見出し画像

【クンダリニーと歓喜仏】 智慧と慈悲の結合

“ …… 蛇は言った。
「あなたがたは決して死ぬことはないでしょう。それを食べると、あなたがたの目が開け、神のように善悪を知る者となることを、神は知っておられるのです」”  3章4-5


“……「見よ、人はわれわれのひとりのようになり、善悪を知るものとなった。彼は手を伸べ、命の木からも取って食べ、永久に生きるかも知れない」。
……神は人を追い出し、エデンの園の東に、ケルビムと、回る炎のつるぎとを置いて、命の木の道を守らせられた。”  3章22-24

聖書 創世記


歓喜仏(ヤブユム)

引用元:Pinterest

Guhyasamaja-Manjuvajra(グヒヤサマージャの文殊金剛):チベット密教、グヒヤサマージャ・タントラ(秘密集会タントラ)、ジュニャーナパーダ流の本尊のようです。

引用元:チベット仏教普及協会(ポタラ・カレッジ)、2017年春の密教伝授


ヨガや瞑想界隈でよく耳にする「クンダリニー」についての思索の備忘録。


関連note:クンダリニーの生物学的根拠は?――「分かりません」  # 思索 # 瞑想 # ヨガ

「リビドー 」 根源的な情動力、生命力

ヨガや瞑想界隈では、クンダリーニは「性欲」であるという説明が見られます。
クンダリーニは性のシャクティが変換されたものだなどとも言われます。

大雑把には間違っていないのかもしれません。

しかし、性というカテゴリーに閉じ込めてしまうものでもないように感じられます。


 クンダリーニの源は、人間の「情動力」、情動の力であり、それも「根源的な情動力」とも言えるのではないでしょうか。
この「根源的な情動力」を指すものとして、フロイトの「リビドー」という用語は正確な用い方ではないですが、ここではこれを剽窃することにします。

このリビドーこそが、人間の「意識」と「神経生理」にまたがるものであり、「顕在意識」と「潜在・無意識」にもまたがるものであり、人体の生命エネルギー、クンダリーニ体験を引き起こす力であるのかもしれません。

またヨガに言う「チャクラ」「結節(グランティ)」も、リビドーに関わるものかもしれません。

関連note


 またこのリビドーは生命力とも表現できるでしょう。
このリビドー(情動力)としての生命力は、たとえばホメオスタシス、サーカディアンリズム、呼吸や心拍の機能、胃腸の消化や排泄機能のようなものとは違ってはいますが、人間の欲求や感情、意識状態、神経生理に密接に関わるものであり、よりダイナミックな生々しい生命力、シャクティと言えるかもしれません。


思想的には

リビドー、クンダリニー、歓喜仏の思想

渇愛、3グナ、マーヤー

 思想的には、、 この生々しい根源的な情動力、リビドーは、渇愛・愛着、貪瞋痴と密接に関係するものであり、3グナ(サトヴァ、ラジャス、タマス)の活動に、―― インド思想的にもっとマニアックな表現を用いると「マーヤー(幻影)」 に ―― 人間を投げ込む力であると言えるのかもしれません。


「サトヴァにある者は 高い世界に入る。
ラジャスにとらわれる者は 中間の世界にとどまる。
最低の性質であるタマスに沈む者は 下方に落ちる。

グナだけが行為者であると知り グナ以上のものを知る者は 私のもとにくる。
……
 不動のバクティのヨーガによって私に奉仕する者は これらのグナを超越し ブラフマンに達する」

『バガヴァッド・ギーター』第14章

「智慧と慈悲の結合」という思想

瞑想、ヨガによって「眠っているクンダリニーが覚醒すると中央気道を上昇し、全ての蓮華(チャクラ)と結節(グランティ)は貫かれる」とハタ・ヨーガの古典の中にあります。


 このクンダリーニの覚醒・上昇は、「意識とリビドーの結合」の体験と言えるかもしれません。

このときの「意識」というのは、「純粋意識」とか「霊性の意識」などと表現できるものであり、「智慧」とも表現できるかもしれません。

智慧と結合した根源的な情動力 ―― リビドー、生命力 ―― は、ひょっとすると「慈悲」としてあらわれるのかもしれません。


 このような意識体験が、大乗仏教の「空性、縁起、智慧、慈悲、四無量心」というのと関係するのかもしれません。

またヨガやスピ系においては、バクティ思想、梵我一如、ワンネスなどといったもので解釈され得るのかもしれません。
(大乗仏教の空性や縁起を、ヒンドゥー・ヨーガ、ウパニシャッド・ヴェーダーンタ、ワンネスの思想などと同じものだと主張したいわけではありません)

関連note


情動というのは「快」「快楽」「歓喜」というのと、意識および神経生理において結びつくものです。

いろいろと総合的に考えると、「歓喜仏(ヤブユム)」という表現は、なかなか適切で、興味深いものに感じられます。
単に「性的ヨーガ」を示唆するものではないようです。


Via Sacra ―― 聖なる道、歓喜の道

 クンダリーニの覚醒・上昇を、、、、

 根源的な情動力である生命力が、まさに蛇のように「地」を這う状態から覚醒し、スシュムナー・中央気道 ―― 聖なる道(Via Sacra)、勝利の凱旋の道、生命の道、歓喜の道を上昇し、霊性と結びつき、慈悲、聖なる愛、バクティ、霊的な愛に目覚める

 、、、、とスピ的にロマンチックに表現できるかもしれませんね。


実際はどうであれ、あくまで思想的には、という話。

智慧と慈悲の結合という思想は、この瞑想する人noteにおける大印契(マハームドラー)の思索に関係してくるかもしれません。


関連note:霊性と智慧と慈悲。水瓶座の時代(アクエリアン・エイジ)?