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母ではなくて、親になる

娘は2900gになった。3週間前は2200gだったから猛スピードでデカくなっている。もし予定日に出てくるのであれば3000gは超えてきそうな勢いだ。

予定日が早生まれと遅生まれのハザマということもあり、”できるだけ4月2日以降にでておいで!暗くて窮屈かもしれんけどあと2週間の辛抱や…”と、毎日おなかに声をかける。早生まれだと苦労するのかもしれない。大人になれば大した話じゃないけど、小さい頃の約1年の差でほかの子と比べて、体がちいさいだの、できることどできないことが明瞭だの、もし娘がセンシティブなタイプの人間だったら、余計なプレッシャーを感じてほしくない。

身勝手な考え方だが、”女の子に生まれたこと”以外にはいかなる心労もかけたくなかった。子どもの性別を知った日、”こっちに来てしまったか…”と思った。女の子に生まれちゃったから感じるたまの息苦しさを、我が子には味わわせたくないと思ってきたからだ。

とはいえ今はもう、女に生まれたからには私なりの損しない生き方を責任をもって教えてあげるぞ!女も悪いことばかりではないぞ!と意気込んでいる。生まれる前から気負いすぎないようにしたいがムズィ。

母を母親として尊敬できない

里帰りをきっかけに母と20年ぶりの同居をしている。
理由は8歳で私が家出したからだ。当時父母弟の4人家族で、父方の祖父が持つマンションの一室で暮らしていて、祖父母夫婦はそのマンションから約200メートルほど離れた一軒家に暮らしていた。ある日私は、ネグレクト気味の父と3歳下の弟にかかりっきりの母との暮らしが嫌になり、衝動的に祖父母宅に逃げた。8歳の私には、距離からしても自分の意志で祖父母と暮らすこと選んだことをそれほど大ごとには思えなかったのだが、祖父母と父母や親族の間では大ごとだったようだ。

もともと仲いいわけでもなかった、祖父母と父母の関係性は更に良くない方向に転び、険悪な関係のなかを私が自由に行き来することは阻まれた。うっすらと覚えているのは私をかばう祖父と私を取り戻そうとする母の口論。
”とらないで!あなたには育てられない!”とまくしたる母に”とってない!勝手にきただけや!”と言いかえす祖父。以降、超近距離家出生活は私が社会に出る23歳まで続き、祖父母と母はほぼ絶縁状態で今に至る。

出産が間近に迫り、母に私って小さい頃どんなだった?と聞いてみた。
『口が達者でねー大人と話してるみたい。”明石家さんまさん”とか”お友達のおててを拝見したら〜”とかそんな言葉遣いどこで覚えたのって。笑 手のかからないオトナみたいな子どもだった。』朗らかに語る母を見ていると無性にイラだった。それって素直に甘えられずに、いつもオトナの顔色を窺うような子どもにこの環境がさせたのでは?と思ってしまった。

そのせいか、今一緒に暮らすようになって、母の私への”甘え”が辛い。
”動いてるぅ?”と不意にお腹になでられたり、”耳かきしてあげよっか?”という誘いも不快に感じ、触れられることを生理的に拒絶してしまう気持ちがある。これって何か心理的根拠がある現象なんだろうか…よくわからんが…

母はよくゲップをする。食事中もそうでないときも、抑えようという気がないのでゲロゲロわざと音を立てる。炭酸やビールをよく飲み、食事もハスハスと空気ごと勢いよく掻き込むようにして食べる。『ゲップ、家族でも不快だから気をつかってほしい』といったら『ごめんちゃい』と茶化した。仕事から帰るなり”今日ごはんなぁに~なんかいいにおい〜”と子どもっぽい口調で話す。酒を飲みながらスマホゲームをして過ごす。本も読まない。いびきがうるさい。私は妊婦なのに、換気扇の下とはいえ平気でタバコを吸う。

連日続く新型ウイルスに対するニュースを聞いても『いっぺん全員かかったらいいやん〜そうしな免疫なんてつかへんやろ』という。介護職の仕事でお世話をしている高齢者を『あいつらトイレとか自分でできる癖に甘えて、できひんとか文句とか言いよるからな…数ヶ月の命ならまだしも、やってやるとつけあがるからやりたくない』と愚痴を吐いた。地元で定評のあるB級グルメをごちそうしても『これやったら家でも作れそうやな』と簡単にいう。母ということを差し引けば、こんな奴と飯食いたないと言うのが本音だ。

一緒に暮らしてみて、今まで知らなかっただけで、
母はあまりセンスのない女性なんだと落胆した。

母は東北から身寄りのない京都で父と知り合い、20歳で結婚と出産をした。自分の生まれ育った家族を悪く言い、それが嫌で逃げ出して新しく築いたはずの家族をも悪く言う。いまだに祖父のことを”人さらい”といった。この人はこの期に及んでまだそういう言い方しかできないことを残念に思ってしまう。少しくらい祖父にねぎらいの気持ちがあってもいいはずだ。

この20年間、母も母なりに苦労し辛い思いをしてきただろう。その原因が私のせいだと言われても仕方がない。ただ辛く傷ついたことや自分の苦労を理由に人を蔑ろにしたり、さげすんだりしていいわけはない。舅を悪者にし、夫をアスペルガーだといい、自分の息子にすら『あんたは父親に似ていいとこないな』と人格を否定したりする。弟が一番可哀相な立場だというと『そんなん人のせいにしてもしょうがない、自分の責任や』と母は悪びれない。

”母親”という理想像

私が娘だから心を許して言葉を選ばずに話しているだけなのだろうが、幼稚な発言を聞くたび、それが自分の親なのかと思うと情けなかった。50歳を前にしてこの人は今後、一体誰となら信頼関係を築いていけるというんだろうか。

母は弱い人間かもしれない。他人を攻撃する人ほど、ただ強がっているんだと思う。母が毒づくたび、そう言う言い方は思いやりがないとか極端すぎる私が諭すような物言いをすると、アッソと言ってだんまりを決め込み、鼻先をみつめながらしょげる。怒られた小学生みたいだ。

母との関係性は決して悪くはないが、20年もブランクがあるからか”母”という認識よりは20歳としのはなれたよく見知った女性という、なんとも形容しがたい関係性に感じる。別居していた間もそれほど頻繁に会うことはなく、誕生日とかたまの日帰り旅行とか、用事や理由があれば会う程度。お互いに日常的にも普遍的にも母親らしさ、娘らしさを発揮する機会はほとんどなかったなといま改めて思う。

母を責めるつもりも、母が悪いわけでもないとわかっているが、人格形成最盛期のこの20年を一緒に過ごさなかったことで今、母を母親として尊敬できなくて辛いと感じてしまうのだった。それは母親に求める理想像と乖離があるからだろう。

私は彼女の娘として生まれたが、母にしてあげられることができなかった。私も彼女の娘としての実感がないままやり過ごしてしまった。今まさに生まれようとする娘と自分を、自分と母を重ね合わせてみてしまうと不安だった。

娘が産まれようとしている今、思うこと

最近本屋でふと目に留まったのが、山崎ナオコーラ氏の育児エッセイ『母ではなくて、親になる』。数年前に出版された『かわいい夫』の中にも、同じような節が書いてあり、結婚することも出産することも毛頭なかった当時の私にですら印象的な言葉だった。もし自分にそういう日が来たらきっとこの言葉が後押ししてくれるだろうと鮮明に思った。

母親とは子にとって、絶対的な対象でいないとかわいそうだと考えていた。母親が子供っぽくて頼りがいがない、こころのよりどころになれないようでは子が不幸になる。不幸な子にするくらいなら、子どもなんて作らないほうがいいと私はずっと考えてきた。だけど今そういう思いはない。曲がりなりにも私は社会に出て結婚をし、妊娠をする中で強くなれた。私一人であればまだ迷いの中にいたかもしれないが、今はまっすぐに添え木になってくれる夫もいる。

私は子どもにとって、子どもらしくいさせてあげられる親になりたい。泣きたいときに、オトナの顔色をうかがってこらえることがないように。無理にオトナびなくていいように。”母親”という存在は身近なものではなかったが、そのおかげで”母親”に対する先入観がないことはむしろいいことだ。母親の固定概念にとらわれることなく、素直に娘にとって最善の親でありたいと思える。

たとえ娘が早生まれで苦労しようと、多様化する女子の生きざまを息苦しく感じようとも、それはポジティブに一緒に受け止めてあげたい。できればそういう心労を排除してあげたいと手を出したり、行き過ぎた心配をしてしまいかねないが、少しくらいのつらさや苦労はどんなものであれ、人の成長に不可欠なことくらい私もわかる。どんと生まれておいで!私もどんと構えてるから!

いつか背中を押してくれると思っていた、『母ではなくて、親になる』
今がたぶんその時なんだ。

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