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「大乗」について

吉祥豊穣なる文殊霊徳を本尊とする
金剛大乗
に帰依する

霊性によって歓喜と光明が
この地上世界にもたらされるように


BGM: バッハ、カンタータ、BWV1「Wie schön leuchtet der Morgenstern(明けの明星の輝きのなんと美しいことよ)」より

“ あぁ なんと美しい 輝ける明けの明星よ
主の恩寵と真実に満ちる いと甘美なエッサイの根
ヤコブの家から出でし ダビデのひこばえよ
…….”

ちなみにイエス キリストのことを輝く明けの明星とするのは、ヨハネ黙示録にあるようです。(ヨハネ黙示録 22:16。他 参考 イザヤ書 11:1~)


関連note:

今回言いたいことは、、、

・霊性の探究において、瞑想する人noteが指向するのは「大乗」である。

・このnoteにおける大乗とは内的な理解・体験、智慧を、現実的な社会生活に態度・行動によって適用することである。

スピリチュアル、精神世界に興味を持つのはオカルト中二病を発症した10代も多いと思われる。
特にそういった感化されやすい若い人ほど、精神世界への興味関心においては、大乗を尊重すべきである。

 、、、ということです。


太陽は星月に陰らない
大帝は諸侯を仰がない
大乗は小乗に帰依しない



「大乗」について

 「大乗」というのはもちろん仏教用語で、宗教的な衆生救済を尊重するという意味の言葉です。

関連note:弁解 >> 仏教用語について


この瞑想する人noteでも大乗という言葉を用いますが、、

内的な体験・理解、智慧を現実社会にも反映し、行動において日々の生活、社会生活に適用する

 、、といった意味で用いることにします。

関連note:


 瞑想やヨガ、リトリートを利用したものであれ、神経科学的な方法であれ、もしくはクンダリニーとか内丹(仙道)サイケデリクス、臨死体験の人であれ、なんであれ霊性や内的なものを探究する人は、大乗を尊重すべきと強くすすめます。

意識の内部に突っ込んだり神秘体験が生じやすいような実践をする人に対しては、大乗を尊重するように、とくに強くすすめます。


内的な探究と「小乗」と「大乗」の方向性

 様々に表現され説明されているのですが、瞑想などによって内的な探究を繰り返し長期にわたって継続すると、「外的なもの」に対して相対的に「内的なもの」の重要さ・リアリティ感、関心が増してくると言われることがあります。

このようなことに関して「小乗」と「大乗」の分かれ道があるように感じられます。


 内的なもののリアリティが増し、相対的に外的なものが弱まる結果として、外的なものへの意欲を閉じて、もっぱら内的なものへ向かおうとすることがあると思います。
このようなことをこのnoteでは「小乗」「小乗的」と表現します。


 述べたように瞑想する人noteでは大乗を指向します。
どういうことかと言うと、内的なもののリアリティが増し、外的なものが弱まるというのは、つまり相対的に外的なものに対する内的な能力が高まることだというように積極的に評価する道もあるのではないかということです。

いわば「五蘊」の影響力にまどうことなく、霊性、智慧・慈悲を発揮する能力が高まるのではないかという思索です。
自らの内なる霊性を持って、この現実社会を眺め、そこに「霊性の反映する美、愛、歓喜」を見て、それが実際に顕現するように行動するという能力が高まるのではないかということです。金剛荘厳 / 金剛大乗

このような思想と実践が、このnoteにおける「大乗」です。


 まぁ、余計な話ですが、大乗仏教思想のへりくつを都合良くこねくり回せば、このような思想に泊をつけることはできるかもしれません。

精神性を重視する伝統の中でも極端な主張には、「この物理的な世界はしょせんはマーヤー、幻だ。実際には存在しない。内的・超越的な実相のみが真実に存在する」というものがあります。

一方で大乗仏教の「中観」の思想には、、関心のない一般人には難解な屁理屈にしか思えないのですが、、、

森羅万象には自性が無い。つまり「空」である。
因と縁の結合によって、縁起によって、瞬間瞬間、生じ滅しているだけである。

しかし自性が無く空であるからといっても、森羅万象が存在しないというわけではない。
むしろ自性を持たず空であるからこそ、森羅万象は存在する。

、、、、、、という思想があります、意味分かります?

こういった屁理屈に慈悲とか菩提心とかの要素を加えれば、上で述べた「大乗」の思想に仏教的な泊をつけることができるかもしれません。
私はやる気がありませんが。


・ちょっとした懸念

 あとちょっと指摘しておきますが、「内的なもののリアリティが増し、相対的に外的なものが弱まる」ということに関しては副作用的なことも言われています。
心理学・精神医学の領域でも、たとえば「現実的な社会生活への無関心な傾向」「情操の平坦さ」といった観点などから関心をもたれることがあるようです。

ウィリアム・ジェイムズの『宗教的経験の諸相』(岩波文庫)にも、信仰生活の内的な喜びに没頭するあまり、社交が無くなり社会生活が閉じられてしまっているような人についての記述があったと記憶しています。

ちなみにですが顕著な神秘体験・宗教的経験の団体だったと思われるオウム教団に関してですが、富田隆 著『オウム真理教元幹部の手記』(青林堂)には「解離・離人」に関する記述があります。

ただこの副作用的な側面についてですが、気をつけていれば、もしくは、「大乗」の実践を尊重していれば防げるのかどうかについては、私には分からないです。ちょっとばかし懸念があることではあります。

関連note:『魔境』の話① 瞑想・ヨガ・生命エネルギーの実践における魔境


「小乗」の弊害

 たとえば瞑想リトリートなど内的なものに没頭する実践については、これは「小乗的」とも言えますが、実際の実践においては注意・準備すべきことがいろいろとあるにしても、私は否定していません。

他に人生の「後期」にあって、社交を最小限に限定して、内的なものに没頭したまま来るべき時を迎えるというのも、そういうのもあり得るのかもしれません。
文字通り「涅槃」ということです。


 しかし大まかな方向性として、理想として、小乗ばかりを説いて大乗を説かないのは、賢明ではなく弊害もあると考えます。

 まずは上の「・ちょっとした懸念」にあるような副作用が生じやすいように思われます。

 また、実践者の思想・信条しだいでは、「グノーシス主義」の傾向が強固になってしまうということもあるのではないでしょうか。

関連note:「グノーシス主義」と神秘体験(宗教的体験) ―― その問題について


この「グノーシス主義」においても、宗教的な他者救済が説かれることがありますが、しかしこれはこれで厄介なものになりがちです。
グノーシス主義における他者救済というのは、結局のところは、自分の信仰の殻の中に、他者や社会を引きずり込むことであって、破壊的なことになりがちなのではないでしょうか。

これはこのnoteで主張している「大乗」ではありません。


 さらにスピリチュアル、精神世界に関心を持つのは、人生に迷い多感な(疾風怒濤/Sturm und Drang な)時期を生きている10代も多いです。
中二病というやつです。

こういった感化されやすい若い人たちが、小乗ばかりに強く影響されてしまうと、その後の人生が枯れてしまいかねないです。
この文明社会で、内的な生活に没頭するあまり乞食になるというわけにもいかないでしょう。

“ 仏教の僧侶は働かない、無為徒食しているのではないか、ということは、インドでは後世になってもバラモン教徒から発せられた非難であった。……儒学者、日本の国学者も、仏教に対して同様の非難を向けていた。……” p.266 註

ブッダのことば スッタニパータ』 中村元 訳 岩波文庫 1984


 昔、仙道ブームを巻き起こした高藤聡一郎のもとには「仙道修行に没頭したい」などと、10代を含む若い人たちがしばしば訪れたようです。
高藤氏はそういった人たちを「生活はどうするんだ?」「どうやって食べていくんだ?」などと言って追い返していたようです。

まぁ、高藤氏は高藤氏で、神秘的なことを煽りに煽っていたようですが(神秘的なことを強調したのは、仙道本の編集、出版、販売に関する意向もあったようですが)。



 精神的・内的な探究、霊性の探究であったとしても、「外なるもの」への意欲も忘れることなく尊重した方が、実りが大きく豊穣だと思うし、、あと、、、創造的な喜びがあり楽しいと思います。