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密教(タントラ)における左密について。性的ヨーガ批判「性的ヨーガの顛倒」

 なかなか厄介な問題です。密教タントラ)と「性」との関連です。ズバリ言うと、人体の脳・神経生理においても、密教と性には関係があり、そのために左密(性的ヨーガ)が見いだされるに到ったと考えています。


 性というは生物、人間にとして関わらざると得ないものであり、生物の進化や存続といったことから、人間社会や個々人の心理・行動に到るまで、そのあり方に強い影響力のあるものです。

誰もが認めるものでありながら、非常にプライベードなものであります。人間の種々の活動の中でも(特に オス 諸子の場合には)「俗」のなかの「俗」、「下」の中の「下」とも言え、不適切な関わりがあると個人の人間性を毀損するばかりでなく、世間を騒すものにもなります。

そのようなものが、宗教など精神的伝統において実践されてきた瞑想に利用されるなどとは普通は考えられません。
しかし聞くと「いったい、どういうわけだ?」と胸騒ぎがしてきそうですが、この性が後期密教(チベット密教)などにおいて、実際に利用されてきたのです。


 この「瞑想する人」note では密教(タントラ)の話題を扱っています。さらにこの密教は、仏教なら後期密教(チベット密教)に相当すると宣言しています。
それならば この「瞑想する人」の方針を明確にするためにも、「密教と性」について触れなければならないと感じました。

さらに、昨今の特に先進諸国の瞑想ブームは簡単には止みそうにありません。
そうなると、偶発的な密教的体験、生命エネルギーの体験の報告がしばしば見られるようになってくるのではと考えています(実際に偶発的なものがあるため)。そして密教に対する興味が生じてくるかもしれません。

密教について① 起源と問題点


 そのような場合には、「性」との関連や、性的ヨーガへの言及がなされるようになる可能性を感じています。これは「可能性」というよりかは、むしろリスクがともなうことであると考えています。
そのようなリスクに対して、今のうちから釘を刺しておきたいという意図もあります。

「瞑想する人」note の用語解説:「密教」「左密」「純密」「生命エネルギー」など

参考・引用文献

(*1) ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『増補 チベット密教』筑摩書房 2008

チベット仏教・密教の概説。性的ヨーガについても。


(*2) アンドリュー ニューバーグ 、ユージーン ダギリ 他著 茂木健一郎 監訳
脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 PHP 2003

神経学の立場から、超越体験など宗教的体験を考察。


楽天ROOM:【本】瞑想・ヨガ・気功・呼吸法・密教・思想など


チベット密教とのおかしな因縁? ダライ・ラマ法王の夢

 たしか2年前の冬だったと思いますが、ダライ・ラマ14世が登場する夢を見たことがあります。

私は暗い空間の中にいました。いつもの赤と黄の法衣をまとったダライ・ラマ14世が一人ポウッと現れ近づいてきました。
会話は一言も無かったと思います。しかし画像検索するとよく目にする、あのチャーミングな笑顔で、私に片方の手のひらにのるサイズの、非常に綺麗にキラキラと輝く紫水晶を手渡してきました。

明晰夢では無かったハズですが、とても鮮やかな夢で、特に紫水晶のキラキラした綺麗な輝きは目が覚めても印象に残っていました。

【 明晰夢の見方 】 無意識から創造性を得る夢見のヒント


 一方で違和感も覚えました。というのは、その頃、ダライ・ラマ法王に強い関心を持っているわけではありませんでした。

またチベット仏教にも多少は関心があり、神秘や奥深さを感じていたとはいえ、どちらかというとそれは、難解で不気味で世俗離れしたものと考えていました(ダライ・ラマ法王やチベット仏教に対しては今も似たようなものなのですが)。

なのでその頃、ダライ・ラマ法王が夢に出てくるのは、完全に不意打ちでした。
しかし今思い出すと、こじつけだと思われるかもしれませんが、因縁を感じます。

というのは私は密教の実践においては、左密(左道密教、性的ヨーガに強く批判的なのですが、ダライ・ラマ法王が属する、チベット仏教各派の中でもっとも顕教重視・戒律堅固だとされるゲルク派を創始したツォンカパは、性的ヨーガの問題に格闘したと伝えられるからです。

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チベット密教 ―― 性的ヨーガの流行と事実上の禁止

 性的ヨーガは「ただの象徴である」「観想のみで行われた」「瞑想中に見えるヴィジョンである」とする意見もたまに見かけますが、実際に生身を持つ男女の交わりとして行われたようです。


 仏教は執着・煩悩を断ち悟りを得るために修行するわけですが、そのために特に出家者には不淫戒という戒律が設けられました。
それにも関わらず、普通なら破戒行為と考えられるような性を利用する方法が、後期密教において性的ヨーガとして実践されるようになり、それが高く評価され かなり流行ったようです。

戒律への対応としては「性的ヨーガのパートナーは、勝義諦(仏教の真理)においては、そもそも空であり幻のようなものなのだから、破戒にはあたらない」などと屁理屈がこねくり回されたようです。


もちろんこれによって堕落した人も多いと言われています。

“ モンゴル帝国の宗教的権威であったサキャ派にも、性的ヨーガの実践者として活躍した者と、禁欲を貫いた者の、二つのいきかたがあったが、一部の僧侶は宮廷内に性的ヨーガを持ち込み、結果的にその荒廃を招いて、帝国没落の一因となったとも指摘されている。”(*1,p.161)


 ツォンカパは、この性的ヨーガの心身への密教的な作用自体は認めるも、性的ヨーガの安易な実践に歯止めをかけ、実践のためのハードルを非常に高く設定することによって、事実上、従うもののほとんどが、(観想法など一部を除いて、生身では)実践できないようにしたと言われてます。

“ ツォンカパによれば、究竟次第の根幹をなす性的ヨーガは、性欲を完全に滅却したのち、はじめて行じるべきものであった。ツォンカパ自身は、すでにその段階に到達していたが、未熟な弟子たちが、師にならうあまり、性的ヨーガを行じて、堕地獄の危険を犯すことを懸念して、生前は行じなかった。”(*1,p.93)


なぜ左密(性的ヨーガ)が用いられるのか?―― 人体の生命エネルギーの起源

 チベット密教以外でも左密(性的ヨーガ)はあります。ヒンドゥー教、ヨーガにもあります。

“ …… 無上ヨーガタントラ段階の密教を、仏教は最上層に属す僧侶たちも、戒律との矛盾に苦しみながらも、受容しようと試みたが、ヒンドゥー教のなかで性行為を修行に導入したのは下層の宗教者のみにとどまり、中上層に属す人々は頑強に拒否した。この相違は、仏教とヒンドゥー教を考えるうえで、じつに興味深い。”(*1,p.36)    ※無上ヨーガタントラは後期密教に同じ。

中国の内丹、仙道にもあります。今日では房中術と言われることが多いです。栽接法や男女双修法などとも呼ばれています。


インド、チベット、中国という奥深い瞑想の伝統において、左密が実践されてきました。
でもなぜこの物議を醸すようなものが実践されることになったのでしょうか?


 チベット密教、内丹(仙道)、奥深いヨーガ、これらをこの「瞑想する人」note では密教に相当するとしています。そして密教を以下のようなものとしています。↓↓

“ 瞑想を「内なる意識」との接触・交流であるとしています。
この瞑想の実践の内で、人間の意識-脳・神経生理システムにおける「生命エネルギー(の現象・活動)」を利用するのを、この「瞑想する人」note では密教(タントラ)と呼んでいます。”   用語解説:「密教(タントラ)

 密教の生命エネルギーの体験に、左密が作用するのです。
この生命エネルギーの体験というのは、チベット密教ならルン(風)ツンモ(トゥモ、ツモ、霊的な火)、ヨーガならクンダリニー(クンダリーニ)に関する体験などに相当するものです。

「性」の要素を用いると、ある場合には、もしくは、実践者の実践レベルや素質によっては、生命エネルギーの活動に効率的に作用することがあるのです。

私は左密には批判的ですが、この点については否定しません。


でもなぜ、左密が作用するのでしょうか?

それは人間の意識―脳・神経生理システムがそうなっているからだと考えます。
特に人体の性・生殖に関する脳・神経生理システムが、この密教の生命エネルギーの重要な起源の一つだと考えています。


左密によって、この人体のシステムを効率的に利用できる場合もあるのだろうと考えています。


密教の生命エネルギーと、人体の神経生理システムの関係を示すエビデンスのある知見はもちろんありません。

しかし十分に根拠のある主張とは言えないのかもしれませんが、宗教的体験と人体の性・生殖の神経生理システムの関係については、神経学者によって興味深い考察が示されたことがあります。

“ それでは、超越体験のための神経学的機構は、どんな機構に由来しているのだろうか?われわれは、それは、交尾やセックスに関する神経回路から進化してきたと考えている。”(*2, p.186)

“ 何よりも、神秘家たちがみずからの体験を表現するために選んだ「至福」「恍惚」「エクスタシー」「高揚」などの言葉が、この起源を暗示している。「この上ない一体感に我を忘れた」……などという彼らの証言が、性的な快感を表現する言葉でもあることは、偶然の一致ではないし、意外でもない。
なぜなら、超越体験に関与する興奮系、抑制系、大脳辺縁系などの神経学的構造や経路は、基本的に、性的な絶頂と強烈なオルガスムの感覚とを結びつけるために進化してきたものであるからだ。”(* 同上)

“ 超越体験のための神経学的機構 ” は “ 交尾やセックスに関する神経回路から進化してきた ”(* 同上) という考察のように、私は、生命エネルギーの起源の一つが、性・生殖に関する神経生理システムであり、そして、人体に生命エネルギーの活動が見られる際には、その生理システムにおいても何らかの活動が見られるだろうと考えています。

これはつまり、その生理システムに働きかけることができれば、生命エネルギーの活動にも作用することができることを示しています。

この生理システムは そもそも性・生殖に関するものなのだから、「性」が用いられることになるわけです。
これが左密(性的ヨーガ)の根拠を示しています。

関連note:「性エネルギー」について ↓ ↓


左密批判と その根底にある考え

 私は左密を外道、外法であると批判しており、ある種の様式に対しては強烈な嫌悪を表明します。

しかし左密の全てを批判しているわけではありません。

私は、左密は人体の生命エネルギーに関する神経生理システムに作用するものである という考えについては否定も批判もしていません。


また交際、夫婦といった正式なパートナー同士による、良識・公序に反しない実践については、糾弾すべきようなものばかりではないと思います。
これに関しては「お好きにどうぞ」と言えばよいだけで、他人様がとやかく言う必要もないと考えています。そもそもプライベートなものですからね。

しかしこの場合でも、密教(純密)に対する ある程度の理解と実践がないと、実際の成果を上げるのは非常に困難だと思います。


 さらに念を押しておきたいことは、私は「性は汚らわしい」「肉欲によって魂を堕落させる」「宗教的な戒律に反する」から、左密を批判しているわけでは決してないです。
こんな蒙い宗教ドグマを振りかざして批判していません。


私が批判し、嫌悪を抱くのは次のようなものです。

①. 左密に対する誤解

②. 左密の安易な許容

③. 左密の過大評価

この左密批判の根底にあるのは次の考えです。

ただでさえ密教それ自体に異様なものがあるのだから、それに性も加わると容易に狂騒、狂乱、カルトを招くことになりやすい。
左密に対する適切な理解と警戒によって、倫理的にも歯止めをかけるべきである。


左密に対する誤解 への批判 ―― 巷に言う「タントラ」など

 まず、このnoteにおいては、密教は人体の神経生理の生命エネルギーに関する実践と定義されているのだから、この定義に外れるものは密教ではなく、よって左密でもないです。


 性的儀礼のある まじない密教や「セックス・カルト」は、もちろん左密ではありません。ただのカルトです。
どうやらチベット密教にも、酷い迷信のまじないとしか思えない性的儀礼の記録があるようなのですが、私は、そういったものまでを密教(左密)としているわけではありません。


 ネットで「タントラ(性タントラ)」で検索すると、いろいろと出てくる変なものも、密教でも左密でもないです。
あぁいったものは「タントラ セックス、タントラ ヨガ」なんて奇妙な名称で呼ばれることがあるようですが、左密ではないです。

あぁいったのは例えば「スローセックス」や「ポリネシアンセックス」などと同じようなもので性の戯れです。

要はスピリチュアルにかぶれた、ただの性の戯れです。
それなら戯れとしてやっていれば良いのであって、左密ではないです。


 また左密は「性の解放」のための実践ではないです。そのようなものは思想運動としてやれば良いのであって、このnoteにおける左密とは関係ないです。


 また「自らの内にある女性性と男性性、男性原理と女性原理の結合」なんかの実践でもないです。左密は、人体の生命エネルギーに関する神経生理に作用する実践であって、「男性性」「女性性」がどーのこーののスピリチュアル、エセ心理学の思想的実践ではないです。


 また、そもそも左密は欲望の肯定のためにあるわけではないと考えます。欲望の肯定では左密の実践は難しいです。


 とても重要なことなのですが「性の快楽」を思想的に解釈して昇華するものではないです。

“ 大乗仏教にとって最も重要なコンセプトは、「空性」である。その「空性」を性の快楽として把握する見解が登場したのだ。それを「大楽思想」という ”(*1, p.35)。

“ 性の快楽として把握する見解 ”(*1, p.35) という記述はかなり誤解を招きやすい表現だと考えています。

密教によって生じる歓喜は、確かに性を連想するものだとは言えますが、「性の快楽」それ自体ではないです。思想や見解の解釈でどうにかするものではないです。

また人体にはいくつか「チャクラ」なるエネルギーセンターがあるとして、下位のチャクラの生命エネルギーを上位のチャクラへ上昇・昇華させるなどということも主張されます。
(このような生命エネルギーの活動を起こすために、ヴィム・ホフ・メソッドにある呼吸法のような特殊な方法がヨーガでは実践されることがあります)
チャクラについてのnote ↓ ↓

しかし巷の性タントラ関連などでのチャクラや生命エネルギーに関しての説明は、浅くて頓珍漢な知識によるもので実際性があるものはほとんどなく、ほぼ全てがいい加減なスピ系のポエム、ファンタジーであると捉えています。


 今あげた一連のこれらに関しては、ネットで調べたところによると「ネオ タントラ」という奇妙な名前で呼ばれることがあるようです。
ネオ タントラで調べると、目につく有名人は超俗的なグル、ラジニーシ(Osho)です。

私はwikiの説明を読んでも、彼の一体どこに宗教的な威厳があるのか、全く分からないのですが、精神世界では結構好きな人も多いようです。

一応は 彼の著書を読もうとしたこともあるのですが、分厚い本である上に、精神主義的な内容が延々と続いていて、具体的に何が書かれているのか分からず、立ち読みだったこともあり、辛くなってすぐに書棚に戻しました。

彼はホントに超俗的で、数十台ものロールスロイスを所有するほど超俗的だったようです。面白いですね。


左密の安易な許容 への批判

 左密は、性が用いられているために、もちろんのことながら良識・公序によって制限されなければなりません。

“ モンゴル帝国の宗教的権威であったサキャ派にも、性的ヨーガの実践者として活躍した者と、禁欲を貫いた者の、二つのいきかたがあったが、一部の僧侶は宮廷内に性的ヨーガを持ち込み、結果的にその荒廃を招いて、帝国没落の一因となったとも指摘されている。”(*1,p.161)


瞑想に関心のある人の中には、「宗教的真理の探究」などといったものやスピリチュアルに熱心な人もいて、そういった人達は、頭のネジが外れやすいので、気をつけなければなりません。
(ちなみに言うと、笑い話ではないのですが、密教の実践・体験自体も頭のネジを外れやすくします。これは密教実践のリスクに関することです。)

宗教的真理や勝義諦などといったものは、現実社会の良識・公序逸脱の免罪符にはなりません。


 また上の 「左密に対する誤解 への批判」で述べましたが、私は左密は欲望の肯定のための実践ではないと考えています。

左密(房中術、性的ヨーガ)は、性に対する規制のある修行伝統において、自然な欲望を肯定する道である、という意見が内丹(仙道)や、チベット密教関連の情報の中に見受けられます。

不淫戒」がある仏教の 後期密教においては「空性にあっては全ては清浄であり、人間の欲望もそうだ。勝義諦に立脚すれば、そもそも破戒にはあたらない」などの主張で欲望を肯定し、性的ヨーガを許容しようとし、実際に実践されました。

参考文献にも様々な記述があります。

“ また、「聖なるもの」は「俗なるもの」と不可分の関係にあり、「聖なるもの」と「俗なるもの」とは逆転しうる、さらには「俗なるもの」の極みにこそ「聖なるもの」が顕現するという見解も、「空性」をめぐる考察から登場した。”(*1, p.35)

“ 考えてみれば、「空性」を快楽として把握することと、「聖なるもの」は「俗なるもの」と不可分の関係にあるとみなすことは、相通じている。両者を総合すれば、「聖なるもの」の極みとしての「空性」は、「俗なるもの」の極みとしての性の快楽によって、把握できるという、いわば霊的方程式がみちびきだされるからだ。 ”(*1, pp.35-36)。

“ かくて、性行為という、人間にとっていちばん根源的であり、誰しも避けてはとおれないものであるにもかかわらず、いやそれゆえにこそ、世界中のあらゆる宗教が忌避してきたもの。誰の目にも、俗の中の俗と映る行為。それのみが、人間を、わけても末世の人間を解脱という聖の極みへと、いわばジャンプ・アップさせる唯一の方途なのだと後期密教経典は説き、……。この段階に達した密教を、前述のように、チベットの大学僧プトゥンは「無上ヨーガタントラ」に類別し、一方私たちは後期密教とよぶ。”(*1, p.36)。

これらはかなり誤解を招きやすい表現です。
これらは戒律との相克や、大乗思想の中に芽生えた独自の思想といった仏教の都合によるものです。

私の知ったことではありませんし、左密の適切な理解のために皆が敬意をはらうべき思想でもありません。

“ 「聖なるもの」の極みとしての「空性」は、「俗なるもの」の極みとしての性の快楽によって、把握できるという、いわば霊的方程式がみちびきだされる”(*1, pp.35-36) という仏教思想による理屈は、左密の許容のための根拠にはならないです。

というのは、そもそも密教によって生じる歓喜は、たとえそれが性を用いた左密によるものであろうとも、「性の快楽」それ自体ではないからです。それとは異質のものです。

なので初めから「霊的方程式」なるもの自体が成立しないです。


 密教というのは、人体の神経生理システムに働きかける実践であって、本来ならば神経科学によって研究されるべきものであると考えます。
性の快楽を思想的に解釈したり、仏教思想の都合を大義名分として、許容するようなものではないです。


「不淫戒」がある伝統から見ると、左密には性が導入されているため、その分だけは欲望の肯定と映ります。ただそれだけのことです。

さらにこの欲望の肯定というのは、現代の一般的な意味における肯定ではないです。
不淫戒などない現代一般社会において「左密は性の欲望を肯定する」などと解釈すると、「良識・公序の逸脱を肯定するものである」という誤解・カルトが生じかねないです。

そもそも終始 欲望の肯定では、左密の実践は難しいです。
というのはこの実践においては「性の高ぶりを生命エネルギーに転換する」とでも表現できるような作業が必要であり、その過程で性欲(淫楽)の制御がなければ、ただの性欲として、「性の快楽」として果てるだけだからです。
これでは単なる性行為です。

現実的には大部分の人にとって、純密の ある程度の実践がないと、左密によって何らかの成果をあげるは非常に難しいです。この難しさについてはチベット密教やヒンドゥー、ヨーガの情報にも、仙道の高藤聡一郎氏の書籍にも言及があります。
安易に手を出すと 道を外れやすいです。

左密は性を導入しているため、一部の人にはとても魅力的に映るようですが、安易な許容は忌むべきと考えます。


左密の過大評価 への批判

 一部に左密に対しての過大評価があるように、私は感じています。特にチベット密教系の情報に、そのような過大評価がしばしば見られるように感じます。

つまり「純密よりも左密は強烈な効果があり、純密だけでは到達するのが非常に難しい境地に、左密なら到達することができる」とする高い評価です。
こういった見解に対しては、私は十分な考察がかなり不足しています。

ひょっとすると、この見解は正しいのかもしれません。左密によってでしか到達できないような高い境地があるのかもしれません。
もしそうなら、左密への高い評価と賞賛は筋が通ることになるでしょう。

しかし私は現時点では、このような一部に見られる、純密よりも左密を高く評価するのは間違った見解であり、顛倒した理解によるものであり、かつ迷信だと考えています。


 ヒンドゥー教系の修行や、ヨーガにも左密はありますが、高く評価するのは、いわゆる「異端」のようです。

“ …… 無上ヨーガタントラ段階の密教を、仏教は最上層に属す僧侶たちも、戒律との矛盾に苦しみながらも、受容しようと試みたが、ヒンドゥー教のなかで性行為を修行に導入したのは下層の宗教者のみにとどまり、中上層に属す人々は頑強に拒否した。この相違は、仏教とヒンドゥー教を考えるうえで、じつに興味深い。”(*1,p.36)


 内丹(仙道)にも左密(房中術)はあります。内丹における左密の見解は、様々なものがあるようです。
これを高く評価する見解もあります。

しかし一方で「左密は劣った方法であり、上根利器(修行の素質に優れていること)の者は、やらない方が良い」とか「左密は加齢などによる衰えがある人以外には必要ない」などの意見があります。

他に面白いのでは「神交法」というのも左密に含まれているのです。
これは着衣のままで、実際の交わりをともなわず、交わるイメージすらもせず、「気」もしくは「神(意識)」の交流による方法とされ、この神交法が左密の最も高い段階だ、という見解があるのです。


このように左密の実践のある伝統においても、必ずしも高い評価を与えるものばかりではないし、またその左密自体にも様々な意見・様式があるわけです。


 しかしチベット密教(後期密教)においては、左密を高く評価する見解が、よく見られるように感じます。

 チベット仏教の顕教・戒律重視のゲルク派の創始者であるツォンカパは性的ヨーガを “ 生前は行じなかった”(*1,p.93) ようです。
しかしこれには続きがあって、“ 中有の状態で明妃(性的パートナー)を顕現させて性的ヨーガを行じ、「光明」の境地を得て、ついに解脱を遂げた”(*1,p.93) という伝承があるのです。

普通の人間には、死後の「中有」という特殊な状態で性的ヨーガを行った、というのは意味の分からない話です。
しかしここで注目したいのは、そういったものが本当にあるのか といったことではなくて、性的ヨーガを事実上禁止した本人であるツォンカパにまつわる伝承においても、性的ヨーガが高く評価されているのです。


この伝承は、天才ぶりが伝えられているツォンカパほどの人物でも、生前の性的ヨーガ無しの修行では到達できなかったような境地に、中有での修行で、それも性的ヨーガを行って、やっと到達できたということだからです。
とにかく高い評価が与えられているのです。

他にも(一部の観想法などを除いて)事実上、性的ヨーガが禁止された後には、高い境地に到る修行者が減ったとか、戒律の厳しいゲルク派を離脱して、他の宗派で性的ヨーガを行い、高い境地に達する者がいた、などのことが言われています。

チベット密教など一部においては、実際に性的ヨーガ(左密)への高い評価もあったようです。


その必要性に対する見解

 参考文献『増補 チベット密教』では、性的ヨーガの必要性は、次の2点に集約されています。

“ ①女性のもつ生命エネルギーによって、修行者の生命活動を活性化するため。
②究極の把握対象である「空性」を体得するため。”(*1,p.155)

②の「空性」を体得するため についてはさらに記述があります。

“ ........... ②の点に関してつけ加えれば、「空性」のヴィジョンは本当は人間が死ぬときにあらわれるという認識が前提になっている。つまり、男女の性行為がはらむであろう「死の先取り」が、性行為による「空性」のヴィジョン体験を背後でささえていることになる。 しかも、「空性」の把握はたとえようのない快楽がともなうといい、「空性」は同時に「歓喜」でもあるとされるので、ここでは当然ながら、性行為の快楽がキーワードになってくる。”(*1,p.155)

この説明は強引であるように思われます。

まず“ 男女の性行為がはらむであろう「死の先取り」”というものの具体的な説明が本書のどこにも欠けており、それが“「空性」のヴィジョン体験 ” にどのように関わるのかがよく分かりません。    

また“「空性」は同時に「歓喜」でもあるとされるので、...... 性行為の快楽がキーワードになってくる ” というのも、これは仏教思想の都合による解釈であり、また密教によって生じる歓喜と性の快楽の混同によるものです。

これだけでは性的ヨーガを純密よりも高く評価する根拠にはなりません。
また密教による歓喜の発生には、性的ヨーガが必須というわけではなくて、純密によっても生じます。

例えば、内丹(仙道)の、房中術(左密)を用いない実践においても、(基本的には小周天よりも高い段階とされますが、)この歓喜の体験があります(もちろん仏教思想とは別の解釈がなされています)。


 そもそも密教による特殊な体験、生命エネルギーの体験があるのは、人体にそのような体験を可能にする脳・神経生理システムがあるからです。

仏教思想の都合や、法力によって、そのような体験が生じるわけではありません。
むしろ、人体の脳・神経生理システムによる体験を、仏教側が自分達流に解釈した、というものです。

“ それでは、超越体験のための神経学的機構は、どんな機構に由来しているのだろうか?われわれは、それは、交尾やセックスに関する神経回路から進化してきたと考えている。”(*2, p.186)

“ ...... 超越体験に関与する興奮系、抑制系、大脳辺縁系などの神経学的構造や経路は、基本的に、性的な絶頂と強烈なオルガスムの感覚とを結びつけるために進化してきたものであるからだ。”(* 同上)

“ …… 神秘的合一と性的恍惚とは、よく似た神経経路を利用していると言えるのだが、だからと言って、両者が同じ経験であるということにはならない。実際、神経学的に見て、両者の違いはかなり大きい。 ”(* 同上)

思想や見解といったもので、性的ヨーガを高く評価するのは、顛倒した理解によるものだと考えます。


 さて、性的ヨーガが重視されるのは “ ①女性のもつ生命エネルギーによって、修行者の生命活動を活性化するため”(*1,p.155) ということについては、論じるのはなかなか難しいと思います。

というのは、この主張は生命エネルギーが「実在」し、自分の生命エネルギーが他者にも影響を与えることができるとする「生命エネルギーの交流」とも言うべき、科学的検証の未だされていないことが前提になっているように思われるからです。


「気」の交流?

 「生命エネルギーの交流」なるものは、特に気功においては、頻繁に見受けられる考えです。
もちろん仙道の高藤聡一郎氏の書籍にも見られます。

例えば、気功を実践するときは植物の近くでやるといい、などと言われます。
それは、植物が発する良い「気」を取り込めるからだとされます。植物の種類によって気の性質が異なるとされ、常緑樹、針葉樹の発する気が好まれることがあり、一方、栗の木などのは気功修練にとって良くない気とされています。


 また「外気(外気功)」も有名で、これは気功師の発する気が他者に影響を与えるとするものです。

特に内丹の左密である房中術には、明確にこの気の交流が主張されています。つまり「気の交流によって、互いの気の活動を高める」とか「相手から気を吸収する」などといった説明がされています。

現在までのところ、もちろん科学的によく分かっていません。


 外気功の実験による「気を発する側と受け手側に、脳波の同調が見られた」とか「分子のつながりや電気伝導率に変化が見られた」「植物を切断し、気を照射すると、切断面の傷の治りが早まった」などとする主張はあるようですが、まだハッキリ断定的にはよく分かってないようです。

神秘的なことは その支持者達によって、いろいろ言われてきてはいるけれども、今のところは未だ、実験室内では「気の存在」や「外気(気の交流)」は実証できてはいません。


 しかし、あくまで個人的には、「無い」とも言い切れないとも感じています。
というのも、具体的なことは今は noteにはしませんが、生命エネルギーの交流に関して「あれ?ひょっとしたら何かあるんじゃないかな?」と思うような個人的な体験があるからです(ちなみにそれは左密、性的ヨーガではありません!!)。

なので、性的ヨーガが重視されるのは “ ①女性のもつ生命エネルギーによって、修行者の生命活動を活性化するため”(*1,p.155)という主張について論じるのは、難しいところがあるとは確かに感じています。


それでも過大評価はできない

 生命エネルギーの交流というのが実際にあるとした場合には、「性的ヨーガによって、相手の生命エネルギーも利用することができる分、純密よりも強い効果があり、それだけでは不可能な高い境地に達することができる」という主張自体は可能でしょう。

しかし、これについても、もっともらしい根拠を提示するが難しいと考えています。

というのは、性的ヨーガに相当するものは、生命エネルギーの交流というのを認める奥深いヨーガにも、内丹(仙道)にもありますが、述べたように必ずしも高い評価を得てはいないからです。

下層の修行者向けとか、精力が衰えた人向けなんていう評価を受けていたりします。

性的ヨーガを純密よりも高く評価するのは、実践面においても、その明確な根拠が見いだせないことだと考えます。


 ただそうなると、では一体なぜ不淫戒という戒律がありながら、チベット密教(後期密教)では性的ヨーガが高く評価されることもあったのかが疑問になります。

ひょっとしたら、教義、煩雑な儀礼・儀式、複雑な手順をともなった瞑想、仏教教理の難解さ、グルイズムによる前例主義、迷信などに理由があるのかもしれません。

平均寿命なんかも現代日本、先進諸国と比べると ずいぶんと短かったはずで、純密を丁寧に実践する時間が不足気味だったのかもしれません。
そのような中で、チベット密教においては、左密は、生命エネルギーの活動に関してメリットもあったのかもしれません。

私はそのように思うところです。


左密を純密より高く評価し 過大評価することは、根拠が何もなく顛倒した理解によるものだと考えています。


純密と左密

 これはもちろん断定するのが難しいことですが、私は純密がまず先にあり、その純密の実践から、左密が見いだされたと考えています。

人体における、生命エネルギーの活動の重要な起源の一つは、性・生殖に関する神経生理システムであり、そういった性との関連に気づいた実践者が、左密のような方法を見いだしたのだと考えています。

生命エネルギーの活動と人体の性に関するメカニズムに関係があるのだから、性に働きかける左密の方法も、ある場合には効率的に作用すると考えられ、実践されてきたのでしょう。

そしてこれがどういうワケか、他の伝統以上にチベット密教では重視されてきた面もあるようです。


人体の性のシステムが生命エネルギーの活動に関わるといっても、純密によってもその活動が生じるので、それだけで左密尊重にはつながらないし、また左密を用いる場合でも、必ずしも生身のパートナーを必要とする性的ヨーガが必要ということにはならないと考えます。


 密教関連で一部に見られる左密尊重は、何の根拠も無い 顛倒した理解によるものであり、迷信である というのが、この「瞑想する人」note の一貫した考えです。

瞑想により自らの「内なる意識」を知る者には
性的ヨーガの 大印も観想も その他の方法も必要ない

彼は 内なる意識とのヨーガによって
その目的を達成するのだから

これが性的ヨーガの最高の理想であり
純粋なヨーガ(純密)である