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【バクティ】信仰・礼拝の対象について

“ 荒野に 主の道を備え、
砂漠に われらの神のために大路をまっすぐにせよ ”  イザヤ書40:3

イエスは言われた。
「あなた方が、この山でも、エルサレムでもないところで、父なる神を礼拝する時が来る。
まことの礼拝をする者たちが、霊とまこととをもって父を礼拝する時が来る。
神は霊であるから、礼拝する者も、霊とまこととをもって礼拝すべきである」”  ヨハネ福音書4:21-24



またエゴのない愛、ワンネスとかの欧米系スピリチュアルにかぶれた話。

ちょっと弁解も。

弁解note >> 「愛、愛他、慈悲、、」に触れることについて


信仰・礼拝対象について

“ あなたがたはいったい神を誰に似せ
どのような偶像にしたてようというのか ”  イザヤ書40:18

“ 神は死せる者の神ではない。生ける者の神である ”  マタイ福音書22:32他


 この瞑想する人noteでは、「文殊菩薩が本尊」などと言ってますが、あくまで大切な象徴であって、信仰の対象ではないです。
私自身はそういった信仰は凄く苦手です。

個人的には、シク教みたいなワンネス思想の雰囲気がある「偶像(特定のキャラクター)崇拝のない一神教(一なる神)」には面白そうだなと思うこともあるのですが、まぁ、今のところはあんま興味ないっす。


 しかし、信仰・礼拝対象として、個人的に許容するものはあります。
それは意識の内にあるだろうと模索している「霊性」それ自体であり、エゴのない愛、愛他、慈悲、四無量心です。


 意識の内にある「愛・慈悲」それ自体が信仰・礼拝の対象ということです。

奇妙な説明の仕方ですが、人間の意識ー神経生理の内には「愛・慈悲」に関する領域があると言えるかもしれません。


関連note:金剛荘厳(金剛大乗) / マハームドラー(大印契) >> 金剛荘厳(金剛大乗)


・バクティやワンネスの思想

“...…パリサイ人たちは、イエスがサドカイ人たちを黙らせたと聞いて集まってきた。彼らのなかのひとりの律法学者がイエスを試した。
「先生、律法の中で、どの戒めが最も大切なものですか?」

イエスは言われた。
「『思いを尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、主なる汝の神を愛せ』。
これがたいせつな第一の戒めである。
自分を愛するように、汝の隣人を愛せ
これも同様に大切である。
律法全体と預言者が、これら二つの戒めにかかっている」”  マタイ福音書22:34ー40 

“ あなたがたの中で罪なき者が、まず(その罪人に)石を投げよ ”  ヨハネ福音書 8:7


 霊性、エゴのない愛というのを信仰・礼拝対象にするというのは、バクティ・ヨガや、ワンネスの思想に直結するものだと感じられます。


 自らの意識の内にある「エゴのない愛」を礼拝するというのは、これが外に適用された場合には、――― 意識の体験としては――― 「他者を礼拝する」ということになるのかもしれません(金剛荘厳)。

「霊性、エゴのない愛、慈悲」それ自体を信仰・礼拝の対象にするという実践・体験が成立するためには、「他者を礼拝する」という態度・実践が必要になるかもしれません。

ようは、「全てをホトケのあらわれ、神のあらわれと見る」「全てはブラフマンである」「全ての人の内に神性を見る」「ワンネス」というインド系やスピリチュアル系の思想によくあるものです。

たとえばクリシュナ神を信仰崇拝しバクティを捧げる人は、全ての人の内に親愛なるクリシュナを認め、全ての人を親愛なるクリシュナのあらわれだと見て、クリシュナに対するかのような、クリシュナを礼拝するかのような態度で人に接しようとするでしょうということです。


“「主よ、いつ、わたしたちは、あなたが空腹であるのを見て食べさせ、渇いているのを見て飲ませましたか。いつあなたに宿を貸し、裸なのを見て着せましたか。 また、いつあなたが病気をし、獄にいるのを見て、あなたを見舞いましたか』

 すると、王は答えて言うであろう、『あなたがたによく言っておく。わたしの兄弟であるこれらの最も小さい者のひとりに為したことは、すなわち、わたしに為したことなのである」”  マタイ福音書 25:37-40


 分かりづらいし、説明もしづらいことなのですが、意識の体験としてはそうなるかもしれません。

ちなみに、これは客観的な事実に関する言及ではないです。
つまり「実際に全ての人はクリシュナのあらわれであるというのが事実・絶対的真理なんだ!」と言ってるわけではありません。

あくまで信仰的・主観的な態度、体験についての言及です。


・霊性を求め、克己する「勇猛心」

“ 「狭き門からはいれ。
命にいたる門は狭く その道は細い。
そして、それを見いだす者は少ない」”  マタイ福音書 7:13-14

“ 御使いは言った。
「その巻き物を取って食べよ。それはあなたの腹には苦い。
しかし、口には蜜のように甘い」 ”  ヨハネ黙示録 10:9


 仏教、とくにチベット仏教関係の文章を読んだりすると、よく菩提心について「勇猛心・勇猛なる心」という表現を見つけます。
ホトケを求め、菩薩になり、衆生済度せんとする心、決意を「勇猛心」と表現したわけです。

上述の「霊性、エゴのない愛、慈悲」を信仰・礼拝対象にするという実践でも「勇猛心」が必要だと思われます。


仏教であれ、他の信仰、スピリチュアルな実践であれ、霊的・精神的伝統においては、自分自身に取り組むこと、特にエゴの克服というのが説かれてきました。

これは勇猛なことだと評価されるのでしょう。
そもそも勇猛でなければ、エゴに取り組み慈悲を実践しようとはしないでしょう。


 「ワンネスなんだよ!全ては神のあらわれなんだ!」「無条件の愛って素晴らしいよね!」などと言うは易しです。口には蜜のように甘い。

しかし真面目に実践しようとなると、エゴに取り組まなければならないと気づきます。嫌なことが多いです。
実践し、体験し、理解するには苦しいものがあります。腹には苦い。


 また、、、

「スピリチュアルな実践というのは、自分自身の霊的・精神的成長に関することだと言えるのに、なぜ“我”、エゴに取り組む必要があるのか?
我が無くなってしまったら、いったい自分は何者になってしまうのか?
ボウフラのように漂えということか? 他人にとって都合のいい人間になれということか?」

、、、という反発、もしくは恐怖感を感じる人もいます。

こういったことに関しては、瞑想が役に立つかもしれません。
瞑想によって「エゴではない何か」が自分の(意識の)内にあって、それが「エゴよりも重要で本質的」だとなんとなく直感し、感覚する人もいるのではないでしょうか。


生起次第、究竟次第、マハームドラーとの関係

“ イエスは弟子たちに言われた。
「だれでもわたしについてきたいと思うなら自分を捨て、自分の十字架を背負って、私に従ってきなさい。
自分の命を救おうとするものはそれを失い、私のために自分の命をうしなう者は、それを見いだすであろう」 ”  マタイ福音書 16:24-25


 以上、述べてきた「霊性、エゴのない愛、慈悲」それ自体を信仰・礼拝の対象とするという実践の体系に、生起次第究竟次第マハームドラーを組み入れるべきなのでしょう。

関連note:金剛荘厳(金剛大乗) / マハームドラー(大印契) >> 生起次第、究竟次第、マハームドラー(大印契)

「霊性、エゴのない愛、慈悲」自体を信仰・礼拝の対象とし、「他者を礼拝する」という態度・実践を、生起次第とすることができるでしょう。

これにおいて、エゴがある分だけ、また、「低位チャクラと関係が深い」とされる情動が統制されない分だけ、生起次第は成立しないということができます。

そして、つまり、、、

菩提心に欠け
自我にとらわれる者には
生起次第は成立しない

生起次第が成立しなければ
究竟次第は成就しない

生起も究竟もなければ
マハームドラーもない

、、、ということなのでしょう。