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密教について① 起源(直接体験、神秘体験)と問題点

瞑想は宗教など精神的伝統において熱心に実践され培われてきました。しかしこの瞑想する人」noteでは、宗教がその起源というわけではないとしています。

人間自身の内に、生物学的基盤の中に瞑想の起源があると考えています。
瞑想は生物学的基盤をもとに、自然発生したと考えています。

用語解説「瞑想」「密教」「生命エネルギー」など

そして密教もそうだと考えています。密教も人間の生物学的基盤の中に起源があり、自然発生したものだと考えています。


今では瞑想は科学的にも、健康やビジネスの分野でも注目され多くの人が知るところになっています。
実際に瞑想の実践によって、心身共に恩恵を受けている人も多くいるようです。

【 瞑想の効果 】瞑想する人の体験から

そのような広く知られているものとは、毛色の違ったものに密教があります。
密教の実践によって、独特な、異様な体験をすることがあります。
これは瞑想体験や宗教的体験神秘体験などと呼ばれています。

これには体験しないと、ほとんど現実のこととして理解できないようなものも含まれます。

この「体験」もしくは「直接体験」というのは密教の重要な特徴であり、かつ、リスクにもつながることだとも考えています。

引用文献(* )

(* )  ゴーピ・クリシュナ (著) 中島巌 (訳) 『クンダリニー 』平河出版社 2001 

密教の起源

この「瞑想する人」note での密教は、仏教とは定義が違っていて「生命エネルギー(の現象・活動)」を利用する瞑想の実践を意味しています。

これに該当するものは主に内丹(仙道)奥深いヨーガチベット密教(後期密教)の特にゾクリムです。

これら密教の起源は一体何でしょうか?宗教の思想・理論から導きだされたのでしょうか?それとも神の啓示によるのでしょうか?
冒頭にもあるように、私はこの起源は人間の生物学的基盤の中にあり、偶発的な体験によって自然発生したと考えています。

大昔に瞑想などによって意図せず、たまたま生命エネルギーの体験をした人達がいて、自らの体験を考察し研究して実践されるようになったのが密教だと考えています。

今日でもそのような偶発的な体験をする人がいます。

今現在、瞑想が広く実践されるようになっており、合宿・リトリート形式の集中的な瞑想実践に参加する人も増えてきました。

特にそのような人に、独特の瞑想体験、宗教的体験や神秘体験とも呼べるような体験をする人が見られます。
これについては、例えば「ヴィパッサナー 体験」などで検索すると、いろいろと興味深い体験談を目にします。

このような集中的な実践でなくても、独特な体験はもちろんあります。
その中には、「生命エネルギー」の体験とでも呼べるようなものも実際にあります。


「ALIS」で執筆されているメカメカ(@MEKAMEKA )さんの記事です。
瞑想に興味を持って始めたメカメカさんは、どうしたわけだか瞑想中に熱が生じて、さらに「幽体離脱」までしてしまったそうです。


「はてなブログ」で執筆されているルビーさんの記事です。偶発的に特殊な体験をされたようで、瞑想もされるようです。他の記事にも「脊髄を通るエネルギー」「クンダリーニ」や「チャクラ」「幽体離脱」などの記述があります。


意図しない、偶発的な体験談として世界で最も有名なものの一つはおそらくゴーピ・クリシュナ(Gopi Krishna , 1903 - 1984)によるものだと思います。
彼は自ら体験したとする生命エネルギーの体験である、「クンダリニー」の体験を1967年に英語で著しました。

この著書が欧米でも話題になり、正確なことは分からないのですが、ドイツ、当時の西ドイツの有名なマックス・プランク研究所の科学者も関心をもった、というのをどこかで聞いたことがあります(不確かな情報なのですが、実際にその研究所でクンダリニーの研究が一時期 なされていた、というのをどこかで聞いたことがあります)。

書籍『クンダリニー』には瞑想中に生じた その体験の記述があります。

“ 深く深く定に沈む。突然、尾骶骨の先端、結跏趺坐をしている身体が下に敷いた毛布にふれるところで奇妙な感覚が走った。全く異常な感覚ながら、きわめて心地よいので、どうしてもそれに気をとられる。しかし、心がそれに向くと、たちまちその感覚はやんだ。”(* p.6)

“ ...... 心を落ち着けて、また深く定に入る。同じ感覚がよみがえってきた。今度こそ注意を散らすまいとしていると、その感覚はだんだん上昇してくるようだった。自分がゆれているような感じがしてきた。”(* p.7)

“ すると突然、滝がおちてくるような轟音とともに、一条の光の流れが脊髄を伝わって脳天にまで達するのを感じた。
 こうした事態の進展に驚きながらも、...... 精神集中の対象に心をおいたまま同じポーズをとり続けていた。光はますます輝きをまし、音もだんだん大きくなった。身体がぐらっとゆれたとたん、自分が光の輪に包まれて、肉体の外にぬけでた感じがした。
 ...... 私は一点の意識となり、広々とした光の海の中にひたっていた。
 ...... 筆舌につくせない歓喜と至福の明るい海に没入していた。”(* p.7)

ゴーピ・クリシュナの著書にあるのは、偶発的なものとしては最も激しいものの一つです。いきなりこんな体験することは、ほとんどありません。


意図しない、偶発的な生命エネルギーの体験、密教的な体験は瞑想の経験や種類だけではなくて、おそらく本人の素質、体質といったことも関わると思います。
しかし一方で、まだよく分かってはいない、いくつかの条件が整えば、ひょっとすると瞑想実践者の誰もが、意図せずに経験する可能性のあることなのかなぁとも思います。

こういった偶発的な体験によって生命エネルギーの体験が見いだされ、密教が成立していったと考えています。

さらにこの密教的な体験には、「性」との関連を連想するような体験もあります。
密教の体験にはしばしば「歓喜」がともないますが、それを形容するのに「性の快楽」や「女性のオーガズム」といった表現が体験者本人によって選ばれることもあります。

【密教】内なる歓喜 ―― 四歓喜(チベット密教)

ゴーピ・クリシュナの著書の中にも、生命エネルギーと人体の性・生殖の神経生理システムとの関係についての記述があります。

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このように生命エネルギーの体験には、「性」を連想させるようなものがあり、これが左密の起源に通じていると考えます。↓↓

瞑想による偶発的な生命エネルギーの体験
↓↓↓
生命エネルギーを扱う密教(純密)の成立
↓↓↓
性との関係が着目され左密が見いだされる。


これらが密教及び左密の起源に対する私の考えです。

密教と体験至上主義

心身の健康のために瞑想する人たちは、あちこちで おかしな体験をしているわけではありません。むしろ特殊な体験をするのは、ごく少数にとどまり、大部分の人達は「心地よかった」「スッキリした」というもので終始していると思います。

しかし生命エネルギーの体験は異様な体験であり、その体験は密教の起源にもつながっているものだと考えられます。
そしてそういった密教的な体験は自ら直接体験しないと、どうにも理解しようがないことが多いです。

アカデミックな分野では、四歓喜にしろ内丹・小周天にしろ、「チベット仏教」「後期密教」「中国養生・神仙思想」などのテーマで人文研究者らによって学術論文などが執筆されたりします。

【 内丹・小周天 】 ~ 高藤聡一郎 氏の仙道など ~

しかし(ごく一部を除いて)もちろん論文の執筆者には密教的体験がありません。
その場合には、その論文は衒学的なものになりなりやすいだけでなく、要所要所で的を大きく外します。

そういった論文などは学術分野では価値はあるのでしょうが、実践においては、古紙回収を待つ古新聞紙の束のような価値しかありません。

密教は体験しないと理解も、実践もできないです。

密教のこういった性質のため、しばしば密教は(智慧をともなわない)体験至上主義に陥りやすいと言われることがあります。
密教には異様な体験・要素があり、体験至上主義に陥ると、現実・良識の軽視や無視、狂騒、カルトなどといった厄介な問題が生じやすいとされています。

密教の要素が強いチベット仏教では、特にダライ・ラマの属するゲルク派は、その創始者ツォンカパによる顕教と戒律を重視する伝統によって体験至上主義の混乱は強く抑制されているという評価があるようです。

しかしゲルク派は顕教重視のインテリに偏り、本格的な密教修行にたどり着くのが難しいとも言われていて、密教重視といわれるカギュー派や「ゾクチェン」で有名なニンマ派を選ぶ修行者もいるようです。

密教の体験至上主義とオウム真理教

この体験至上主義の罠にハマり暴走したのが、数々の凄惨な事件を引き起こしたオウム真理教だという指摘もあります。

麻原・オウムはチベットやブータンなど各地域の仏教やインドのヒンドゥー教やヨーガの関連に莫大な寄付をして、その修行者の生活環境や寺院・施設の維持などを助けたということもあり、ダライ・ラマなど、そういった分野の有力者との交流があったのは事実です。
カギュー派総帥のカル・リンポチェが来日してオウムの教団施設を訪れるといったことまでありました。

宗教界の超有名人との親しげな交流も、信者獲得の強力な武器となったと指摘されています。
またそういった宗教の実力者も、少なくとも早期には、麻原・オウムの狂気を予見することも、気づくこともできなかったようです。

カル・リンポチェが来日して、静岡県のオウム教団施設を訪れて、麻原を高評価する発言をしたのが1988年8月。
オウム側が体調の悪化したインドのリンポチェを見舞ったのが1989年前半です。

そういった高僧、有力者との交流がある中で、1989年2月には信者殺害事件、1989年11月には凄惨極まりない坂本堤弁護士一家殺害事件が起きています。

瞑想、密教の修行で神通力(超能力)が身につく!!なんて一部の人は言ってますが、麻原・オウムと交流のあった有力者たちは、どうしたわけだか、その神通力が働かなかったようです。

しかし一方では、そういった宗教界の有力者たちは、ある時期からはハッキリした警告も与えていたのは事実のようです。
私はオウムの関係者では全くないので、その内実はよく分からないのですが、オウム裁判や、事件記事、元信者の証言に関する情報の中には しばしばそのことは出てきます。

不確かな情報なのですが、情報の出所は元オウム信者だと思うのですが、ネット上では、かなり早い段階で異常さを見抜き、電話口で麻原に対して怒鳴り叱りとばした日本人の宗教家もいた、という情報もあります。
この宗教家は宗教的体験や密教的な方法にも造詣が深い人物だったようです。

仏教、ヨーガの有力者たちによる麻原への警告の中には、麻原自身の瞑想体験への解釈と その過大評価を戒める内容や、教団運営の問題点、修行に多額の金銭が必要とされること、といったことまで含まれていたようです。


密教的な体験には、しばしば現実(感覚)を逸脱したものもあり、それを重視し、行動基準の大部分のをそれに立脚してしまうと、すぐさまに現実・公序・良識の逸脱につながることになりかねないです。

密教的な体験は、例えば「明晰夢」よりも現実感があることも多く、場合によっては、どうしたわけだか、何か脳内麻薬・分泌物質が関わっているのか分かりませんが、現実よりも現実感があり強烈な体験のようなこともあります。

【 明晰夢の見方 】 無意識から創造性を得る夢見のヒント

より神聖な実相的な現実」というような感覚です。

そして「体験した特別な私たち」と「体験のない世俗一般の彼ら」という構図も生じやすいです。
真実を知り 善で正しいのは、もちろん「体験した私たち」という解釈つきです。

密教は 起源、実践、理解といった、その過程の全てが直接体験に依拠するため、体験至上主義に陥りやすいところがあるのは事実だと考えます。

こういったことが、オウムの暴走の原因に含まれると思います。

密教の問題

オウム、オウム事件に関しては、いろいろな立場の人が、いろいろなメディアで、いろいろな意見を表明していることであり、また「瞑想する人」note の趣旨とすべきものでは無いため、細かくは触れません。

しかし密教に関心のある者なら、誰もが一度は振り返るべきものであると考えています。

私はオウム真理教は、密教の実践団体、それも日本史上初の集中的な、そして科学技術の発達した現代日本には不釣り合いといえるような規模の 密教の実践団体であったのは間違いないと確信しています。

オウムの教祖 麻原は、一時期は宗教や自己啓発セミナーを金儲けの手段と考える人物と行動を共にしていたり、金銭に執着していたという情報もあります。
しかし一方で、集中的に仙道やヨーガの実践をしていた時期があり、かつ そういった素質もあったようです。特殊な瞑想体験も豊富だったようです。

麻原は実践によって得られた体験、知識、理解、指導法によって、ヨーガや瞑想などに興味のある他者に、強い影響力を及ぼすことができる段階であったのは間違いないと考えています。

また信者達はしばしば、特に「実行犯」と呼ばれるような信者達は、麻原・オウムの指導によって、人生観や価値観に強い影響を及ぼすほど強烈なものを含む、数々の神秘体験を経験したのは間違いないと考えています。

実際に、裁判で自らそう証言する信者もいました。

そうでなければ、ダライ・ラマ法王を広告に持ってきたとしても、宗教に幻滅しがちな 現代の頭の良い理工系の学生を ―― 例え彼らの心の中に、物質的な豊かさでは埋められないような淋しさがあったとしても ―― 引きつけ、従わせることは なかったと思います。

このオウムの神秘体験に関しては薬物、暗闇の修行、断食、断眠、強いストレス、特殊な呼吸法による脳の酸欠などによる単なる脳の誤作動、幻覚であるとする意見がありますが、確かにそういったものに当てはまるものもあると思います。
実際にそういったもので幻覚、神秘体験が生じることは昔から知られている事実だからです。

それらによる幻覚と密教的な方法による体験には、確かに類似するものがあり、区別がほとんどつかないものもあると思います。
密教の方法による体験者の中にも「ある種の成分の影響による意識体験と、密教による体験はかなり似ている」といったようなことを言う人もいます。

しかし私は、これはなかなか難しいことではあると率直に認めますが、だけれども密教的な方法によるものは、それによって生じる特殊な体験をする以前の状態からも ある種の一貫性が見られることが多く、その体験自体にも強さやリアリティなど性質的な違いが見られることが多いと考えています。

オウムの問題は宗教の問題であるだけでなく、密教の問題とも言えます。
オウムの拡大、思想、行動の核心に密教があるからです。そして密教の核心には直接体験があります。
このことに密教の問題の全てが関わっていると考えます。

私の考える密教の問題点は以下のものです。

密教それ自体の問題

密教との不適切な関わり

密教が宗教に含まれるということ(宗教それ自体の問題)

密教それ自体の問題」というのは、述べてきたように密教には異様な体験があるということ、そして体験至上主義に走りやすいということです。

密教との不適切な関わり」というのもオウムを見ればわかりやすいです。
問題のある思想や人物、カルトによる実践、指導、体験の解釈といったものです。

密教が宗教に含まれるということ(それ自体の問題)」というのもあると考えています。
瞑想もそうですが、密教も宗教との関わりが深いです。このことも密教の問題、リスクにつながることだと考えています。

密教が宗教に含まれること ―― だって宗教は妄想でしょ? 

密教は宗教と関係が深く、このことも密教の問題につながると考えています。

この「瞑想する人」における密教に該当するのは、主にクンダリニーなどを扱う奥深いヨーガや、チベット密教、内丹(仙道)です。

ヨーガやチベット密教は宗教と関係が深いです。内丹(仙道)に関しては、宗教と言えるのかは迷いますが、現代ではオカルト、精神世界、スピリチュアルなど宗教的な分野に含まれるところはあると思います。

実際に現代の密教を実践するのは、宗教(精神世界やスピリチュアルなど含む)に興味を覚える人ばかりだと思います。

単刀直入に言うと、宗教は妄想であり、現代文明においては積極的に評価できるものではないと感じています。

宗教は、科学というか、知性の発達した現代においては、迷信と前近代性によって軋轢を生み出すものになっていると、先進諸国の文明水準にある人なら皆がハッキリと、もしくは薄々と感じているところだと思います。

知性水準の向上している現代文明は、宗教の戯言を許容しづらくなっており、宗教は内向きになるか、もしくは信仰を捨て文化遺産として残るか、といった圧力下にあると考えています。

特に米国における瞑想の広がりの背景の一つには、伝統宗教が人々に希望も平安も与えることが出来なくなった、というのもあると思います。


そのため宗教と関係の深い密教と言えど、現代の特に先進諸国においては、その体験を宗教的に解釈すると問題が生じやすく、また、宗教的理想や教義のために密教を実践した場合も問題が生じやすいのではと考えています。

宗教は妄想、フィクションであるというのは、伝統、新興、カルト問わないです。

確かに仏教は、初期の思想に関しては、優れた心理学的なところもあり、現代人のメンタルヘルスや教養に役立つところはあると思います。
禅の思想と実践は昔の武士ばかりでなく、現代の経営者やビジネスマンをも魅了しています。

そういったものとして接する分にはいいと思うのですが、しかし、仏教の中にも、その思想や修行に忠実になろうとすると、現実社会との軋轢を生むものがないと言えるでしょうか?
もしくは実際に出家などした人達によって説かれてこなかったでしょうか?

法華経など、お経、仏典に説かれていることが真実であるとする信仰もみられますが、これには妄想がないと言えるでしょうか?

伝統宗教であれ宗教はしょせんフィクションであるというのは、現代先進諸国で教育、教養の程度が一定水準にある人達なら、あえて口には出さなくても、既に気づいているのではないでしょうか?


そもそも「正しい」宗教なんてあるのでしょうか?
「カルトは問題だが、伝統宗教には問題ない」という人もいますが、しかしカルトと伝統宗教は明確な区別があるのでしょうか?

伝統宗教であるキリスト教は、数々の殺戮に関わってきたうえに終末思想までありますが、カルトでないといえるのでしょうか?

  現代でもこの伝統宗教を信じる人のなかには「聖書は正しいのだから、聖書の登場人物の年齢を逆算すると、神が地球と人間を創造した時期が分かる。紀元前5000年頃だ。ノアの洪水は紀元前3000年頃にあった。恐竜は人間の狩りとノアの洪水で滅びた。 縄文人も、オーストラリアやアメリカの先住民も、みんなノアの子孫」というのを「事実」として信じ、子ども達に教えている人もいるわけですが、これはカルトではないのでしょうか?

(現代でもこの伝統宗教の信者の中には、地球平面説を信じている人がいて、飛行機に乗って他国で開かれる集まりに出席したりする人がいますが、これは明らかに少数派でしょう。)

「宗教は心を豊かにする」と言われることがありますが、それはホントでしょうか?
無宗教で、仕事、趣味、芸術、教養、旅行、音楽、スポーツ、グルメ、女子会、家事、育児 ...... こういったことに熱心で人生の楽しみとする人達は、みんな「唯物的」「物質的」で自己中で、堕落しているのでしょうか?
こういった人達よりも、宗教熱心で、信仰を生きがいにしていて、神に許しと導きを求める人達は みな心が豊かで清らかだと言えるのでしょうか?

「宗教は愛や平和を説く」なんてことを言う人もいますが、実際はどうでしょうか?ホントに宗教は愛や平和をもたらしてきたでしょうか?
実際には、宗教の説く愛や平和というのは、その宗教の説く愛や平和であって、一般の人達が考える愛や平和ではない、というのが真実なのではないでしょうか?

そもそも愛や平和を説くのに、宗教は必要なのでしょうか?
なぜ愛や平和や道徳や心の平安を説くのに、聖典にある あの信じがたい妄想を「真実」「歴史的事実」として真に受けなければならない必要があるのでしょうか?
私は必要ないと思います。

さらに宗教には、この世の「現実」を軽視もしくは罪悪視する教義はないでしょうか?
たとえば「真実」「善」「聖性」はこの世にはなくて、この世は「マーヤー(幻)である」「物質的で堕落したものである」「悪である」とし、修行によって「解脱しなければならない」「この唯物的な世界とは違った真実の世界に到らなければならない」などのような。
「この悪しき世界は、神の裁きによって終末をむかえる。その前に宣教によって多くの人を救わなければならない」のような。

このようなものはカルト思想ではないのでしょうか?現代社会の隅っこで しおらしくしていて、自らの宗教思想を実際の行動に移さない限り、毒ガス兵器をばら撒かない限り、カルトではないのでしょうか?

過去の歴史を振り返れば分かるように、伝統であれ新興であれ宗教はしばしば厄介なトラブルを引き起こしてきましたが、それらを解決してきたのは、宗教でも、神への信仰と祈りでもなくて、人間の良識による現実的な行動です。

今後も魔女狩りや異端狩り、宗教戦争、宗教の暴走を防ぎ、現実的な平和に役立つのは宗教ではなくて、良識だと考えます。

現代先進諸国では宗教は衰退勢力ということもあり、おとなしくしているものが多いです。
しかし密教的な体験には異様な性質もあり、それを宗教の教義で解釈したり、宗教のために密教を実践したりすると、現実との軋轢が生じて問題となることも多いと考えています。
密教にはそれだけの体験がともなうからです。

こういったこともオウムの暴走に表れていると考えています。

密教について② 密教の方向性