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オウムの軛 ―― 密教の懸念の一つ。

密教とオウム真理教

オウムと密教の関係は、なかなか厄介な問題です。

しばしば述べてきたように、数々の凄惨な事件を起こしたオウム真理教は間違いなく生命エネルギーの関わる密教の実践団体であったと考えています。

先進国の中にあっては、信じ難いほど大規模なものであったと考えており、かつ、ホントにどうしたわけだか、実践されていた行法は心身への作用という点では、最も「強い」方法のものだったとも考えています。

ヴィム・ホフ・メソッドにあるような呼吸法を、より負担のあるヨーガ的なやり方で何時間もといったことや、それ以上の集中的な、というよりかは狂気な方法が行われていたようです。

宗教学者の中には、オウムには現代の形骸化した宗教が失った「宗教的体験」があったから、偏差値の高い理工系学部に通う頭の良い学生までが惹かれていった、というような内容のことを述べる人もいます。

それは科学的な進歩を遂げた先進国で、形骸化して抜け殻となった時代遅れの宗教には見向きもしなくなった人達が、オウムの修行システムによる「直接的な宗教的体験」によってナマの「宗教性」に触れた、といった意味合いのこともあるようです。

私のオウムに対する思索は、全くもって十分ではありません。

オウムは密教の実践団体であり、凄惨な事件を引き起こしたのは確実だと認識していますが、何が根本にあってあのような凄惨狂気な事態に結び付いたのか、私にはまだよく分からないところが多いです。

オウムのことを考えると密教的な実践や体験によって私も、もしくは誰しもが狂気を帯びる可能性もあるのではという不気味な恐さがあります。

私の根本的な姿勢としては、被害者のことを真っ先に考えるべきということです。
亡くなった方やその遺族、今でも後遺症に苦しむ人、その介護をする近親者、人生を狂わされた人、、、こういった方々のことを考えると、いくらオウムが密教の実践団体であったとしても、その評価につながるようなことは絶対に避けたいと考えています。

関連note ↓ ↓

オウムの軛(くびき)

非常に遺憾なことではありますが、密教について思索を深めると、どうしても、その実践や体験に関してオウムと交差するところがあります。

つまり内丹(仙道)、ヨーガ(マニアックなヨガ)、チベット密教であれ何であれ、生命エネルギーに関する密教には、その実践においてはオウムの修行システムにおける行法を連想するものが含まれ、その体験においては、オウム信者らが体験したようなものが含まれるということです。

オウムはそれらの行法をしていたので、仕方がないことではあります。

例えば「クンダリニー(クンダリーニ)」やしばしば触れている「ナーローの六法(六ヨーガ)」、「(瞑想などによる)歓喜の体験」、「アパーナ気の上昇、アパーナ気とプラーナ気の結合」などを検索すると、しばしば目にするのがオウム関連の情報です。

それらに関するオウム関係でない人による記述は、どこかで聞いたり読んだりした知識を知識として述べているだけだと感じられたり、完全に的外れなスピ系のファンタジーが多いのですが、オウム関連の情報にあるのは体験的な理解がないと書けないような内容もあり、生々しくて気味の悪い説得力を感じることがありました。

「これ書いているのは分かっている人だな。なにやってる人だろう」と思って読み進めると、それはオウム関連だったり、オウム関連が元ネタだったりということに気づくということがしばしばありました。

このnoteでもしばしば目にするヤブユムのイメージもオウムでは(シヴァ大神?グヤサマジャ?として)尊重されていました。

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単刀直入に言うと、密教への関心がオウムの評価につながってしまうのではないか、さらに今後もオウムのような狂気を生み出すことがあるのではないかという懸念が私にはあります。(オウムの軛
これについても残念ながら、まだ私の思索が十分ではありません。


関連note:オウム「タントラ ヴァジラヤーナの救済」


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向社会性の模索

現時点ではまだインスピレーションの段階なのですが、密教の向現実社会性の模索において、また向社会性というものを含めた霊性」の解釈において、このオウムの軛を乗り越えられるのではないかと感じています。

瞑想と同様に密教も、現実を向くべきだと私は考えています。
これに関するのは過去記事にもあります。↓↓

そして向社会性の模索において重要な要素の一つが「愛他性」なのではないかというインスピレーションがあります。


ヨーガやチベット密教の伝統のように、宗教的な境地、目的のための実践もアリだと思います。
しかし一方で、向現実社会的な目的での実践も提唱できるのではないだろうか、と感じているのです。

宗教的伝統においては、実践や体験の解釈などが神秘的な方法で説明されてきました。意識の体験も宗教的に解釈されてきました。

この瞑想する人noteにおいては「生命エネルギーの現象は、人間の意識-脳・神経生理システムにおける創発現象である」としており、神秘的、宗教的な解釈をできるだけ排斥しています。

さらに意識の体験においても「霊性」や「向社会性」、「愛他性」などにおいて解釈できるならば、今までとは違った道が提案できる可能性を感じています。

関連note:ヴァジュラバイラヴァの詩