ならどの程度まで効果的なのか、については複数の研究結果があるようです。
少なくとも私の場合は、個人的な主観として、処方された薬よりも瞑想(マインドフルネス瞑想ではないですが)の方が効果的に感じられました。


瞑想が安定したものになり、時間も延びる

 瞑想を再開してから、自分がもっとも恐れた大恐怖の発作が一度も生じませんでした。症状自体は、瞑想によって最悪期から突然快方に向かったあと、小康状態になり、上下の波がありつつ少しずつ改善といった道筋になりました。

「あっヤバイ、ぶり返してきたかな?」と思うようなことがあっても、20分くらい瞑想すると「あれ?さっきの不調はどこいったんだ?」ということを繰り返しつつの堅実な回復です。


 回復トレンド中にも、しばしば少し強めのうつや不安の感情が生じて胸やお腹がザワザワしてきて心配に襲われることがありました。そういう時には身体に震えが生じる時もありました。

始めの内はそのネガティブな感情に飲まれてしまい、瞑想のやる気も削がれることもありました。
しかし瞑想を重ねるにつれ、自分の心の変化に客観的に気づくようになりました。

ザワザワとしたうつ不安の感情が生じると、それに気づき、飲み込まれなくなったのです。
ネガティブな感情が生じてきても、自分の意識の構造においては、それはしょせんは表層の意識の動揺に過ぎないと考えるようになったからです。


 瞑想体験も、この酷い体験を経てから不思議と安定し、瞑想時間も自然に延びていきました。
瞑想を再開した最初の瞑想では、心身の負担にならないように10分以下で切り上げました。それだけでもずいぶんと気分が良くなり、20分、30分と自然に延びていき、40分くらいする時もありました。
瞑想の回数も、1日に1回から2回、もしくは3回になりました。

しかし1回の瞑想が40分以上や、1日の合計の瞑想時間が1時間半近くまでになると「瞑想疲労」とでも表現できそうな、独特な気味の悪い疲労感が生じるので注意しました。


現在では ありがとたいことに「うつ不安の時の自分って、どんな感じだったっけ?」と忘れつつある状態です。


今の瞑想のやり方は、マインドフルネスでもヴィパッサナーでもなく、この時の体験を基礎としたものです。
無理に集中しようとせずに、リラックスを重視した単純な瞑想です。

そして酷い状況から救い出してくれた瞑想が完全に私の日課になっています。

今回は、通院し服薬するほどのうつや不安が、自分の瞑想が深まるきっかけになったという、少し奇妙な体験の話でした。

↓ ↓ 以下加筆

うつ、不安に関する瞑想のアドバイス

 私は述べてきたように自らの体験から、うつ不安には瞑想が有効である場合が多いのではないかと感じています。
そこで、うつ不安と瞑想について関心をもった読者に向けてのアドバイスをします。


 私がうつ不安になった直接的なキッカケは外部環境のストレスです。
また私自身の内向的、神経質な性格も関わっているのかな、とも感じてます。
なので甲状腺機能や副腎皮質ステロイドなどが関係する うつ ではないので、それらの原因の うつと瞑想の関係は体験上は何も言えません。


 瞑想は適切に行われるならば、ほとんど無害だと思われます。

しかし症状が重い場合や長期に渡る場合、他の疾患も併発している場合、他に統合失調症や解離・離人の傾向があるなどの場合には、精神医療の専門医の指導の上で瞑想を試みるべきだと考えます。

また瞑想の集中が心身の負担になったり、うつ不安感が強まったりすることがあり、その場合には瞑想は適さないかもしれません。


 瞑想にはコツがあります。
しかしこのコツは言語化して他人に伝えるのが難しいものです。

瞑想の書』note でもそのコツについてアドバイスしているのですが、しかしそれでも他人に教わればできるようになるというよりも、自ら瞑想実践して体得するしかないと考えています。

オススメなのが最初の内は定期的に、ある程度安定して瞑想ができる人の傍らで瞑想をすることです。


 注意点は、伝統宗教であれ新興宗教、スピリチュアル、精神世界であれ現代社会に馴染まない宗教的、スピリチュアルな雰囲気が強い人の指導は受けないことです。

禅やテーラワーダ仏教系は、まぁ、宗教のジャンルなのですが、宗教的な指導、雰囲気が抑えられているのならば、大丈夫だと思います。
個人的には禅がお勧めです。

テーラワーダ仏教系の場合にはヴィパッサナー(観)の瞑想が指導されることがあり、これは初心者には難しい場合があります。


禅はヴィパッサナー(観)の要素もありながら、どちらかと言うとサマタ(止)の要素が強いと言われています。
私が日課としている基本的な瞑想はこのnoteで述べてきた、酷いうつ不安の時に症状の急改善につながった瞑想をもとにした方法で、分類的にはサマタであって、禅に近いものです。


瞑想指導者の選び方(具体的に)

 うつ不安症状など何らかの問題を抱えていて、それが理由で瞑想を試す場合には、上述のようにできれば瞑想にも詳しい医療の専門家の助言があった方が良いと思います。

それを踏まえた上で指導者選びのアドバイスをします。


 まず、述べたように宗教やスピリチュアルに偏っていないことです。
特に心身が弱まっている時にこういう偏った人を指導者にしてしまうと、精神世界の沼にはまってしまい、人間性、社会性に傷がつくことがあります。

包容力、親切心があり、うつ不安などの事情に配慮し、初心者への対応にも慣れているのが望ましいです。


 指導者自身が、それなりに安定した瞑想ができることも重要です。
目安としては1時間くらいの瞑想が淡々とできることでしょうか。
説明が難しいのですが、なんとなく肩や胸に力が入った瞑想をする人や、人に見せるための瞑想をする人はベストではないです。


淡々と瞑想ができる人がいいです。


禅に「只管打坐」や「心身脱落」という言葉があります。

これらは座禅の心構えや思想、境地を表す言葉なのですが、同時に座禅以外にも通用する瞑想のコツも表してもいます。

肩肘張って瞑想するために座るのではなくて、座っているのがそのまま禅になっているというか、心身の余計な力が抜けているというか、見るからにそういった状態で淡々と座禅をする人がいます。
こういった人の傍らで学ぶことができたら幸運だと思います。

瞑想のコツは自ら掴むしかないのですが、しかし、淡々と瞑想するその姿勢が初心者に感銘を与え、それ自体で言外の指導になります。


瞑想が良い理由

 私は身をもって うつ不安には瞑想を勧めます。

それなりに安定した瞑想ができるようになると、改善にとって良いだけでなくて再発防止にもなると思います。

では瞑想の何が、うつ、不安に良いのでしょうか?


 瞑想がうつや不安に効果的なのは、ヴィパッサナー(観)によって感覚、感情を冷静・客観的に眺め、それらに距離をおき、さらに認知療法的な効果もあるからだ、と考える人もいます。
こうした考えも間違いとは言えず、正しい点もあると思います。

しかし瞑想の効果効能の根本は、瞑想それ自体だと私は考えています。
瞑想によって生じる意識、心身の状態それ自体に効果効能があるのだと考えています。
私たちの人体には瞑想によって、心身に良い状態が生じるメカニズムがあると考えています。


私はそれを「内なる意識の治癒力」と呼んでいます。
瞑想によってこの内なる意識の治癒力に触れることができると考えています。
これこそが瞑想の効果の根本、源であり、ヴィパッサナー(観)の認知療法的な要素は追加オプションのようなものであると考えています。

この内なる意識の治癒力に触れるには、安定した瞑想に入ることが必要です。
安定した瞑想のための訓練としては、ヴィパッサナーよりもサマタの方が容易であると考えています。

なのでこれから瞑想を始める人は、まずサマタの瞑想から取りかかるのを勧めます。