見出し画像

霊性と智慧と慈悲。水瓶座の時代(アクエリアン・エイジ)?

...…パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて集まってきた。
彼らのなかのひとりの律法学者がイエスを試した。

「先生、律法の中で、どの戒めが最も大切なものですか?」


イエスは言われた。
「『思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛せ』。
これがたいせつな第一の戒めである。
自分を愛するように、汝の隣人を愛せ
これも同様に大切である。

律法全体と預言者が、これら二つの戒めにかかっている」

マタイ福音書22:34ー40

関係ないけどバッハのマタイ受難曲でも。



文殊菩薩


 智慧とか慈悲(エゴのない愛、愛他利他)とかについて思索を述べるときは、「なんでよりによって、これらとはほど遠い自分が、、、?」といつも口が虚しくなるように感じます。

文殊霊徳が、このままでは六道の最悪趣に堕ちかねない卑しい人間である私のことを、その無上広大なる慈悲心ゆえに憐れみ、教え導かんとしているのかもしれません、、、なんちゃって。


 今回のnoteのキーワード
#霊性 #智慧 #慈悲 #智慧と慈悲の結合 #アクエリアンエイジ


関連note


霊性、智慧と慈悲の結合。歓喜尊(ヤブユム)

霊性とはどのようなものとすべきか?」という思索の方向性としては、「智慧慈悲」という路線が良いのではと感じるところです。

 特に「智慧と慈悲の結合」というアイデアは、霊性の要素や境地をあらわすものであり、この瞑想する人noteにおける「大印契(マハームドラー)」へと思索が続いていくものだと感じています。

歓喜尊(ヤブユム)・グヒヤサマージャ(秘密集会)

関連note:【クンダリニーと歓喜仏】 智慧と慈悲の結合  # 思索 # 瞑想 # ヨガ

 ちなみにこの瞑想する人noteでは、歓喜尊(ヤブユム)のイメージは「性的ヨーガ」をすすめるものではもちろんなく、また必ずしも「性的ヨーガ」を示すものですらもないとすることにします。

これは「男女尊交合歓喜仏」で図柄的には性的ヨーガそのまんまですが、「智慧と慈悲の結合」、霊性、霊性の境地の象徴とします。

智慧と慈悲に関しての意識、情動・情操、神経生理の体験を含めたイメージ、とくに密教的な、生命エネルギーの実践におけるそのような体験を含めたイメージとしては、たしかに誤解が生じかねないものではありますが、なかなか適切なものだと思っています。


霊性・智慧・慈悲の関係

 一個人の思索としてですが、智慧と慈悲については、以下のような「思想」を持ちつつあります。


・智慧とは慈悲を成立させるもの。

慈悲とは智慧が適応されるもの。
智慧が人間の意志、精神的態度、行動において実践・適応されるもの。


 内にあっては智慧であり、外にあっては慈悲であり、智慧と慈悲の結合は霊性の要素、一つの境地であり、大印契の思索へ続いていくものというわけです。
あるときは智慧、あるときは慈悲とされるものが霊性ともすることができるかもしれません

これは「思想」ではありますが、人間性に根ざす可能性もあるでしょう。

参考:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性 >> 光明の大マンダラ


ヴァジュラバイラヴァ
引用元:Pinterest

チベット仏教では文殊菩薩の化身とされるヴァジュラバイラヴァ

甚深広大なるホトケの智慧と慈悲、衆生済度せんとする退くことのない勇猛な慈悲が、激しい怒り、忿怒尊として表現されたのかもしれませんね。

ヴァジュラ(金剛)=壊れることのないホトケの智慧。密教も意味する。
バイラヴァ=シヴァ神の恐るべき側面(マハー・バイラヴァ)、威力、威徳。
ちなみに吉祥なる側面の呼び名の一つはシャンカラ。


この「慈悲を成立させる智慧」というのは、大乗仏教思想の「空性、縁起」「全ての人に仏性がある」「全てをホトケのマンダラと見る」といったものに通じると思っています。

またヨガのバクティ思想にも、スピ系の「ワンネス」の思想にもあるものだと思っています。

「自分を愛するように、汝の隣人を愛せよ」というイエス・キリストの言葉、思想にも通じるものだと思われます


「大乗仏教における空性、縁起、智慧、慈悲やヨガ、バクティ、スピリチュアル、キリストの思想などを一緒くたにするのは間違っている」とする反発もあるでしょう。

これについては、この瞑想する人noteの勝手都合があります。

それはつまり、このnoteでは仏教やヒンドゥー・ヨガなどをやってるわけではないし、超越的なものを扱っているわけでもないし、そして、そもそも竹林清談には関心が無いということです。

そもそも、厳密には、このnoteでは大乗仏教の思想やヨガ、ヴェーダーンタ・ウパニシャッド、キリスト教、スピリチュアルなどの思想は同じものだと主張しているわけではないし、普遍宗教の思想を展開したいわけでもないです。

 しかし、それぞれのドグマはどうであれ、実際に自らの霊性に向き合うという実践においては、共通類似する「精神性」があるのではという意見を述べることには、私は興味・意欲があります。


彼岸(超越的なもの)と此岸

超能力、霊的能力など神秘的なことにも触れたことがありますが、しかし基本的には、この瞑想する人noteでは超越的なもの、河の向こう岸、彼岸についての話題はできるだけ避けるようにしています。

向こう岸になにか有るのか無いのか、そもそも向こう岸が実在するのか分かりません。

参考:【大光明マンダラ】内なる意識・霊性(スピリチュアリティ)の探究の方向性 >> 対象とする範囲。内なる霊性へ

なので神との合一、輪廻転生からの解脱、梵我一如、、、、などの宗教的な究極の境地についての話題も避けるようにしています。

超越的な信仰というのは、各自の興味、選択によるものであり、私はそれに干渉しようとは少しも思ってません。


 このnoteでもっぱら関心があるのは、河の向こう側のことではなくて、こちら側(此岸)についてです。


限界

 彼岸については語らずに此岸について語るのなら、霊性(スピリチュアリティ)のことであろうとも、述べたように六道輪廻からの解脱など宗教的な境地を語れません。

私としては智慧、慈悲、智慧と慈悲の結合というのが、此岸における霊性の探究の限界なのではなかろうかと思索しています。

これ以上のことに霊性を求めるのは、彼此を分ける河に足をつけようとすることだし、向こう岸のことになると思われます。
超越的な信仰の領域です。


利験

文殊菩薩

霊性というものを智慧、慈悲とした場合の利験について。

「大光明マンダラ」のnoteで述べたましたが、霊性に関する思想は「人間をより良い人間とし、社会をより良い社会にし、文明を創造する」ものであってほしいと、個人的に願っています。
 智慧、慈悲というのは、このことに貢献しそうです。


 さらに智慧、慈悲といったものは仏教他、様々な宗教、スピリチュアルの伝統で尊重されるものです。
なので此岸にありながら向こう岸をのぞむこともできます。

智慧、慈悲の霊的修養に励むならば、四無量心を養い、善徳を積むことになり、悪趣に赴かずに最高の境地にいたる因となることでしょう、きっと。

これは超越的な信仰を持つ人にも役立つものだと思われます。


カルトの予防にも

 利験としてカルトの予防にもなると言えるでしょう。

いろんな意見がありますが、伝統的なものであれ、宗教にはカルト性が含まれると私は考えています。
宗教にカルト性があるというのは、宗教の歴史を見れば分かるし、そもそも宗教の聖典を読めば誰もが認めるものだと思います。

「宗教は愛や平和を説く!心を豊かにする!宗教は尊重されるべきだ!」などとポカンとしたことを言っている薄っぺらいリベラル教養人ふぜいがビックリするようなことが、聖書他の宗教聖典には実際に書いてあります。

参考:佐倉哲エッセイ集より


宗教の説く愛や平和というのは、その宗教の説く愛や平和のことであって、それ以外の人たちの考える愛や平和ではなかったりします。


 智慧と慈悲をもって霊性、内なる霊性を探究するというのは、現代の文明、科学、社会良識を否定するものではないです。

「神が紀元前5000年頃に地球や人類を創造したと聖典に書いてある。地球は平面だとも書いてある。今の科学は間違っている。サタンの仕業だ」みたいなものではないです。

なので、カルトを形成しづらい要素があると言えるでしょう。
でもまぁ結局は、智慧、慈悲、霊性の探究をどう定義してどう実践するのかにもよるのかもしれませんが、。


水瓶座(アクエリアス)の時代?

 余談ですが、今まで述べてきた霊性に関する思索は、「水瓶座時代(アクエリアン・エイジ)」がどーのこーの言っている占星術系スピ?の人たちにも受け入れられやすいのではないでしょうか?

私は水瓶座(アクエリアス)の時代なるものは、うさんくさいし、詳しくないし、そもそも関心もないのですが、これは宗教と科学、精神性と物質的なものが手を取り合う時代であるなどと言ってる人がいるようです。

 もしそういうことがあるにしても私は、宗教と科学が手を取り合うのは絶望的だと考えています。
宗教はもう駄目だと思っています。末法の世です。
人々が堕落して宗教を信じなくなったからではなくて、宗教がもはや時代に合わなくなったから末法の世です。「白く塗った墓」。

しかし、霊性と科学が手を取り合って文明を築いていくというのは ――人間の内に霊性といったものが実際にあるとするのなら―― あり得るのかもしれませんね。


新しい革袋には新しいぶどう酒を。