瞑想能_note

瞑想本能!?瞑想は本能だと思う!!

私は自分なりの瞑想のやり方で時間が取れる日は、1日合計3時間以上することもあります。

時間が取れないと、1日15分以下とか、全く瞑想できないという日が何日間か続くことがあるのですが、こういった時は何か大切なものが欠けたような気がします。

瞑想は自分の生活の一部というか、自分自身の一部になっており、瞑想するのが本能のようになっています。

瞑想との関わり 瞑想衝動 瞑想は辛いよ


私が瞑想に関わるようになったのは10代前半だったと思います。

小学校5、6年の頃か、中学1、2年の頃か、記憶が定かではないのですが、そこら辺の年頃だったと思います。
その頃、どういうわけだか無性に瞑想したい、瞑想して心の奥深くに沈みこんでみたいという衝動をしばしば経験していたのを覚えています。

宗教熱心な家では全然無かったし、家族、身近な友人知人の中に瞑想をしている人なんて一人もいませんでした。
私も瞑想について知っていることといえば、仏教の禅について、本やテレビなどでチラッと見たことがあるぐらいで、禅自体には関心はありませんでした。

それにも関わらず、瞑想して心の奥深くに沈み込んでみたいという、瞑想衝動というべきものを感じて、自分でもしばしば戸惑ったのを覚えています。

その衝動に従って、瞑想を教えてくれる人もいなかったので、とりあえず禅の真似をして座って目を閉じてみるのですが、まだ若くというか、子どもで落ち着きがなかったこともあり3分もじっとしていられませんでした。

眠くもないのに目を瞑ってじっとしているなんて、いったい何が楽しいんだ?と思って、当時の私には、まるで罰や苦行のよう耐えられませんでした。

今はスマホで調べれば瞑想実践のアドバイスがいろいろと簡単に手に入るし、瞑想のポジティブな効果がNHKのサイエンス系番組などで報道される時代ですが、当時はそんなことがなかった時代です。

メーソー?何ソレ?の時代です。瞑想=宗教or怪しい潜在能力開発セミナーorインドの時代です。


しばしば瞑想衝動を感じ、瞑想しようとするけど辛くて、早ければ数秒で止め、しばらくして瞑想し、そしてすぐに止める、といったことが何回か繰り返されました。
「俺はいったい何をやっているんだろう?」と自問しながら、瞑想衝動に振り回されていました。

どうせ座っても瞑想できないという諦めが生じて、徐々に瞑想しようとしなくなりましたが、瞑想衝動自体は10代後半になっても持ち続けていました。

ちなみにこの頃に歴史か倫理かの授業で、インド思想に梵我一如という思想があるのを知り興味を覚えました。
ブラフマンとアートマンの合一という梵我一如の思想が、私がずっと抱いていた、瞑想して心の奥深くに沈みこんでみたいという衝動と何か関係があるような気がしていたからです。

この頃はカルト宗教の問題が世間を騒がせていた時期ですが、私は微かな瞑想衝動を持ちつつも特に瞑想については何の進歩もありませんでした。

二十歳を過ぎても瞑想衝動がなくならず、しかし、その頃でもじっと座って5分以上瞑想することも満足にできなかったので、試しに気功を習うことにしました。
中国人気功師の教える気功教室に月に2~4回位通いました。また、同じ時期に「TM瞑想」というのも習ってみました。

習っていた気功もTM瞑想も結局は長続きせずに止めてしまったのですが、それらの効果なのでしょうか、座っての瞑想が15分位続くようになりました。

この頃は呼吸に意識を集中して、あとはできるだけリラックスするという単純な瞑想を1回20分以下で1日1~2回していました。
20分以下だったのは、それ以上集中が続かなかったからです。

それが今や20分の瞑想では全然モノ足らなくなり、1日合計の瞑想時間も、時間があれば3、4時間する日もあります。
ここまで来るのにちょっとばかし大変な目にもあったのですが、そういったこともこれからnoteに記していこうと思います。

関連:【瞑想とうつ】酷いうつ、不安の時の瞑想体験。瞑想が続くようになったきっかけ。

瞑想の起源は?誰が始めたの?


瞑想は大昔からあります。紀元前からインドで行われていましたし、中国大陸においても、今では「気功」と呼ばれていますが、瞑想と表現してもよいものが行われていた記録が遺跡発掘などで発見されています。

ところで考えてみると不思議なのですが、いったい誰が何の目的で瞑想なんて始めたのでしょうか?

現在では効果効能が宣伝され、医療関係者のみならず、時代の最先端をいく米国のIT業界や金融業界の関係者からも注目されるようになりました。
しかし、そんなことがなかった大昔の人はいったい何で瞑想なんて始めたのでしょうか?

はたから見るとジッと座っているだけです。大部分の人は数分でもジッとしていることは辛く感じるハズです。脅され強制されるならまだしも、自主的にジッとしているのです。
いったい何を考えているのでしょうか?他の人から見るとタダの変人です。

座ってジッとしていることで何かを得られると考えたのでしょうか?
今の先進諸国のような文明が無くて、飢えや暑さ寒さ、妊娠出産、ちょとしたケガや感染症などが重症化して多くの人が亡くなるような時代状況で、座ってジッとしていることが、少しでも生存に有利にはたらいたのでしょうか?

瞑想は宗教と関連づけられてますが、でも宗教なら、祈り・礼拝、儀式などもっと簡単に思いつきそうなものがあり、実際にそれらが行われていたわけで、なんでジッと座って精神集中なんかが、必要とされたのでしょうか?

そして、仮に、熱心な祈りによって生じた心の静まりや、幻覚成分を含む植物などを用いた儀式による特殊な意識状態が瞑想の起源と考えたとしても、座ってジッとしているといった非生産的な行為がどうして淘汰されなかったのでしょうか?

神々が信じられていた時代なら、祈りや儀式によって神々に訴え、なんらかの利益を得ようとする方が、座ってジッとしていることよりも生産的だと考えるのではないでしょうか?

瞑想の起源は謎に思えます。

瞑想は本能だ!瞑想本能


私は子どものころから瞑想したいという衝動、瞑想衝動を感じていた変な人です。その体験から私は、瞑想というのは遺伝子にも組み込まれた生物学的な本能なのでないかと思うのです。

遺伝子にも組み込まれた生物学的な本能、というのは大げさな表現かもしれませんが、「闘争本能」という表現と同じ程度には「瞑想本能」と言ってもいいのではないかと思うのです。

実際には闘争本能ほどには明確に確認されているわけでもなく、誰もが強く瞑想本能を感じているわけではないと思いますが、しかし、ヒトにとって生物学的にも利点のあるものだからこそ人類に受け継がれてきたのではないかと思うのです。

【 瞑想の効果 】瞑想する人の体験から


瞑想はどういうわけか特に東洋で注目されてきました。
インドでは宗教や思想、哲学において、中国では今現在は気功と呼ばれている養生法として、また道家や儒家といった思想家達や武術家、それに仏教においても瞑想が実践されてきました。
日本においても、禅仏教が武士階級にも受け入れられ実践されてきました。

いろいろな環境において、いろいろな人が、いろいろな理由で瞑想を実践してきました。
しかしヒトにとって生物学的にも利点のあるものだからこそ、本能的にその必要性を感じとり、何らかの理由をつけて今に到るまで実践され伝わってきたのでは、と私は思います。

昔はその利点として説かれ、「なぜ瞑想するのか」という瞑想本能に由来するであろう疑問に応えていたのは、宗教や思想、哲学、修養でした。
しかし、今や科学がそれに代わっている、もしくは、科学もそれに加わっているように思えます。

神経科学、生物学、医学といった分野でも瞑想の研究がなされ、数々の利点が明らかにされつつあります。
ついに人間、ヒトに備わる瞑想本能に科学の光があたるような時代になったのです!

瞑想は本能だ!!と私は思う!

関連:人類の進化と瞑想の起源~人類は瞑想すべき方向へと進化してきた