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こころに不要な”もの”−こころの治癒⑮

(心のカタチより)

人は人生を歩めば歩む程、自身の心で解決できない感情を心にぶら下げる。それは若く体力のある内は何てこともないが、精神や体りょくの衰えと伴にそのぶら下げ残した事に後悔しだす。それは心の負担となり、切り離す術を持たずそうするしかなかった。

前回「心の病という病」という話をしました。その話では、心を知らず、そして心の病が何者かも知らず、外的刺激や自発的刺激から”暗示”を自身のこころに掛けていた話でした。

「あなたは心の病です」と言われ、”はい!そうです”という人は本来いないはずだが、心に多くの感情をぶら下げ疲れ切っている人は、1つも2つも慣れてしまったのか、すんなりと受け入れもする。

自分の気持ちが”幸せ”ではないことにウンザりしているはずなのに、それを断ち切る術を持たない。ただただ。自身の気持ちで感じればそれを不要と判ることでも、それだけ心身の体りょくを失っている。それに気づくだけで断ち切る理由となるのに。

「心の病」

あなたは何故、自分を”心の病”と思うのですか?
何故、あなたの知る人が”心の病”と決めつけれるのですか?

見れば分かるから?本人が言ったから?心の専門の方が言うから?薬を飲んでいるから?それこそ、そこにいる誰もが暗示を掛け合って心の病でなくても”病”にさせている。救いようがない誤った暗示の使い方で。

もし、それが”心の病”では無くても、相手/自身を”心の病という病”に暗示してしまうのです。本来、暗示は人にとって大切かつ不可欠な”もの”です。その不可欠な”もの”を”心を知らない”がばかりに、その扱いを誤り”害”としています。

暗示とは、人を幸せにも不幸にもできる”もの”。それは扱うのが人であり、自分でもあるのです。だから、その人しだいで良くも悪くも扱えるのです。

例えば”おもてなし”も暗示の一つ。もてなすことでお客様を幸せにさせる術として心使われてます。日本では昔からその術を癒やしに扱いもてなしてきたのです。日本は特に人の心を癒やすことを義務教育の中で学び心身(こころ)に記憶します。

それに気づくか気づかないかは本人しだいではありますが、永き知恵により義務教育が創られた学びです。それを軽々と否定する”もの”とは到底感じられませんが、この日本では多くの人が”なんとなく”でもそこから心を感じることを知り、自身の責任として心扱い覚えたのです。

それを”道徳”とも云い、日本の文化として人々のこころに根付くのです。

「感情を断ち切る」

人は好きなこと嫌いなこと幸せなこと不幸なことを瞬時に判断します。その判断は言うまでもなく心の中にある”気持ち”が伝え知らせるのです。その判断は”気持ちからの感情(きどあいらく)”を湧かし言動で表します。

人は、自分に起きた出来事よりも先に、幸せかそうでないかを”気持ち”によって判断しているのです。

その後、自分に起きた出来事を考えたり思い悩み苦しんでみたりして、気持ちから湧いた感情は更に感情を湧かし囚われるのです。そして、その判断を打ち消すのです。それに気づくだけで、不要となる感情を心にぶら下げないキッカケがあるのにです。

そもそも感情から湧いた感情には「答えがない」のです。それは不要以前に断ち切っても”害”はなく、断ち切るしか方法はないのです。

一つ考えてみましょう。
何故、人は感情からの感情を残してしまうのか。
昔のある方が「何故、1番でないとイケナイのか。2番ではだめなのか」という、名文句がありました。確かに2番でも評価できる事は沢山さると思われます。

でも。1番に勝る2番、3番などはないのです。
心に気持ちから湧く1番めの感情は自身の気持ちを表しとても大切な自分自身(ほんね)です。そしてその感情から湧いた2番めの感情、そのまた感情から湧いた3番めの感情と1番めの感情に勝る”もの”はないのです。それは気持ちから離れれば離れるほどに湧いた感情は自身の気持ちとは異なる”もの”だからです。それは多かれ少なかれ害にしかならないのです。

感情は人の心を表す術。その感情のどれもこれも大切と思い込んでしまえば”心を知らない”がため、不安という感情に変えて残すのです。”答えがない”からそう残さざる負えないのです。

だから。
感情から湧いた感情は有無を云わずに断ち切るが1番です。

意外とスパッと断ち切ってみると、そのこころ軽さに気づけるんじゃないでしょうか。

「軽くする」

ぽち☆は勿体ない根性があり、なかなか物が捨てれないです。とほほ。

だが、
心に湧く感情は意外とバッサばっさと切り捨てることをするのです。もちろん、感情から湧いた2つ目の感情ぐらいは、たまに記憶には残すこともしますが、それはそれが解決できる時まで、その辺に置いておく程度の”もの”です。

たまにはそれを思い起こし解決できることもありますが、大概は記憶の隅へと追いやられ忘れ見失ってしまいます。時間が解決できるレベルの”もの”だから。それぐらいの感情なら”害”とはならないのです。

そんなこんなで自分は気持ちから湧いた感情を1番大切にします。それを”気持ちのままに”と云い、今もこれからも大切に感じ続ける”もの”です。それは相手の心から感じる”気持ちからの感情”も同じに大切にします。

それが自分も相手も1番に求める感情であり、本来それだけ感じれば十分なのです。そして、それを感じることだけを怠らなければいいのです。

物事は日常的に起き自身の心への出来事(ふたん)となります。それが2番め3番めなどの感情と感じるなら、心にぶら下げずスパッと断ち切るのです。

では、その2番め3番めとつづく感情を断ち切ったらどうなるか。考え過ぎればいろいろと思ってしまいますが、さほど”害”はないのです。害と思うのは、先の”考え”や”思う”ことで感情からの感情を湧かした自分が”害”を造っているのです。

そして、その物事に相手がいるなら、その相手もちゃんと解ってます。相手には相手のこととして任してみては如何でしょう。

それが、心を”軽くする秘訣”。
それが、相手を信じると云うこと。

不要と思う”もの”は手放せばいい。それでも必要な”もの”は、離れもせず、寄り添っているのです。

これって、ある意味”開き直り”とも想わせますが、”不要な物は捨てる”と道徳で習っているはずです。それは物を捨てるのではなく”心の負担になるもの”も教えております。考えてみてください。ゴミをポケットに大切に仕舞うとは習ってないですよね。

「番外」

試しに心の病の方は、心にぶら下がった”もの”を一つ捨ててみましょうか。

まずは、まち針か安全ピンを用意してください。
そして、その方は、たぶん安定剤を日々服用しているはずです。その安定剤(クスリ)の表面に怪我をしないように一筋の引っかいた線をつけてみましょう。深く引っ掻かなくてもいいです。

その引っ掻きを一日一日増やし服用してみてください。それには”クスリを飲むな”とは云いません。その線の多さに意味があるのです。そのクスリには意外と”暗示”がぶら下がり心に負担をかけているのです。

もし可能なら1週間でも一ヶ月でも続けてみてください。それを服用することで何が変わるのか。それは”何も変わらない”です。そのクスリには”飲まないと要られない”という暗示がぶら下がっていたのです。

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