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金剛大乗についての整理。目的、顕教、密教

この瞑想する人noteで、唯一のスピリチュアルな実践としている金剛大乗(金剛荘厳)についての整理。


文殊菩薩

マガジン:金剛大乗(金剛荘厳)


ちょっと弁解も、、、。




目的

 金剛大乗は、しょせんはありふれたスピリチュアルです。
唯一の真理だとか人の歩むべき道だとか、解脱やモクシャといったことを主張しているわけではありません。


世の中には、精神世界(スピリチュアル、宗教、、、、)に関心をもつような頭のネジがどうにかなってしまっている人達がいます。

私もそのうちの一人なのでしょう。

ただそれだけです。

精神世界に関心のある人の中で、このnoteに縁があった人の探究に、少しくらいは役だってほしいとは思ってもいます。


関連note:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性


本尊(信仰対象)

 本尊、信仰対象としては、まだまだ思索が不十分なのですが、(内なる)霊性(智慧・慈悲)としています。

本尊である霊性の象徴として、文殊菩薩であれ、イエス・キリストであれ、シヴァやクリシュナ、、、、を思い描くのは、各自でご自由にどうぞ、さらに神や霊魂、霊界、霊的な導きなど超自然的・超越的なものを信じるのも、各自でご自由にどうぞです。


関連note:【バクティ】信仰・礼拝の対象について


顕教と密教

 この金剛大乗自体は、とくに真新しい思想でも何でもなくて、既にインドの宗教、思想や、大乗仏教など精神世界によくあるものです。

バクティ・ヨガにもあるし、新約聖書の物語・神話に登場するイエスの言動にも見られるし、エドガー・ケイシーやシルバーバーチなど西洋スピリチュアルやニューソートにもよく見られるありふれたものです。


 仏教の用語を剽窃して用いてますが、仏教ではなくて、やはりしょせんはスピリチュアルです。
どうしたわけだか聖書からの引用文章もありますが、キリスト教をやってるわけでもありません。

私としては仏教というよりも、「非利己的なエゴのない愛」という思想がある分だけ、米欧キリスト教圏のスピリチュアルに近いものはあると感じています。


とりあえず顕教密教があります。


顕教について

 顕教とは、霊性(智慧・慈悲)、四無量心、慈悲、非利己的なエゴのない愛・愛他を、自分自身、自分自身の態度、行動、人生に適用し実践することだとします。


ヴァジュラバイラヴァ

画像引用🔗


仏教の用語を借りると、、、

諸悪莫作 衆善奉行 自浄其意 是諸仏教

七仏通誡偈

、、、というわけです。

参考:七仏通誡偈


またこの実践に役立つ思想、それが仏教であれヨガやウパニシャッドであれ、キリスト教やスピリチュアルであれ、他の思想や哲学や精神世界以外のものであれなんであれ、自分にとって役立つものを学ぶのも顕教、教学とします。


 生起次第というのは、顕教に含まれるものとします。これについてはまだまだ思索が必要とされるでしょう。

例えが下手ですが、、、

自分の人生において最上の価値観を物欲の追求とする人は、この世の中を物欲、物欲の対象と見るでしょう。

しかし、霊性(智慧・慈悲)を尊重する人は、この世の中に霊性の反映、その愛や美や歓喜を見ようとして、霊性に実践と対象と見るでしょう。

、、、と言えるのかもしれません。


菩提心に欠け
自我にとらわれる者には
生起次第は成立しない

生起次第が成立しなければ
究竟次第は成就しない

生起も究竟もなければ
マハームドラーもない

【バクティ】信仰・礼拝の対象について


密教について

 密教とはとりあえすは、生命エネルギーの実践や、本格的な瞑想やリトリート瞑想などによって霊性、「内なる意識」に向き合う実践であるとします。


文殊金剛(グヒヤサマージャ・マンジュヴァジュラ)

画像引用🔗


この定義だと、クンダリニーヨーガは密教だし、ゾクチェン上座部仏教で行われるようなリトリート瞑想も密教に含まれることになってしまいますが。


また密教は、顕教の実践において望ましいものを、意識ー神経生理において体験させ、体現させるものだとも言えるのかもしれません。


関連note:密教(タントラ)の目的。瞑想、ヨガ、クンダリーニ、神秘体験、超人思想、、、?


顕教を重視

 顕教と密教の関係ですが、密教よりも顕教を重視します。

顕教の実践があり、ある程度その実践のポジティブな影響力が、自らの意識、精神的態度、行動、人生観、人間性、神経生理に及んでいる人こそが、密教を本格的に実践すべきと考えます。


 仏教では菩薩行・善行による功徳の蓄積や心の浄化などの思想があります。
一方で、「善行や功徳などによる心の浄化など必要がないし関係も無く、瞑想や密教などによって(一気に)悟ることができる」とする思想もあるようです。

この瞑想する人noteでは、このような「善行や心の浄化など必要ない」とする思想については、よく分からないので扱わないことにします。


 人によっては、または、人生のある期間は、もしくは、ある目的においては密教を重視してもよいこともあるのかもしれません。
しかし、原則として密教よりも顕教を重視します。

これについては思索がまだまだ不十分なのですが、やはり顕教を重視すべきです。


現時点で私の思うところでは、、、

・瞑想や密教の実践、自らの意識、霊性に向き合うということでは、自浄其意、つまり、自らの心を浄化するということが必要だと思われるから。

・自浄其意のためには大部分の人にとっては、密教よりも顕教の方が、確実であり、かつ、安全だと思われるから。
このことは魔境を避けるということでも効果的だと思われるから。

・この瞑想する人noteでの「ラムリム」や「大乗」の模索においても、顕教を重視すべきだと思われるから。

・「歓喜の精神性」という観点から思索しても、やはり、密教よりも顕教を重視すべきだと思われるから。

・密教によって、なにか超越的・神秘的な体験をしたとしても、それがその人の人間性や人生、社会において「善」「創造性」と結びつくものが何もなければ、私は魅力を感じないから。
善や創造性のためには、やはり顕教が重視されるべきだと思われるから。

、、、ということです。


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