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卑しい免罪の弁です。

「愛、愛他、慈悲、、」に触れることについて

 しばしばnoteにしてますが、エゴのない愛、愛他利他、慈悲、四無量心、隣人愛に関して述べるのは、本当に口が虚しくなりそうです。

 自分が自己中で卑しい人間だというのは、自覚しているだけでなくて、人からも指摘されるものです。
自分の人間性とは縁遠いテーマについて投稿するのは、つらいことです。

しかしフッとした思いつき・衝動があって、やむにやまれずnoteにしています。この思いつき・衝動が全て悪いです。私のせいではない 、 私は悪くない 、 笑


 ただ、恥知らずに投稿し続けるのには、この瞑想する人noteが役立つ人に届いてほしいという願いもあります。

必要とする人に届いて、思索の材料となって、霊性に関する思想・実践をさらに発展させてもらいたいという願いです。

なので「これは良い思いつきかもな」と感じるものをnoteにするのに、躊躇したくないとも思っています。


 私は小さな頃から「瞑想衝動」みたいな変な衝動があって、その関係で、精神世界の界隈をあれこれ漁ったりしました。スピ系の集まりとか、ヨガ・瞑想会に参加したりしました。

あの頃の右往左往していた自分に、この瞑想する人noteを届けることができたらと思うところです。


 精神世界は人を喰うところがあります。
実際に喰われてしまって、まともな精神、判断力を失ってしまっているかのような人もしばしば見かけました。

あの人たちは今頃はどのように暮らしているのだろう?どういった人生を歩んだのだろう?

今回のコンスピカルト(陰謀論+スピリチュアル)の流行によっても、人生に甚大な被害があった人も、相当にいるのではないでしょうか。


文殊菩薩

 君よ、どうか正しい道を歩みたまえよ。
魑魅魍魎の妄想や陰謀論によって汚染された道ではなく、社会を卑しいものと否定する道でもなく、霊性(スピリチュアリティ)と現実、自分と他者とを包摂する大乗の実践の道を模索したまえよ。



仏教用語について

 この瞑想する人noteで、文殊菩薩、大乗、金剛、智慧・慈悲、四無量心、、、などなど仏教の用語が登場するので、読者に誤解を与えているかもしれません。
このnoteでは仏教をやっているわけではありません。仏教系新興思想でもありません。

文殊菩薩が本尊」などと言っていますが、これはあくまで探究の方向性における大切な象徴としてです。
私には文殊菩薩なる超越的霊的な存在が実在するとは決して信じられません。そういう信仰は苦手です。


 このnoteでやっていることは、しょせんはスピリチュアルであると自認しています。

しばらく前から仏教の用語が気に入って剽窃して用いてますが、ただかっこつけたいだけなのかもしれません。