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【密教】内なる歓喜 ―― 四歓喜(チベット密教)

チベット密教には四歓喜というものがあります。内丹(仙道)・小周天 以上にマニアックなものです。
瞑想に関心がある人の中には、気功にも興味をもち、そして偶然にも小周天について知るようになる人も、少しはいるだろうと思います。

しかし四歓喜は、ネット上でも情報が乏しく、大部分の人は このnote以外では目にすることはないようなマニアックなものです。
一般的な瞑想に必須の知識というわけではないので、関心ない人は このnote記事を読む必要は全くないです。

また四歓喜については、今のところは「瞑想の書」では扱っていません。


ヨガであれ内丹であれ、密教の実践においては生命エネルギーの体験として、チベット密教の四歓喜のような体験があります。

用語解説:「密教」「生命エネルギー」

今回はこのマニアックな四歓喜についての考察です。
内丹・小周天の記事に同じく、この「瞑想する人」noteはチベット密教の実践を標榜しているわけではないので、要点のみにします(それでも長文です)。

参考・引用文献 

(*1) (*2)は引用文献です。

ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『チベット密教 図説マンダラ瞑想法 』 ビイング・ネット・プレス

チベット密教の瞑想法の実践について書かれています。瞑想の前提として知っておくべき知識も簡潔に述べられています。
究竟次第(ゾクリム)としてナーローの六法が取り上げられており、この中で四歓喜が説明されています。

(*1)   ツルティム・ケサン 正木晃 (共著)『増補 チベット密教』筑摩書房  2008

チベット仏教、チベット密教(後期密教)の歴史、修行の概要が述べられています。

(*2)  アンドリュー ニューバーグ 、ユージーン ダギリ 他著 茂木健一郎 監訳
脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』 PHP  2003

神経学的な視点による宗教的体験、瞑想、「神」、宗教、信仰の考察です。


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四歓喜? なにそれ妄想?

チベット密教での生命エネルギーに相当するのは、ルン(風)、ツンモ(霊的な火、トゥムモ、チャンダーリーの火)などと呼ばれています。

四歓喜というのは、そういった生命エネルギーが人体の脊髄もしくは脊髄付近に沿って存在するとされる、その通り道(中央気道、アヴァドゥーティ、ナーディなどと呼ばれる)を移動するときに(チベット密教では4種に区別されている)独特な歓喜が生じるというものです。

関連note:ヨガのスシュムナー(中央気道)について。バルド、空性大楽


大部分の人は、四歓喜に関する この説明を聞いても「あぁ、なるほど!そうなんですね!」とはならないと思います。何を言っているのか分からないと思います。
そのため、こういった密教的な、生命エネルギーの体験を観念上のもの、つまりイメージや妄想・思い込み、信仰、もしくは信念による自己暗示の体験に過ぎない などという見解を持つ人もいます。

しかし、この見解は間違っています。

直接体験がないと理解しにくいのは当然なのですが、密教的な体験は人体の神経生理に、何らかの変化・活動があることで生じる体験です。

例えば 宗教を信じている人が、「信仰によって私たちの魂は熱く燃え上がるのです」とか「神の導きこそが、私の人生をまぶしく照らす唯一のなのです」と言った場合には、その「」や「」というのは、信仰上の表現や観念 ―― 意地悪く言うと妄想です。

しかし密教的体験における「熱」や「光」の場合には、「熱々の豚骨ラーメン」とか「LEDが光っている」というのと同じように認知できるものです。

ただし、密教的体験での「熱」は、実際に温度が上昇して、それを感じている場合もあると思いますが、「光」の場合には、電磁波としての物理的な光が発生して、それを知覚しているのではなくて、特殊な「知覚・意識体験」によるものだと思います。

同じように この「歓喜」も、人体の神経生理によって「信仰の喜び」といったものとは異質の、実際の歓喜が生じます。


この「瞑想する人」の密教においては、チベット密教の四歓喜という用語をそのまま拝借することがありますが、特に4種の歓喜の区別には言及することはありません。

歓喜の性質 ――「大楽思想」「楽空無差別」 、神経学の考察

四歓喜というのは、述べたように密教によって生じる歓喜、歓喜の体験です。

※この密教の実践によって生じる歓喜を「快楽」と表現するのも見られるのですが、この「瞑想する人」noteにおいては、主に「歓喜」を用います。

この歓喜の性質、感覚は、体験者の実践段階などによる違いがある上に、他者に説明しづらい独特なものです。

しかし「充足的」であり「内的」「精神的」という表現は、まさに適切であるような歓喜です。
そのため、この歓喜は様々な宗教や神秘主義に馴染みやく、実際にそれらの思想・教義や修行に組み込まれてきました。

仏教においてもそうであり、これに関連して「大楽思想」や「楽空無差別楽空無別)」という思想があります。
参考文献『増補 チベット密教』にも述べられています。

“ もともとインドには、究極の知恵は究極の快楽と不可分の関係にあるという認識が存在した。したがって、理想のヨーガには、最高の快楽がともなうはずであった ”(*1, pp.34-35)。

密教の特殊な方法によって  “ 性的なエネルギーは次第に霊的なエネルギーに変換され、ついに頭頂のチャクラに到達したときに、修行者は絶大な快楽のうちに最高の知恵を獲得して、解脱を遂げるとみなされた ”(*1, p.35)。
(※ チャクラとは人体にあるとされる、生命エネルギーの中枢のこと)

“ 大乗仏教にとって最も重要なコンセプトは、「空性」である。その「空性」を性の快楽として把握する見解が登場したのだ。それを「大楽思想」という ”(*1, p.35)。

般若智灌頂という儀礼においては、チャクラを想定し  “ そのチャクラに特有の歓喜を味わう。こうした歓喜の体験を重視する背景には、「楽空無別」といって、叡智が歓喜のかたちをとって顕現するという後期密教に独特の思想がある ”(*1, p.119)。


このように仏教においては、密教(チベット密教)によって生じる歓喜が、仏教の知恵・叡智と結びつきの強いものとして導入されているようです。

そして この歓喜を説明するときに、しばしば「性の快楽」という表現が用いられたりもします。
しかし、これは主観的な体験、感覚なので、ハッキリと断ずることは難しいのですが、私は そのような表現は誤解を招きやすく慎重であるべきだと考えています。

確かに この歓喜はその体験者が「性の快楽」を連想しやすいものであるのは事実です。
しかしだからといって、それと同一であると断じることはできないと考えます。


この歓喜は、実践レベルにもよるのですが、基本的には性の快楽よりも、強くかつ充足的だと言われています。
私の性別は男なので、女性の感覚はよく分からないのですが、少なくとも男性のその感覚よりも、強く充足的で長引くものであります。


参考文献『増補 チベット密教』には、チベット密教の般若智灌頂という儀礼によって歓喜が生じるという説明があります。

“ 彼が味わうべき歓喜は、男性一般が性行為で体験する射精の快楽とはまったく異なるものとされ、私の見解をまじえることをお許しいただくなら、むしろ彼が味わう歓喜は女性の究極の快楽にどこかで通じているようである。”(*1, p.119)

しばしばこの歓喜を表現するのに、特に「女性のオーガズム」が含まれる表現が 用いられます。
その理由としては、人間が経験する数ある種類の喜びの中で、この歓喜を最も形容しやすいものの一つが、それだからです。

男性のは、快楽神経の反射というか刹那的というか、まぁその「精神的・内的」な体験としては、相対的には いわば貧相なものであります。
一方で、女性のは、それが特に良いものであった場合には、強く、豊かで「精神的・内的」な要素があり、心身共に満たされるような体験とされることがあります。

この歓喜を未体験の他者に説明するために、何かに形容するならば、その表現は確かに効果的な場合もあると思われます。
しかしこういった表現には問題もあると考えています。


この歓喜は、人間という「動物」としての本能に根ざすような、強く、原始的で生々しい喜びで、いわば「生」それ自体の喜びと感じられるところもあります。
特にこの点では「性の快楽」というのを連想しやすいです。

さらに、それだけではなくて、人体の内部、意識の内部からやってくるような内的なもので、かつ精神的な要素、身体の感覚だけでなくて精神をも満たすような喜び、というところもあります。
この点では「女性のオーガズム」を連想しやすいです。

そしてさらに、説明が難しいのですが、この内的・精神的な要素が強く感じられ、「肉的な」要素が精神的なものへと昇華されたような、心の奥底から満たされるような喜び、というところもあるのです。
この点においては宗教的、精神的、スピリチュアルな歓喜であり、「法悦」や「至福」を連想しやすいです。

面白いことなのですが、「性」を連想させるほどの原始的で強く生々しい感覚と、「聖」――「法悦」「至福」を連想させるほどに昇華された精神性が同居したような歓喜なのです。

この体験は内なる歓喜によって心身が ―― 「魂」をも ―― 満たされるような体験なのです。

似通っている何かを探しだすのが難しく、表現するのが難しいです。
しかしひょっとすると、私は臨死体験者ではないのですが、その体験をした(特に欧米キリスト教圏の)人がしばしば報告している「(臨死体験中に)光の存在に出会い、圧倒的な愛と歓喜の感情に包まれた」というものの、その「歓喜」、臨死体験者の歓喜にもっとも近いのではないかと思うところがあります。
これに関しては私の直感であって、まったく根拠が提示できません。

とにかくそういったものであり、単純には「性の快楽」とは言えない、もしくは、性の快楽とは違った、と言えるものだと考えています。
このため、この歓喜の性質を説明するときに、「性」に関する表現に重きを置くと誤解を招く可能性があると考えています。


そして密教によって、このような歓喜が生じるのは、人体の神経生理システムによるものだと考えています。つまり人間の生物学的な現象ということです。
進歩の著しい科学の最新の知見が気になりますが、これに関して神経学者によって考察がなされてきました。
参考文献の『脳はいかにして“神”を見るか―宗教体験のブレイン・サイエンス』にもあります。

“ それでは、超越体験のための神経学的機構は、どんな機構に由来しているのだろうか?われわれは、それは、交尾やセックスに関する神経回路から進化してきたと考えている。”(*2, p.186)

“ 何よりも、神秘家たちがみずからの体験を表現するために選んだ「至福」「恍惚」「エクスタシー」「高揚」などの言葉が、この起源を暗示している。「この上ない一体感に我を忘れた」……などという彼らの証言が、性的な快感を表現する言葉でもあることは、偶然の一致ではないし、意外でもない。
なぜなら、超越体験に関与する興奮系、抑制系、大脳辺縁系などの神経学的構造や経路は、基本的に、性的な絶頂と強烈なオルガスムの感覚とを結びつけるために進化してきたものであるからだ。”(* 同上)

“ …… 神秘的合一と性的恍惚とは、よく似た神経経路を利用していると言えるのだが、だからと言って、両者が同じ経験であるということにはならない。実際、神経学的に見て、両者の違いはかなり大きい。 ”(* 同上)

“ 性的な恍惚は、主に、比較的原始的な構造である視床下部から生じる。高次の思考過程もセックスの歓びを強めているかもしれないが、セックスがもたらすエクスタシーは、基本的には、肉体的な感触に由来している。”(*2, pp.186-187)。

“ 他方、超越体験は …… 前頭葉やその他の連合野などの高次の認知構造が重大な寄与をしている可能性が高い。瞑想や観想の祈りが心に呼び起こす微妙で複雑なリズムが、この機構を作動させる神経学的なきっかけになっているのだ。 ”(*2, p.187)

内なる火――ツンモ(トゥンモ、トゥムモ、チャンダーリーの火)と内丹の陽気、ヨーガ

チベット密教で四歓喜を得るために、まずはツンモ(霊的な火)を発生させなければならないと説明されています。

ツンモは下腹(下丹田)に発生する「内なる火」です。

※ ツンモ(Tummo  Tumo  ,  gtum-mo)を検索する場合は「トゥンモ」「トゥムモ」「トゥモ」などでも試してみて下さい。「チャンダーリー(チャンダリー)の火」とも言います。

これによって生命エネルギーが「中央気道(アヴァドゥーティ)」を移動することによって各「チャクラ」による歓喜を経験するとされます。


さて、私はこの下丹田の内なる火 ―― チベット密教のツンモと、内丹(仙道)の陽気は同じものだと考えています。

【 内丹・小周天 】 ~ 高藤聡一郎 氏の仙道など ~

つまり このツンモが発生している時と、内丹の陽気が発生している時の人体の神経生理は、同一のものであるだろうということです。

そしてさらに、これはヨーガにも同じものがあります。
古典に言う「アパーナ気とプラーナ気の結合によって生じる熱」がそれです。
ヨーガにおいては、バンダと呼ばれる身体操作とクンバカ(息止め)をともなった呼吸法があり、それはムドラーなどと呼ばれています。

そのムドラーによってアパーナとプラーナが丹田で結合し、熱が生じるとされているのです。

ツンモを発生させる呼吸法と、内丹(仙道、とくに高藤聡一郎氏の仙道)で用いられている武息は、ほぼ一緒の呼吸法です。
ヨーガのムドラーにもほぼ一緒のやり方があります。

しかし四歓喜は内丹の小周天とは違ったものです。


余談ですが、これについてはヴィム・ホフというオランダ人などが有名なのですが、ツンモによって極寒の中、薄着でも平気でいられて、かつ、濡れタオルを体温で乾かすことすらもできると主張する人たちがいます。

これには、寒冷訓練(水風呂や冷たいシャワーなど)や特殊な呼吸法が必要だと考えています。
この特殊な呼吸法は、ヴィム・ホフ氏も提唱しており、ヴィム・ホフ・メソッドで検索すると発見できます。

ただし、武息も含め、これら紹介した呼吸法はどれもクンバカ(息止め)があり、血圧・眼圧上昇など身体に負担をかけるものなので、興味を持っても気を付けて下さい。
実際に、失明や死亡例など深刻な事態も生じています。

四歓喜とクンダリニー

ヨーガでクンダリニー(クンダリーニ)と呼ばれる強めの生命エネルギーや、その体験が知られています。

これはもちろんのことながら、科学的検証がなされておらず、明確な定義がありません。人によってクンダリニーだとする体験内容が違っていたりします。

これについては、私は十分な考察が全く済んでいないのですが、四歓喜とヨーガでいうクンダリニーは似てはいるけれども、違ったものなのではないかと考えています。
クンダリニーや四歓喜は、体験者の実践段階などによって質などに幅があり、その幅や解釈の幅次第では、同じものとしてよい場合もあるのかもしれません。

私はこの四歓喜というのは、ひょっとすると、ヨーガでいうアパーナ気(プラーナ)の上昇と呼ばれるものに相当するのかもしれないと考えています。

四歓喜とエナジーオーガズム

エナジーオーガズムという体験があります。

これは、「瞑想する人」note の趣旨から逸脱する内容を含むため、詳しい解説はしません。グーグル先生に聞いてみて下さい。
このエナジーオーガズムも体験内容に幅があり、人によって説明の幅があります。


こんな面白い記事を見つけました。エナジーオーガズム、クンダリーニに関する体験? ↓↓

http://jikantappuri.hatenablog.com/entry/2018/01/02/152319

http://jikantappuri.hatenablog.com/entry/20180706/1530876844


このエナジーオーガズムの体験者が、その体験をクンダリニー体験であるとする意見は頻繁に見られます。
実際にその体験内容が宗教的、スピリチュアルなものであることも多いようで、また体験者の中には瞑想にかなりの時間を費やすようになる人もいるようです。

この件に関しても、私は十分な考察が全く済んでいません。
現時点では私は、エナジーオーガズムの体験者、特に熟練者の中には実際にクンダリニーを体験した人もいるかもしれませんが、これは、むしろ四歓喜に相当する現象なのではないかと考えています。

エナジーオーガズムの時と四歓喜の時の神経生理には同一のものがあるだろうと考えています。全く同一のものかは、分かりません。

しかしクンダリニーというよりかは四歓喜に相当し、つまり、ヨーガでいうアパーナ気の上昇に相当するものなのではないかというのが、現時点での私の考えです。

ただエナジーオーガズムを実践している人は、そうでない人よりも、内丹など密教の実践で成果を上げやすいということはあると思います。このことは左密にも関することです。


この四歓喜やクンダリニーに関しては、今後さらにnote記事にするかもしれません。