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金剛荘厳(金剛大乗) / マハームドラー(大印契)

吉祥円満なる文殊霊徳(智慧・慈悲 霊性)の道であり
自利と利他 顕教と密教  生起と究竟とを備え  大印契を最奥義とする
金剛大乗に帰依する

霊性によって  自分と他者と社会に
歓喜と光明がもたらされるように


文殊菩薩


思索・探究の方向性について。

 今のところ他には思いつきません。果たしてこの方向性が適切かどうか。単なる思想やスピリチュアル、信仰の絵空事ではなくて、生物学的にも人間に根ざすものなのかどうか?

思索・探究の方向性が大筋でも定まったのなら、あとは実践あるのみです。
瞑想によって探究し、自らの人生、日々の生活に適用・実践して探究するのみ。

オン ア ラ パ ツァ ナ ディーヒ!
正しい理解が得られますように


マガジン:金剛大乗(金剛荘厳)



金剛荘厳(金剛大乗)

ヴァジュラバイラヴァ
引用元:Pinterest

チベット仏教では文殊菩薩の化身とされるヴァジュラバイラヴァ

甚深広大なるホトケの智慧と慈悲、不退勇猛の決意と実践が忿怒尊として表現されたのかもしれませんね。

ヴァジュラ(金剛)=無明を粉砕する壊れることのないホトケの智慧。密教も意味する。もともとは『リグ・ヴェーダ』の中心的な神インドラの雷電・武器をさすようです。
バイラヴァ=シヴァ神の恐るべき側面(マハー・バイラヴァ)、威力、威徳。


「金剛智の荘厳による大乗の実践」(金剛荘厳、金剛大乗)というのは、人生、生き方に霊性を反映させようということです。
仏教の用語を剽窃し用いていて大げさな表現です、、。大げさすぎてなんとなく胡散臭さがあります、、。

ただ私は「金剛」という言葉には、霊性に関するものでヒトとしての生物学的基盤に根ざすもの、人間の意識ー神経生理において成立するものという意味も込めています。


 霊性というのを自分の人生に反映させようという思想自体は、他にもいろいろとあるので斬新なアイデアでは全くありません。

スピリチュアル、とくに欧米キリスト教圏のスピリチュアル、たとえば有名なシルバー・バーチやエドガー・ケイシーにもあります。
ヨガ系の思想にもありますし、そもそも仏教他の多くの宗教にもあることです。

なので今さらあえて触れるようなものでもないのかもしれません。
私としては他に思索・探究の方向性が思いつかず、また、方向性の明示としてnoteにします。


・荘厳についての思索

“アーナンダよ、ヴェーサーリーは美しい。ウデーナ廟は美しい。ゴータマカ廟は美しい。サッタンバ廟は美しい。バフプッタ廟は美しい。サーランダダ廟は美しい。チャーパーラ廟は美しい。”   『大パリニッバーナ経

Wikipedia:大般涅槃経 (上座部)

“ とどまれよ。汝はあまりにも美しい ”
                    ゲーテ『ファウスト


 荘厳するというのは霊性、霊性に関係する内的な理解や態度を現実世界・社会に適用するということです。
宗教にしばしばある自分の信仰の殻に閉じこもるのではなくて、自らの内なる霊性・内的な理解をもって、この物理的世界、現実社会を眺め、そこに「霊性の反映する美、愛、歓喜を見る」ということです。


 要は、まぁ、「この世をホトケのあらわれ・マンダラと見る」といった大乗仏教の思想、「全ての人の内に神性を見る」「全てはブラフマンである」といったバクティ・ヨガやインドの思想、それに欧米キリスト教圏のスピリチュアルにもフツーに見られるありきたりなものですね。


 細かいことを言うと、これはあくまで主観的態度においてということです。


 たとえば「全ての人の内には炭素がある」という主張は客観的にも通用するものです。

では「全ての人の内には神性がある」というのはどうでしょうか?
これは(今のところは)信仰の主張です。

しかしこういうことを言う人は「実際に神性はあるけど物質性に埋もれて見えないだけだ」として、自分の信仰的視点だけではなくて、信仰を同じくしない他者から見てもそうだという考えをしばしばします。
 つまり、その主張する人にとっては客観的にも通用する事実と違わないものだったりします。


 ここで言う「霊性の反映する美、愛、歓喜を見る」というのは、実際に物質的な世界・社会に霊性が存在するかどうかに関係なく、主観的な態度として、霊性を見ようとする実践として、そのように見るということです。
客観的な事実についての言及ではありません。

そしてこれについても私の一番の関心事は、 生物学的に、人間の意識ー神経生理においてこういった実践・体験は成立するのか? ということです。

精神世界や信仰によくある観念論・絵空事には全然関心がないです。


・大乗の実践についての思索

 霊性の反映する美、愛、歓喜を見ようとすることによって荘厳し、実際に、自分の行動、生活、人生、社会との関わりにそれを適用すること、霊性の美、愛、歓喜が顕現するように行動することが金剛大乗の実践と言えるでしょう。
これは自然な思索の展開だと思います。


 ここでちょっと指摘しておきたいのは、明らかに「霊性の美、愛、歓喜」がないような状況にも、それも一つの霊性のあらわれであるとは見ないということです。

たとえば極端に言うと、犯罪カルテルやギャングが支配していて「悪」、理不尽、搾取、暴力の絶望があるにも関わらずに(実際に海外にはこういった絶望があるのですが)、それを「はかりがたい神の御意志だ。人間の考えで"悪"と決めつけるのは間違ってる」とか「マーヤ(幻想)、リーラ(神の戯れ)だ」として肯定すべきではないということです。

こういった現実無視のアホなことを言う頭のネジが外れきった人がスピ、精神世界にいますが、これは違うと思います。


こういった状況は、「本来ならば霊性の美、愛、歓喜が反映されるべきところに反映されてない」「霊性の光が闇によって埋もれている」などと考えるべきだと思われます。

そして霊性が反映される状況になるように、現実的な努力・対応が必要と考えるのが適切だと思われます。

破邪顕正、霊性を覆う闇を払い無明を粉砕する文殊の智剣ということです。

文殊菩薩


 さらにそもそも、物質の世もそして人間も、しょせん不完全なものであり、霊性があますことなく反映されるということはないでしょう。
このことは、物質的な世界において人間の霊性の発揮する創造性は、やむことがないということも意味するでしょう。

まさに神の永遠のお遊び(リーラ)、霊性の創造性の尽きることのない歓喜というわけです。


以上述べた思想・実践は社会的な活動、改善運動に結びつきやすい性質を持つと言えるでしょう。


生起次第、究竟次第、マハームドラー(大印契)

ヤブユム(歓喜仏):文殊金剛(グヒヤサマージャ・マンジュヴァジュラ)

引用元:チベット仏教普及協会(ポタラ・カレッジ)、2017年春の密教伝授


 チベット仏教には生起次第(キェーリム)、究竟次第(ゾクリム)、マハームドラー(大印契)というのがあります。
これらの用語を剽窃して述べてみます。


生起次第

 チベット密教の瞑想には生起次第という修行法があります。

“ 生起次第とは、簡単にいえば、私たちの世界を構成する森羅万象が、じつは究極の存在であるホトケたちの顕現にほかならないことを感得するための修行である。
 もう少し具体的にいうなら、あらゆる物質世界はホトケたちが参集するマンダラであり、そこに輪廻する生きとし生けるものすべてがマンダラをかたちづくる上で不可欠の聖なる存在、つまりホトケであることを、観相(瞑想)して心身に浸透させることなのである。”

ツルティム・ケサン、正木晃 著『増補 チベット密教』筑摩書房 2008 p.121


 このnoteにおける生起次第というのは、物質世界、現実社会に霊性を反映して見るという荘厳の実践のことです。


究竟次第

 チベット密教の究竟次第というのは、「ツァ(脈管)、ルン(風)、ティクレ(心滴)」を利用する実践です。
つまり生命エネルギーを利用する実践です。


 金剛大乗の実践においては、特に内的体験を通して「智慧」を得るための実践ということでしょう。
生命エネルギー、チャクラ、深い瞑想、リトリートの実践などがあるものです。

関連note:密教(タントラ)の目的。瞑想、ヨガ、クンダリーニ、神秘体験、超人思想、、、?


「霊性の反映する美、愛、歓喜を見る」という荘厳、金剛大乗の実践に適した心身の意識ー神経生理の状態を現出させるということです。


 生命エネルギーやチャクラについてはどうでしょうか?
こういった実践では、高位のチャクラを覚醒させたり、生命エネルギーを上昇させたりするのに、低位チャクラの働きや性欲の節制、禁欲、戒律が説かれています。

 たとえば物質的な世俗・現実社会を軽視する傾向のある精神的伝統において、自然な欲求である性欲は、肉欲淫欲などとされ、しばしば汚らわしいもの「地」や「悪」に縛り付けるものと否定されています。
このようなネガティブな視点が基底にあって禁欲の戒律が行われています。

関連note:「グノーシス主義」と神秘体験(宗教的体験) ―― その問題について


 しかしこのnoteで提案している金剛荘厳による大乗の実践においては、この節制は、現実社会の内に「霊性の美、愛、歓喜」を見ようとするポジティブな創造的な態度をもって生じるべきだと考えています。

つまり「霊性の反映する美、愛、歓喜の前にあっては、低位チャクラと関係の深いとされる欲情・享楽の魅力など色あせてしまうがために」「霊性の反映する美、愛、歓喜を存分に味わうためには、それら享楽はあまりにも粗雑であるがために」といったように「霊性の美、愛、歓喜」を布置して、そのために節制が生じるということです。


このことについても生物学的に、人間の意識ー神経生理においてこういった実践・体験は成立するのか? ということです。


マハームドラー

 マハームドラー(大印契)というのもヨガやチベット仏教にあります。
これには様々な意味があります。

ハタ・ヨガには、マハームドラーという特殊な呼吸法(ムドラー)があります。
チベット仏教で有名なのはカギュー派のマハームドラーです。

↓↓こういった説明もありますが、一般人には何を言ってるのか全然意味が分かりません。


 この瞑想する人noteにおいてはとりあえずは、霊性の道における実践、体験、境地の高い理想をあらわすものとしてマハームドラーという用語を用いています。

霊性の道、金剛大乗において、エゴを失う、もしくは、自らを捧げるという実践、その体験、境地の理想がマハームドラーと言えるのかもしれません。


 また、物理的なこの世界というのは「外なる世界(外なる現実)」であり、一方で私たちの意識というのは「内なる世界(内なる現実)」と言えるものでしょう。
この内と外、内と外に向かう意識において、また、内と外という区別を突き破って、霊性をあますことなく発揮しようとする十全円満な実践・境地こそがマハームドラーとも言えるのかもしれません。

しかしどういったものであれ、高い精神的・霊的な境地について語る資格は私にはありませんが。


最後に確認

 以上、御託を並べていろいろともっともらしいことを述べてきました。

宗教ドグマ・信仰の観念論、絵空事には、私は全く関心がありません。
私が重視するのは繰り返しますが、

ヒトとしての生物学的基盤に根ざすものなのか?
人間の意識ー神経生理において実践・体験が成立するのか?

、ということです。そうでなければ全く意味がないです。砂上の楼閣。蜃気楼。夢幻。虚妄。ファンタジー。
これについては実践を通して体験、理解するしかないと思います。


金剛大乗が、どのような意識の体験や状態をもたらすのか、自分の人生に何をもたらすのかということについても、その適用・実践によって理解するしかないと思われます。


オン ア ラ パ ツァ ナ ディーヒ!



関連note:金剛大乗についての整理。目的、顕教、密教