瞑想による癒やし ―― 内なる意識の治癒力 [ 仏教の成立についても ]
瞑想実践のこだわり
瞑想実践者の中には「ヴィパッサナー至上主義」みたいな人達がいるようです。
そういった人達の中には
「釈迦はサマタでは悟りを得ることができず、ヴィパッサナーで悟りを得た。
サマタは強い集中力で強引に心を停止させる効果しかなくて、瞑想の最中は苦しみを解消し何かを得たと思っても、しょせん一時的な錯覚であり、瞑想を止めてしまえば元の木阿弥だ。
サマタは不完全な瞑想だ。ヴィパッサナーの方が優れている」
といったことを言う人がいます。
私はヴィパッサナーも尊重すべきであるとは思っています。
しかしそれはサマタによる瞑想の基礎があってこそだと思っています。
また後述するようにサマタだけでも得られるものはあると思っていて、心理療法として瞑想をしたり、宗教的な目的があったりといった特別な意図・考えが有る場合以外には、「健康」「アンチエイジング」といったことで気軽に瞑想に関心をもった大部分の人にとってはサマタだけでも良いのではとも思っています。
ヴィパッサナーはサマタに慣れてからでも遅くはないです。
このことについては私の個人的な体験からも言えます。
私の瞑想体験
このnote ↓ ↓ にあるように酷いうつ不安からの回復に瞑想が役立ったと考えています。
トラブルによるストレスがきっかけでうつ不安になり、瞑想後に急快復しました。この時に行ったのは、先に述べたシンプルな基本的な瞑想です。
この時は瞑想する直前まで発作に苦しめられていました。
瞑想によって急速に安定に向かっていったのですが、うつ不安のきっかけとなったストレス自体は、まだありました。
実はこの時期には既にマインドフルネス瞑想のことを知っていたので、あるがままに観察といった瞑想もしてはみたのですが、発作に対しては全く歯が立たなかったのです。
そもそも発作が強い場合には「あるがままに観察」ということ自体が圧倒され蹴散らされるような感じだったので、ヴィパッサナーの瞑想で対応するのは1回か2回試しただけで諦めたと記憶しています。
しかし、ふとインスピレーションがあり、サマタの瞑想をすることで状態が急速に安定に向かいました。
それもうつ不安の原因である外部環境自体には大きな変化がなかったにもかかわらずにです。
これには私自身が驚きました。
「自分の置かれた状況自体には変化がほとんど無いにもかかわらず、瞑想で良くなるって、いったいどうなってんだ?
カウンセリングを受けて抗不安薬を飲んで、さらに自分でもネガティブな考えを止めよう止めようとしても収まらなかったのに、ちょこんと座って瞑想しただけで、精神が安定するって、いったい自分の身に何が起こったんだ?」
本当にワケが分からなかったです。
精神医療の専門家によるカウンセリングは、認知・思考の偏りを矯正する効果があり、心理療法として良いだろうと思っていたし、抗不安薬の場合は神経生理に作用して効果を発揮するというくらいは知っていました。
マインドフルネス瞑想は認知療法的な印象があるので、効果がありそうだと思うことは可能です。
しかしこの時に行ったサマタの瞑想、つまり心を落ち着けて瞑想するだけの瞑想の場合には、その作用機序が全く分からなかったです。
今でも不思議に思うところですが。
「内なる意識の治癒力」仮説?
私が酷いうつ不安の発作の時に瞑想してみようと思ったのは、ふとしたインスピレーションがあり、イメージが湧いてきたからです。
確かに「意識の大海」とか「内なる意識の広大な静けさ」というイメージは大げさに思えますし、宗教やスピリチュアルの印象もあります。
しかしその時は、そのようなイメージに促され瞑想し助けになったのは事実です。
その後もしばしば、うつ不安に襲われました。
しかしそのたびに瞑想すると回復する、といったことが何回も繰り返され、状態は改善傾向を維持しました。
状態が落ち込み、瞑想でまた上向くということを何回も経験する内に、意識それ自体、もしくは「内なる意識」といったものに「治癒力」のようなものがあるのではないか、という考えを強く抱くようになりました。
何の認知療法も受けてなかったし、うつ不安のきっかけとなったストレスある状況も大きな変化がなかったからです。
うつ不安にはマインドフルネス瞑想がすすめられることがあります。
マインドフルネスに瞑想よって、感情・感覚をあるがままに観察したり、受け入れたりといったことに認知・心理療法的な効果があるとされるためでしょう。
私は自らの体験から、現在の瞑想のトレンドにおいては、「観察する」ということが過大評価されているのではないかと考えています。
一方でサマタによって生じる意識状態(内なる意識)それ自体に「治癒力」と言ってよいようなものがあり、これは現在のトレンドにおいては過小評価、もしくは見過ごされているのではないかと考えています。
マインドフルネス瞑想が効果があった場合でも、それは「観察」による認知・心理療法的効果というよりも、瞑想の深まりによって生じた「内なる意識の治癒力」によるものである、もしくはその両方といったことが多いのではないかと思います。
そもそも「内なる意識」とは?
「内なる意識」とか「内なる意識の治癒力」などと言うとスピリチュアルな雰囲気が出てきてしまいますが、しかしもしそのようなものがあるのなら、脳・神経生理的な基盤がしっかりとあると私は考えます。
そしてその基盤は人類の進化によって得たものであると考えます。
進化によってヒトは脳・神経生理は瞑想に向くようになったのだと考えます。
ヒトは瞑想によって「内なる意識」に触れることによって、メリットを得られるような脳・神経生理のメカニズムになっているのだと考えます。
ではどのようにして「内なる意識」からメリットを得られるのか?そもそも「内なる意識」とは何なのか?そのようなものが本当にあるのか?なぜ「内なる意識」というスピリチュアルな表現をつかうのか? ということですが、私にはやはり断定的に述べることは難しく、示唆することしかできません。
私たちが喜びや幸福感、怒り、恐怖といったの感じている時には、それらに対応する脳・神経生理の状態・活動があるはずです。
喜びや幸福感とったポジティブな感情の脳・神経生理は、どちらかというと心身の健康状態に良いものでしょう。
しかし怒りや恐怖といった感情の場合にはどうでしょうか?
長期に渡るものだったり頻繁なものだったりすると、心臓・血管系の健康リスクや心の問題などに結びつく状態にはならないでしょうか。
それと同じようにもし「内なる意識」というものがあるのなら、そのような状態にある時には、やはりそれに対応する脳・神経生理の状態・活動があるはずです。
そしてこのこと自体が「内なる意識」からヒトが生物学的なメリット得る方法を示していると考えます。
私たちが瞑想によって「内なる意識」にアクセスすることによって、そのメリットが得られるのは、そのような意識と脳・神経生理の関係におけるメカニズムによるものであると考えます。
そしてこのような「内なる意識の治癒力」は、遺伝子レベルにまで及ぶことが示唆されています。
瞑想によって免疫や炎症反応などに関連する遺伝子の発現に影響があったり、染色体のテロメアにもポジティブな影響があったりといった研究が報道され周知のものとなっています。
他にもこういったのもあります (2017年の記事ですが)↓ ↓
※エピジェネティクス(wiki 説明)・・・DNAの塩基配列の変化をともなわずに、遺伝子の働き・発現を決める仕組み。
※「遺伝」「エピジェネティクス」「獲得形質」が絡んだ話題はなかなか興味深いものです。さらにこれに「瞑想」まで絡むとなると、瞑想好きの私は興奮してしまいます。
↑ ↑ これは興味深いですね。
これに関しては今後も研究が続くと思いますが「妊娠第二期の妊婦」には限らないのではないのかなぁ~とは思います。
父親の瞑想習慣も子孫に影響があるのではと思います。
後天的な子の健康に関しては、主に妊娠中のメスの栄養状態などの健康状態が重要であり、オスは遺伝情報を提供するだけだという見方がなされることがありますが、しかし実際にはオスの生活習慣もエピジェネティックに子に影響を与えるということを示す研究はあります。
なので「妊娠第二期の妊婦」に限らないのではと思います。
瞑想が脳の構造にも影響、アルツハイマーの予防効果も、という研究もありますが、こういったことにもエピジェネティクスが関わっているのでしょう。
さて話を元に戻すと、そもそも「内なる意識」とは何なのか?そのようなものが本当にあるのか?なぜ「内なる意識」というスピリチュアルな表現をつかうのか? ということでした。
これらについても、やはり客観的にではなくて主観的にしか説明できません。
ここでは瞑想している時に生じる、意識を「内なる意識」と呼んでいます。
うつ不安からの回復に役立った瞑想をしている時に生じた意識と、日常生活を送っている時の意識とでは違いがあると私は感じています。
この点において「内なる意識」というものは「ある」と主張できると私は考えます。
日常生活の意識は、端的に言うと、感覚、認識、意識が自分の外を向き忙しく働いている時の意識です。
一方で日常の喧噪から離れ、瞑想している最中は、外向きの感覚、認識の働きが制限され、それによって意識も外に向かう活動が制限されます。
さらにその状況が続くと瞑想者は、主観的には、意識が内へ向かう、もしくは、内にある意識が現れてくるという感覚が生じてきます。
他には、分かりやすい例で言うと、怒りや憎しみといった状態は、それが私たちの基底状態であるというよりかは、何かがあってそういった状態になるといったものです。
しかし「内なる意識」の場合は瞑想によってそれを体験すると、主観的にはですが、日常の意識によって隠されてはいるけれども、既にあったものだと感じられます。
これらのことから「内なる意識」という表現は適切だと考えます。
「内なる意識」という表現は、あくまで瞑想者の主観的な感覚によるものになります。
神経科学などで客観的に確かめられているものでは、もちろんありません。
しかし、ある程度安定した瞑想ができる瞑想実践者ならば、誰もがこの表現が妥当であると考えるのではと思います。
「内なる意識」は、瞑想の伝統や宗教、神秘主義、ニューソート、スピリチュアルなどにおいて様々に言及されていると思います。
臨死体験者の中にも言及する人がいます。
私個人的にはチベット仏教のニンマ派の最高奥義の修行法である「ゾクチェン(大究竟)」の「リクパ」も、何か関係するのかもなぁと思ったりします。
リクパは「心の本性」「明知」「むき出しの心」などと訳されています。
ゾクチェンの具体的な修行法は謎めいていますが、サマタの瞑想を熱心に行う段階があるだろうと言われています。
ではヴィパッサナーは?
今の瞑想のトレンドにおいては、サマタは見過ごされがちだけれども、価値があるんですよ、と述べてきました。
サマタの瞑想は、意識と脳・神経生理の関係性におけるメカニズムに裏付けがあるもので、決して強い集中力で強引に心を停止させ、一時的な錯覚を生じさせるだけではないんですよ、ということです。
ではヴィパッサナーにはどのように向き合えばいいのでしょうか?
悟りなど縁遠い凡夫である私には、あーだこーだ言う資格など全くない、恐れ多い議題であります。
なので凡夫相応に自らの体験から「こうなんじゃないかなぁ、と私は考えます」というようなことを紹介することしかできません。
前述したように私は、原因となるストレスのある状況に大きな変化がないにも関わらずに、うつ不安から瞑想によって回復したわけです。
気分が落ち込むたびに、瞑想によって「内なる意識の治癒力」に触れて回復するということを繰り返すうちに、ふと思ったことがあるのです。
↑ ↑ このように思ったわけです。
サマタの瞑想によって、精神状態が改善したのは、それは「内なる意識の治癒力」に触れたためだと考えています。
これはヒトが進化によって得た、意識-脳・神経生理のメカニズムによるものであり、生物学的な現象とも言えるかもしれません。
これはこれで大変結構なことなのですが、しかしこれは瞑想の「体験」の範疇に収まるものであって「考察」が無いわけです。
このような観点においては「苦しみを滅する」という仏教の立場からすると、サマタの瞑想は苦しみから逃れるための「精神麻痺」のような状態を作りだすだけで、瞑想を止めてしまえば元の木阿弥だ、という批判が成立しそうな感じもします。
ヒトは進化によって大脳を発達させ、高度な知性、情操を発揮するようになりました。
それゆえに瞑想体験によって「なんだかよく分かんないけど良くなった」だけでは不足するのでしょう。
つまり認知と結びついた意識までにも、瞑想体験の影響を及ぼす必要があると考えることができるのではないでしょうか?
そしてこのことは仏教の言う「智慧」に関わるのではないでしょうか?
私はこのようなことに「気づき、観察、洞察を加える」というヴィパッサナー瞑想の成立があるのではないかと考えています。
そしてこの考え方は、ヴィパッサナーはサマタの基礎があってこそだ、ということも示しているとも考えます。
まぁ、私のような凡夫にはサマタの瞑想だけで足りてるんですけれども。
仏教の成立と瞑想体験
仏教の始祖である釈迦が説いたのは「四諦 八正道」であると言われています。
つまり苦しみに関する四つの真理と、苦しみを滅するための八つの実践です。
釈迦は瞑想の天才であったようで、たちどころにサマタ瞑想の非常に高い段階に達したと伝えられています。
しかしそれでは悟りを得られず、ヴィパッサナーによって悟りを得たと仏教の瞑想の伝統において、しばしば言われています。
釈迦の胸中を探るなどは、凡夫の私には非常に恐縮すべきことでありますが、釈迦はサマタの非常に高い段階に達して、その常人には伺い知ることのできない意識体験あったからこそ、ヴィパッサナーによって悟りを得て四諦 八正道を説くことができたのではないでしょうか。
瞑想の非常に深い意識体験において、洞察を加えて智慧を得るということが仏教の創始になったのではないかと思います。
つまり仏教は「神の啓示」や「信仰」によって成立したのではなくて、釈迦という一人の人間の「苦しみ」と「瞑想体験」と「洞察・思索」によって成立したと私は考えています。
もし釈迦がサマタだけで満足していたら、インドの数ある「思想」や「哲学」「信仰」の一つにとどまっていたかもしれません。
しかしヴィパッサナーによって生じた「智慧」によって仏教となったと言えるのかもしれません。
仏教にはとても論理的なところがあります。チベット仏教ゲルク派の顕教には、特にそのような特徴があるようです。
なおかつユダヤ・キリスト教のように神に対する信仰を説きません。
なので「仏教は宗教ではなくて人生哲学である」と言う人もいます。
そこは私もそういったところはあるのかもなぁ?と思うところですが、しかし論理一辺倒ではないとは思います。
それは述べたように仏教の成立には「瞑想体験」が関わっているからです。
この瞑想体験は、人間の大脳新皮質の働きによって生み出される論理や理知では追究しづらいものです。
仏教の説く「無我(もしくは非我とする説も)」といったものは、大部分の人にとっては分かりづらいです。私もよく分からないです。
さらに「仏教では我(アートマン、魂)を認めないにもかかわらず、輪廻転生を説いている。では輪廻転生の主体は何なんだ?」といったことが問題になっていたりします。
このことに対する仏教論理の回答が複数あるようなのですが、どれも屁理屈や妥協案にしか聞こえないものばかりのようです。
もしくは釈迦の「無記」を持ち出してきて、あとは知らぬ存ぜぬで押し通すしかないようです。
仏教の成立の根本に釈迦の瞑想体験があり、そしてその瞑想体験自体は生物学的なメカニズム、つまり意識-脳・神経生理のメカニズムによるもので、人間の理知によるものではありません。
例えば瞑想によって、何らかの意識体験をしたり、うつ不安が改善しても、それはヒトにはそういったメカニズムがあるからであって、それ自体は宗教、教義、思想、哲学の範疇ではないです。
そのためどうしても仏教には論理では通用しない領域があると考えます。
禅の「不立文字」「教外別伝」という言葉は、まさに瞑想体験尊重を意味するものであると思います。
こういったことは、仏教に限らずインドのその他の宗教、思想、哲学にも言えることでしょう。
中国の老荘思想も瞑想体験によって培われ成立していったという意見もあります。
西洋的な合理精神では、瞑想の伝統のある東洋の思想、宗教を理解するのが難しいとしばしば言われていますが、こういったことに理由があるのでしょう。